北九州は、今年の夏は梅雨明けから夕立も無く、暑い日が続いていました
8月28日は、みやきあるこう会の例会で志賀島を歩く予定でした(12キロ)
しかし、随分前からこの日の天気予報は、「雨」「雨」
その予報は、ズバリ当たりました
福岡市の北西部、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)は漢委奴国王の金印が発見された場所として有名な島です
北九州からも割りと近いし、水族館や公園もあるのですが、前に行ったのはいつだったかな??と首を捻るくらい昔です
私達は北九州からの参加だったので、志賀島の入り口辺りにある「海辺の里」でみやきあるこう会の皆さんと待ち合わせです
志賀島に着いたばかりの時は雨はパラパラだったのですが、段々本降りに
全員、歩き始める時にはポンチョなど雨支度を整えて、出発です
雨の中を歩きます・・・・・
博多湾(福岡湾)の北側を包み込むように伸びている“海の中道”。その先端の橋を渡れば歴史に名高い志賀島です。昭和5年の志賀島橋竣工当時、潮が満ちると西戸崎と志賀島の間は海に沈んでいましたが、橋が出来てからは橋脚のところに砂が溜まりはじめ、ついには陸続きになってしまったようです。こうい状態を陸繋砂州(りくけいさす:トンボロ)と言い、繋がった島のことを陸繋島(りくけいとう)と呼びます。
能古島も見えます
ぼんやりした先には、福岡の街が見えるはずでした
福岡ドームや福岡タワーなどなど
肉眼では、見えたんですけどねぇ~
志賀島橋が見えます あそこを渡って志賀島まで行きます
「金印」も載っていました
志賀島が一躍有名になったのは、「漢委奴国王」と彫られた金印が見つかったことによります。これは5世紀に編纂された『後漢書-東夷伝』に、後漢の初代皇帝「光武帝」が倭奴国からの使者に金印を授けたと記されてあり、この金印が実際に見つかったことで史記の信憑性が高まり、さらには日本の古代史に大きく光を当てることにもなったのです。金印が贈られたのは西暦57年とあり、日本列島はまだ弥生時代で文字も無かった頃のことです。彫られている文字に対する解釈は諸説ありますが、一般的には「漢委奴国王」は「かんのわのなのこくおう」と読み、委=倭で古代日本を指し、奴国は現在の福岡市付近にあった国だとされています。
金印の発見は1784年(天明4年)2月23日、小作の秀治と喜平が田を耕している時、大きな石の下から金印を見つけ、それを地主の甚兵衛が役所に届け出たことから始まります。福岡藩は亀井南冥ら数名の儒学者に鑑定を依頼。結果『後漢書-東夷伝』に記されている金印と判明、お宝発見となりました。発見場所は島の南側にある金印公園の辺りで、現在は福岡市立博物館に常設展示されています。
雨は降る降る
海沿いの道を歩きますが、海は鉛色、台風や寒冷前線のためか波も高い
片道通行!!! 気をつけて一列で歩きます
金印街道
雨は降ったり止んだりしながらも・・・・
この日は結局、昼食場所の「休暇村志賀島」に到着した辺りで、雨はどしゃぶりになってきました
ポンチョだけでは対応できなくなってきた ><;;;;
残念な事に、ここでこの日のウォーキングは中止となりました
スタート地点の海辺の里までバスで戻る事に
残念でしたが、雨もひどいし、雷もゴロゴロとなっていましたので雷雲も近くにあったのでしょう
石川遼選手が優勝した福岡県 の芥屋ゴルフ倶楽部で行われていたKBCオーガスタゴルフトーナメントも雨で3時間くらい中断したそうですから、やっぱり仕方なかったのかな??
今度は、お天気の良いときに再度行って見たいなと思っています
みやきあるこう会の皆さんには今回も色々とお世話になり、ありがとうございました ^^v
また、参加しますね~♪
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