Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

志すは21世紀的ドンキホーテ?
はたまた車寅次郎先生を師に地球を迷走?
気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

東寺に想う(1)

2009-05-27 20:45:45 | つれずれ紀行
<添付画像> 東寺五重塔
(撮影日時):平成21年5月16日 閉館前の午後5時ころ
(天 候):肌寒い超小雨の降りはじめ


 京都市内に入って小雨のぱらつき始めたのは、午後4時30分頃だったか。綾部市経由の団体バスは東寺の大駐車場に着いた。 駐車場から東寺参観受付入口までの通路らしき広場には、小粒の玉砂利が敷き詰めてあるから、歩けばじゃりじゃりと音がする。
 いかにも京都の古刹らしく、足音にも風情の漂うよう仕掛けられているか。
 やや左前方曇天を突いて聳え立つ「漆黒の五枚屋根?」が見え隠れする。距離はまだある。はるか500㍍以上はあると思われる。 そんな五枚屋根構造物は「古さを誇り自慢する?」か!のごとく、すでに受付場付近から望める。

 近づくほどに、もっともっと、五枚屋根の先端棒は高く高く天に向かって突き抜けていくではないか。
 「そりゃそうだ!」
 ピタゴラスか何だかの定理?はたまた三角関数か?に、よれば、五重塔と我輩の距離は狭まれば狭まるほどに、三角形の一隅の角度(サイン?乃至コサイン?もう忘れた!)の角度は広くなり、平行線上の視線から仰角をますわけで、ますます仰角は高くなる。
 いざ、おもむろにデジカメを取り出し、
「さて?日本最大の五重塔の先端までカメラ画像に収まるか?」などと、
ディスプレイ枠をこわごわと覗く。
「入らない!」
そこで思い出した!
今尚敬愛してやまないマグロ姉さんこと「水砂子」さんの南洋空写真の数々を、、、。
 そして、玉砂利広場に腰を下ろした。
 デジカメの位置を、地上すれすれまでに落とし、あらためて眺めたらこの画像の通り、五重塔尖閣までがファインダーに入った。  
 

 仕事柄、過去において世界のあちこちをあるき「どでかい建造物」や「高層建築物」を観てきたけれど、「こんな建築物」が我国日本にあろうとは、(恥ずかしながら)知らなかった。

 餓鬼の頃から木造建築を馬鹿にしていた。
それもそのはず、広島に落ちた原爆は、一瞬にして広島市内の建築物と構造物を一瞬にして灰にした。 唯一残ったのが石とコンクリートでできた「原爆ドーム」だった。 餓鬼の頃に上述事実をまのあたりにし、ヒト歳とって欧羅巴(特に)ギリシャのパルテノン神殿を見たからもう駄目、とことん日本のマッチ箱風ウサギ小屋的建築物を馬鹿にしくさってしまった。
 そしてこの京都旅行。
 はらはらと、目から鱗が落ちました。 ついで、感激の涙が溢れてきました。 ・・ったく、これだけ偉大で美的な木造建築物を見たことがなかったからであります。 もちろん、岩国の錦帯橋は、餓鬼の頃から見ている。 錦帯橋の美しさと技術の精緻さ、木造橋梁としては右に出るものなし。 しかししかし、東寺五重塔が「こんなに大きい建築物」だ!とは、百科事典的データとしては知っていたけれど体感としては知り得ようもなかった。
 火をつければ燃えてしまう、そんな木造建築物を馬鹿にしていた。が、心得違いであった。

 さらに思う。 我国日本の古都、京都は偉大だ、、、。 (・続く・・)


   -----------------------------------------

PS:
* 以下、ウイキペディァ百科事典より、
 東寺五重塔(国宝)
東寺のというよりは京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海により、創建着手にはじまるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられたものである。初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊である大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。江戸時代初期の作風を伝える。