うっかりユーザのパソコン奮闘記

パソコンを使っていて感じたあんなこと、こんなこと、気ままに書いていきます。

自分の名前で出ています

2014年10月02日 | 千差万別

一つのメールアドレスを使い続けると危ないと、次々にアドレスを変える人がいます。
名前を変える人もいます。

みなさんは、ご自分の名前で検索を試みたことがおありでしょうか。
この世には似た人が何人かいると言われるように、特に珍しい名前の方は別として、フルネームが合致する人も何人かいます。
字体違い、文字違い、あるいは何文字かが加わった人を入れると相当な数になります。

検索サイトには、写真まで載りますから、いろんな顔をした自分と同じ名前のおじさんが並びます。
どれかをクリックすると、こういう人でああしてこうしてと、余計なお世話が繰り広げられます。


いつの会合だったか、Hさんから「アクセス権」について話題が提供されたことがありました。
ややこしい問題なので、ぼんやりもののうっかりユーザーは、話の核心をつかみ切れずに、むやみにアクセスされない権利のようなことなのかと、自分の頭の中でお茶を濁しておりましたが、最近、このアクセスされない権利には、忘れられる権利もあるのかと気付きました。

SNSに何か書きこむと、世界中にそのことが知れわたります。
もちろん読む人がいてのことですが、読む人は、ことさらにそのことを告げなくても、家族も知人もいるとみなければなりません。
この人には話してもこの人には言わないということは、SNSに書き込むことではないのです。

話は、夢中になると、冗談と本気の境界をまたぎやすくなって、著名人の場合は、冗談のつもりがその人の全人格であるかのような面白八分の報道が走り回ります。
相手が目の前にいないSNSでは、夢中が夢遊になりやすく、面談会話でつい口走ることが、さらにタガの外れた状態で指が走って、とんでもない話が書きこまれることもあります。

どんなことであれ、書いたものは自分の蒔いた種ですから、まあ仕方がないのですが、何人かはいる同名異人が混同されて、蒔かぬ種が生えてしまうこともあるのがSNSや検索サイトの迷惑なところです。
まったく何も書いたことがなくても、ほかの人の記事から、こんなこともと誤解される場合もあります。

生えてしまった種のうちには、つい油断してこぼれ落ちたものや、風に飛ばされたものもあるでしょう。
そんなものを後生大事に育ててもらっては困ります。
蒔いたつもりでなくても、売っている種の袋にちょっと触って見ただけで、あなたはこれに触りましたねと袋の絵模様が追いかけてきます。
花の種の袋ならよいのですが、通りすがりの立て看板や、街角に貼られてポスターにちょっと触っても、それが履歴になるのです。
付き合った覚えはないのに、などとぼやいてもはじまりません。
相手は正確無比を旨とするコンピューターシステムなのですから。


EUの司法裁判所が、あるスペイン人の検索結果を削除するよう、検索サイトの運営会社に命令を出したことが報じられていました。
スペインのおじさんの、機械に忘れてもらう権利が認められたのです。

あの話は、こんなことだったのだろうかと、想像の網は少し広がっていきます。
どなたかが、網の端を少しまくり上げてくれると、もっと面白いものが見えてきそうな気もします。

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