本日、第58回記念光陽展『広島展』を鑑賞しました。
悠々さん、光陽展広島展会場へ、遅くなりましたけれども本日、行ってきました。 招待券お贈り下さり、たいへんありがとうございました……
今年はぎりぎり本日(6月6日)広島展の千秋楽に間に合った。 ちなみに昨年は「かの宮島」で地獄の6月を過ごしていた結果、光陽展の鑑賞ができなかった。
会場の広島県立美術館に辿り着いたのは午前11時前か? 下手な筆ペンを使い躊躇しながら受付記名を終り、展覧会場に入るや否や斜め後ろから(予定外にも)「女性の御声」が聞こえてきた。 振り向けば、御声の主は、「かの、K女流画伯」ではありませんか。 一昨年?否、悠々さんからご紹介頂いたのは3年前? K画伯が私を覚えていて下さり、会場に入ると同時に呼び止めて下さったこと、たいへん光栄の至りであります。 お忙しいにもかかわらず、御声をおかけ下さり、本年度の傾向その他ご案内下さいましたこと、たいへんありがとうございました。
既に何度も鑑賞している自分の好きな光陽会所属画家の作品は、数年経過し作品は違っていてもすぐ解りました。 新しく創作された作品といえども、それぞれの作風とテーマは整然と同一方向を向かっているのでありまして、今年の作品を拝見すれば懐かしく、お名前はすぐに我が脳裏に浮かんでくる! 久しぶりに各画家の各作品に出合え、これで一安心です。 只、残念だったのは、悠々さん作品が広島へ巡回されていなかったこと。 なんだか今年は東京メイン会場の都合により、作品の大きさと点数に制限があったとのこと、致し方ありません。
K画伯の作品は、今年もまた「群青乱舞(吾輩の勝手な表現にてお許し下さい)」微細な白と微細な各種青色を組み合わせ表現された「心象絵画」なのでありまして、一年間をあけて鑑賞しても、やはりK画伯のアイデンティティーは変化なし。 したがって微細に、昨年一昨年作品から表現変化する「今年の作品」も、展覧会場で出会った瞬間に直ぐにK画伯作品であること判明するのであります。
K画伯の絵画作品から、感じるもの、漂って来るものは、
まず、
クールを通り越して「冷血」。
冷血だから無機物なのであり、
無機物は無機質によって構成され、だから、タンパク質はなし。
タンパク質が無ければ、腐敗はなく、
腐敗がないから、腐臭は一切なし。
絵画から発せられる「匂い」?「臭い」? 悪臭がないのだ。
悪臭がないから、即座には感情が揺るがない。
感情がゆれ動かなければ、精神は安定するか?
(K画伯作品を観賞していて)
精神が安定するとは言わないまでも、なんだか催眠術にかかってしまいそうだ。
催眠術にかかり、そのついでに、なんだか心が吸い込まれそうだ。
心が吸い込まれていくと、身体までも「絵画の中」に吸い込まれていくのではないか?
と、勘違いしてしまいそうだ。
ブルー系の配色は、美しい。 端正だ。 けれども、冷たい。
結論として、この心象絵画でもって「K画伯の心の中身」まで想像できる!と言ったら嘘になる。 K画伯の精神構造の一部分が「この作品に表現されている」として100%読み取れるはずはない。
読み取れないにしても、作品を鑑賞することによって鑑賞者である自分自身が如何様に考えようと、其々鑑賞者の勝手であるか。 ならば吾輩も、K画伯作品を観賞しながら作品の中に入り込み、催眠状態に入り、心地よく「我が精神構造」を勝手に自由に玩んでみたい。
ps: 第58回光陽展・K画伯作品(出品No.67)題目『眠れぬ街』
* 昨年作品は「広島アート」にて公開されていますので、こちらをお開き
悠々さん、光陽展広島展会場へ、遅くなりましたけれども本日、行ってきました。 招待券お贈り下さり、たいへんありがとうございました……
今年はぎりぎり本日(6月6日)広島展の千秋楽に間に合った。 ちなみに昨年は「かの宮島」で地獄の6月を過ごしていた結果、光陽展の鑑賞ができなかった。
会場の広島県立美術館に辿り着いたのは午前11時前か? 下手な筆ペンを使い躊躇しながら受付記名を終り、展覧会場に入るや否や斜め後ろから(予定外にも)「女性の御声」が聞こえてきた。 振り向けば、御声の主は、「かの、K女流画伯」ではありませんか。 一昨年?否、悠々さんからご紹介頂いたのは3年前? K画伯が私を覚えていて下さり、会場に入ると同時に呼び止めて下さったこと、たいへん光栄の至りであります。 お忙しいにもかかわらず、御声をおかけ下さり、本年度の傾向その他ご案内下さいましたこと、たいへんありがとうございました。
既に何度も鑑賞している自分の好きな光陽会所属画家の作品は、数年経過し作品は違っていてもすぐ解りました。 新しく創作された作品といえども、それぞれの作風とテーマは整然と同一方向を向かっているのでありまして、今年の作品を拝見すれば懐かしく、お名前はすぐに我が脳裏に浮かんでくる! 久しぶりに各画家の各作品に出合え、これで一安心です。 只、残念だったのは、悠々さん作品が広島へ巡回されていなかったこと。 なんだか今年は東京メイン会場の都合により、作品の大きさと点数に制限があったとのこと、致し方ありません。
K画伯の作品は、今年もまた「群青乱舞(吾輩の勝手な表現にてお許し下さい)」微細な白と微細な各種青色を組み合わせ表現された「心象絵画」なのでありまして、一年間をあけて鑑賞しても、やはりK画伯のアイデンティティーは変化なし。 したがって微細に、昨年一昨年作品から表現変化する「今年の作品」も、展覧会場で出会った瞬間に直ぐにK画伯作品であること判明するのであります。
K画伯の絵画作品から、感じるもの、漂って来るものは、
まず、
クールを通り越して「冷血」。
冷血だから無機物なのであり、
無機物は無機質によって構成され、だから、タンパク質はなし。
タンパク質が無ければ、腐敗はなく、
腐敗がないから、腐臭は一切なし。
絵画から発せられる「匂い」?「臭い」? 悪臭がないのだ。
悪臭がないから、即座には感情が揺るがない。
感情がゆれ動かなければ、精神は安定するか?
(K画伯作品を観賞していて)
精神が安定するとは言わないまでも、なんだか催眠術にかかってしまいそうだ。
催眠術にかかり、そのついでに、なんだか心が吸い込まれそうだ。
心が吸い込まれていくと、身体までも「絵画の中」に吸い込まれていくのではないか?
と、勘違いしてしまいそうだ。
ブルー系の配色は、美しい。 端正だ。 けれども、冷たい。
結論として、この心象絵画でもって「K画伯の心の中身」まで想像できる!と言ったら嘘になる。 K画伯の精神構造の一部分が「この作品に表現されている」として100%読み取れるはずはない。
読み取れないにしても、作品を鑑賞することによって鑑賞者である自分自身が如何様に考えようと、其々鑑賞者の勝手であるか。 ならば吾輩も、K画伯作品を観賞しながら作品の中に入り込み、催眠状態に入り、心地よく「我が精神構造」を勝手に自由に玩んでみたい。
ps: 第58回光陽展・K画伯作品(出品No.67)題目『眠れぬ街』
* 昨年作品は「広島アート」にて公開されていますので、こちらをお開き