うっかりユーザのパソコン奮闘記

パソコンを使っていて感じたあんなこと、こんなこと、気ままに書いていきます。

忘れるには覚えようとしなければよい

2014年05月31日 | 忘れかけていたこと

昨日できた操作がもうできなくなった。
そうなる理由には二とおりあるようです。
1.覚えようとするから
2.マニュアルを見ればわかるから

覚えようとするから昨日のことができなくなる、変ですね。
覚え方には、しみこむように自然に覚えるのと、無理やり覚え込むのと、これまた二とおりあるようです。
どちらかが得意だという人はいますが、どちらかが全然ダメという人はいません。
両方ダメでは、その人はいま生きていないはずですから、そんなことはありません。

手順を忘れるのは、その順番だけを覚えようとするからです。
この次はこうして、またその次は、などと順番を覚えて暗記しようなどと思っていたのでは、どこかで間違えばそれで終わりです。
また、操作の理由はなぜかなどと、そんなことを理解しようとしても無理です。
そのことを覚えようとするのでなく、あるいはなぜそうするかなど、わかるはずのないことを考えずに、自分の気に入ったようにうまくやれる方法を見つけながらやっていれば、もう忘れません。

マニュアルでわかるから昨日のことができなくなる、これも変ですね。
マニュアルは、知らないことを一度だけ教えてくれるだけのもので、覚える道具にはならないのです。
たとえ3回通読しても、1回ずつ忘れて毎回新しく読んでいるのと変わりません。
1回読んだら、その部分が消えてなくなるほうが、依存を断ち切るにはよさそうです。

パソコンは、覚えなければならないものではないのでした。
覚えようとしなくても、忘れてしまっても、使えればよいのです。


イラストはこちらから拝借しました。
 ⇒ 駒井病院HP
http://www.komai-hp.com/old.html

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動くほうと動かすほうが入れ替わった

2014年05月30日 | 忘れかけていたこと

むかしのパソコンは、使うほうの人が動かしました。
もし使う人がじっと考え込んでいれば、いつまでも動かなかったのです。
俺も我もとパソコンを手に入れる人が増えると、自分では動かすのが面倒という人もたくさん出てきます。
パソコンはついに業を煮やし、自分で動き出すようになりました。
それがいまのパソコンです。

パソコンに現れる画面は、勝手にどんどん動くようになりました。
じっと考えていた使うほうの人は、そのうちに考えるのも止めて、見ているだけになってしまいました。
それがいまのパソコンです。

パソコンは、動かされるものから動くものになったのです。

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OSの寿命とは

2014年05月29日 | ソフトいろいろ

くるくると変わるOSの寿命は、どういうときに終わりになるのか考えていたら、こうではないかと思い当たりました。

みなさんが使い込んで、FAQのタネが尽きたときが寿命末期らしいのです。
やっと自分の思いどおりに動かせるようになったら、そこでサポート打ち切りの通告が来ます。
それもそのはず、ユーザーが意のままに動かせるものにサポートはいりません。

サポートや修正の必要がなくなれば、する仕事がなくなります。
仕事がなくなれば、すなわち失業です。
プログラムを作る人を、ずっと遊ばせてはおけません。
仕事を作るには、新しいことをさせるしかないのです。

OSやアプリは、使う人のために作られると思っていると、バージョンアップで使いにくくなるのはおかしいという気になります。
もし、使う人のためのものであれば、わざわざ使いにくくされるバージョンアップありえません。
OSやアプリは、何のためにあるのか、それは使う人のためではなく、作る人、売る人のためだったのです。

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書いたものを見ているうちはできたことにならない

2014年05月28日 | 忘れかけていたこと

海難事故発生、マニュアルをめくる、そんなことをしていて間に合うか、だめですね。
つもってから考える愚図麻雀、迷惑ですね。
乗り物は動きます。麻雀は進みます。じっと考えているひまはありません。

ところが、パソコンはじっと考えていられるのです。
じっと考えている傍らに、ノートが置いてあります。
講習会で、講師の話はそっちのけで、進んでいく手順だけを懸命に書きとめたノートです。

帰ってから、だいじなノートを見ながらとにかくやってみます。
なんとかできたようです。
ああよかった、これでできるようになった、その日はぐっすり眠れました。

幾日か経って、もう一度同じことをやってみます。できません。またノートを開きます。
ノートを見れば手順がわかり、なんとかできました。やれやれ。

さて、このユーザーは、パソコンを使えるようになったのでしょうか。
使えるようになるのを邪魔しているのは、パソコンなのか、ユーザー自身なのか、頼りにしてきたノートなのか、なくてもよい、むしろないほうがよいものが一つありそうです。

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自分の音楽はいつも同じがよいか

2014年05月27日 | 千差万別

自分好みのCDを作りたいという方に、ときどき出会います。

CDから音楽を取り込む方法は、こちらをご覧ください。
 ⇒ http://jump.cx/mustocd

お気に入りの曲を、いつも傍らにおいて、すぐにそれだけを聴けるようにしておきたいという気持はわかります。
しかし、自分専用のCDを作る過程では、音質低下という損失が必ず生じます。

音楽のCDにしても、それができるときには、相当音質が犠牲にされています。
オーケストラやバンドの生演奏が与えられる感動の力は、機械を潜り抜けた音にはもうありません。
むかし、ジャズバンドの演奏をわざわざマイクで拾って、スピーカーから歪みきった音を拡大してホールで聞かせられたという体験を、G劇場という名のついた場所で味合わされたことを思い出します。
機械信奉のあの愚行はいまだに続いているのでしょうか。

壊れた音の入ったCDから、パソコンにまた壊して取り込んで、それを再びCDに壊しながら詰め込むことになっても、自分専用であることの魅力には替えられないのでしょう。

飽きっぽい吾人は、同じ曲を同じ順番でいつも聴かされるのはゴメンと言うしかないのですが。
そんなふうにして、米の飯のように飽きなくなってこそ、イージーリスニングの境地に入れるのでしょう。

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名前は呼ぶために付けるもの

2014年05月26日 | ソフトいろいろ

新生児に名前をつけるとき、名前の文字、呼び方、いつ生まれたか、親の名前、この四つのことがらがだいじなのはわかりきった話ですが、パソコンでファイルを保存するとき、昨日書いた三つのことを粗末にしなければ後で困ることはありません。

1.場所をはっきり決める
これは、親の名前に相当します。
いつもいるところはどこか、呼び出すときにはどこを探せばよいのか、せめて「どのあたりを探せば」ぐらいのことは考えられるようにしておかなければ話になりません。
「どこに保存しましたか」「さあ」では保護責任違反、自分が困るという罰を受けます。
「ドキュメント」の中にどういうフォルダーがあるのかは、購入時のフォルダー構成のままでであっても、自分で確かめておきましょう。
建売りでも、自宅の間取りを確かめずに住み始める人はいないでしょう。
保存先をどのフォルダーにするかを確かめるのは、住宅でこの部屋は何に使うかを決めるのと同じです。
寝室も物置も一緒ではいけません。

2.名前は呼び出せるものにする
ファイル名は付いていても、それを見ただけでは中身の見当もつかないのがあります。
どういうファイルなのかわからない名前では、囚人の番号と同じです。
カメラの中の画像のような、仮のファイル名そのままでは、保存には適しません。
名前は親が付けるもの、パソコンのファイル名は、自分ですぐ呼び出せるように、ユーザー自身が考えてつけるものです。

3.拡張子を変えない
ファイルの種類は、拡張子というドット記号で始まる末尾のいくつかの文字で仕分けられます。
アプリから保存した場合には、そのアプリで次回に呼び出せるように拡張子が自動で付けられます。
ファイル名の拡張子の部分はアンタッチャブルです。ファイル名を変えるときは、拡張子の左側で変えなければいけません。
拡張子を変えたらどうなるか、やってみればわかりますが、無期刑で保存場所から出てこられなくなります。

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名前をつけて保存はあわてずにと言いたいのか

2014年05月25日 | ソフトいろいろ

[ファイル] ⇒ [名前をつけて保存] おなじみの手順です。
ところが、最近のアプリには [ファイル] という呼び名を変えてしまって、[名前をつけて保存] をどこに行ったらできるのか、わざわざわかりにくくしてあるものがあります。

作業中には気付かずにお終いまで行って「保存しますか」に「はい」と答えれば [名前をつけて保存] の手続きができるところに案内されます。
パソコンで何か作業を始めたら、そのファイルに早く名前をつけておき、途中でもよいから保存しておけば、何があってもそれ以前の作業がムダ骨になることはないのですが、それをさせません。

人間は生まれたとき早く名前をつける習慣は、どんな民族にもついていることでしょう。
その手続きをわかりにくくするのに理由があるはずもなく、やり方を変えることがよいことという妄信に、ソフトの設計者がとりつかれているとしか思えません。

入口に文字看板を出さないのがスマートなシステムという、わけのわからない記号文化も浸透してきているようです。
新しさを気取ったソフトには、 [ホーム] という意味のよくわからない名前のメニューボタンが、左上のほうのどこかにあります。その隣あたりに文字のないアイコンがあって、▼マークがわざと小さく見難く付いています。
鍵の隠し場所のような嫌らしい感じさえするそのマークをクリックすると、プルダウンメニューメニューが現れて、[名前をつけて保存] がやっと見つかるという、ややこしい仕掛けになっているのが、最近流行のスタイルであるようです。


やっと [名前をつけて保存] を見つけ、何でもいいからとテキトーな名前をつけて [保存] ボタンを押すと、確かに保存はされますが、それがどこに保存されたのかわからなくなっています。

[名前をつけて保存]を実行するときは、三つのことがらをおろそかにしないよう、注意しましょう。
1.場所をはっきり決める
2.名前は呼び出せるものにする
3.拡張子を変えない

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仮の置場はそのときに探すのでは遅い

2014年05月23日 | 忘れかけていたこと

「メモ帳」と「ペイント」を、一度は使っておきましょう。
文字列は「メモ帳」、画像は「ペイント」、瞬時に起動するこのふたつのアプリを、一度使っておくことを、新しいパソコンをお求めの方、これからパソコンという方にお勧めします。

「メモ帳」のプログラムを起動するには、[スタート] → [すべてのプログラム] →[アクセサリ]で、「メモ帳」 をクリックします。

「ペイント」の最初の探し方も同じです。
最初の探し方と、二度目からの探し方は違います。初対面の人は、多少きょろきょろしなければ見つからず、一度会っておけばその次からは探し方が変わるのに似ています。

[アクセサリ]が見つからない場合は、[ドキュメント]の中から何か文章ファイルを探し出し、そこで右クリックして、メニューから[プログラムから開く]→[メモ帳] をクリックします。

「ペイント」の場合も、画像ファイルを見つけて同じ要領で「ペイント」との初対面をすませておきます。

起動したら、そこでいったん「メモ帳」または「ペイント」 を終了します。
こうしておけば、「スタート」のどこかに「ペイント」の起動用アイコンができているはずです。

次にはそこからすぐに起動できます。

Windows 8 の場合の手順は、こちらをご覧ください。
 ⇒ http://jump.cx/w8apr
回りくどさが実感できるでしょう。(笑)

なんでもちょっと覚えておきたいとき、動きの早いアプリをパッと出し、そこを文字群や画像の仮置場にできるようにしておけば、パソコンが目の前にあるのにメモ用紙を探したり紙のノートを開いたりする、どこか間の抜けたことをせずにすむということです。

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引き込まれる迷惑を引き込むほうは感じていない

2014年05月22日 | ソフトいろいろ

近ごろ、急に印刷ができなくなるトラブルがあるようです。

どんなときにも、印刷ボタンを押すと「OneNoteに送る」という窓が現れて、そこから前に進めないといいます。
OneNote という便利なものを作ったから、是非使ってもらいたい、それには、印刷ルートの入口に案内看板を立てておいて、必ず見てもらうようにしよう、まあそんなところなのでしょう。

看板を見させるのは自由と言いたいでしょう。それも迷惑なことではありますが。
見させるのにも度が過ぎて、つかまえて離さないのでは、どこかの街のぎゅう太郎さんと同じです。

ぎゅう太郎に逢わない方法があります。
そこを通らなければよいのです。
いつも通る道に、「OneNoteに送る」という看板の立っていないところを選んでおけばよいのです。

「コントロールパネル」の「デバイスとプリンター」で「既定のプリンター」がどうなっているか、確かめましょう。
「OneNoteに送る」が指定されてあると、その道に連れて行かれます。

既定からはずせばそちらに向かわなくなりますが、通らない道なら、塞ぐだけでなく、なくしてしまうのがいちばん確かなようです。

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選ぶか突っつくかクリックの違い : 違いシリーズ05

2014年05月20日 | 千差万別

マウサーのタイプはふたとおりあるようです。
マウサーとはマウスを使う人、というつもりで名づけてみましたが、人と言ってしまうと差しさわりが出そうなので、マウシングのほうがよいかもしれません。

マウスを勝手に動詞に使ってよいのか、心配になって確かめましたら、なんと「捜し出す」「あさり歩く」という意味もあって、これはうろついた甲斐があったという気分です。

ついでに、マウサーはやはりまずいこともわかりました。
それはネズミを捕る動物でしたから。


さて、言いたかったマウシングのふたとおりとは、「捜し出す」のと「あさり歩く」なのです。
目的がはっきりしていてそれを捜し出す使い方と、目当てなしに眺めてあさり歩く使われ方です。
選ぶか突っつくか、クリックの瞬間がそのどちらだったかによって、結果が変わります。

選んだ場合は、何をどうしたかが自分でだいたいわかっていますから、思いどおりの結果にならなくても、元に戻せばだんだんわかってきます。
しかし、突付きまわした場合は、どこをどう突付いたかが記憶に残りませんから、結果はしっちゃかめっちゃかということになります。


動物が餌を求める姿態は、突っついているほうが可愛く見えます。
マウスで突っつく人は、可愛がられる性格なのでしょう、そのほうが幸せなのはこまったものですね。

写真は、 Seion さんのブログ 「念ずれば花ひらく」 から拝借しました。
 ⇒ http://jump.cx/mejiro

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美と be の違い : 違いシリーズ04

2014年05月19日 | 千差万別

違う言葉に似た音を見つけると、オヤ、全く関係のないことなのだが、どこかでつながっていないかと思いはじめます。

この網に、美と be が引っかかりました。

美も be には、わざとらしさがつきまといます。
嫌らしさもぶら下がります。美と be は似ています。
なんだ、「違う」話ではなかったのかと自問します。そうなんですが、似たところがどこかになければ、「違う」話もできない、そう自答しておきます。

be には、基準をつくることができます。行動基準です。
行動基準というのはなかなか難しく、その基準で行動を縛ってしまうと、それから外れたことには手を出せません。
こういう場合はやってよろしいというのは、言ってみれば無責任な基準です。もし結果が悪ければ、してよいことになっていないのにやった実行当事者だけが悪いということにできますから。
それよりも、してはならないことだけを決めておけばよいのですが。


脱線から戻りましょう。

美には、基準はつくれません。無理につくろうとすれば行動基準と同類になります。

美は無限に続きますが、be はそうはいきません。
美と無縁であれば、昔の be を続けてみても、誰も目を向けないでしょう。

パソコンは be の道具になります。いや、be の道具そのものでしょう。
パソコンは、美の道具にはなっても、それ自体、美そのものにはなれません。

パソコンの画面に現れるものを美に仕立てようとすれば無理が生まれます。Windows 8 もその見本でしょう。
パソコンから美が生まれるのは、それを道具にした be によって感覚が投入されたときです。


渋谷の街からガングロが消え去ったのも、あれは be であって、美ではなかったからでしょう。

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昨日の機能はもう違っていた : 違いシリーズ03

2014年05月18日 | ソフトいろいろ

OSやアプリは、バージョンごとに性格が変わって現れるように思います。
表面性とも言えそうな「見せる」機能、内面性とも言えそうな「使わせる」機能は、性格のわかりやすい側面です。

「使わせる」機能が充実していると、ユーザーは大いに助かります。
同じ名前のソフトでも、「使わせる」機能に重きを置いたバージョンに最初に出会った人は、ユーザーとしての頭の働きを愉しむことができました。
それを使って何かができると考えてきたからです。

時代は目まぐるしく変わります。「使わせる」機能はおととい来いということになって、「見せる」機能にバタバタと入れ替わってしまうと、そのときのビギナーは「見る」ことから始めなければなりません。
ちょうど今がその時代です。

新しいバージョンでは「使わせる」機能は裏口に回されていますから、同じ結果を得るための操作も、正面から入って行ったのでは、いったん「見せる」ところを通らないとそこに行き着かないメニュー構成になっています。
とにかく回りくどいのです。
店頭に並んだ商品を順に見て行かないと、欲しいものの売り場に行き着かないようになっている店舗様式と、どこか似ています。
見て歩くのがショッピングの楽しみという人には、それがちょうどよいのです。

「見せられる」は「魅せられる」に通じます。
ケーザイ・バンザイ時代には「見せる」機能は相性がよいのでしょう。

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テキトー度の違い : 違いシリーズ02

2014年05月17日 | 千差万別

テキトー度などという言葉は辞典には載っていません。
その書き方は正しいですかなどと、どこかのFAQにもし載れば、これを見てくださった方の範囲の広がりを勝手に想像できるぐらいのことでしかありません。

昨日もTVニュースでこんなことを聞きました。
「再発防止のため、管理体制のチェックに万全を期します」という、たびたびある事故後の報道です。
体制をチェックしたところで役にはたたないだろうと、聞けばすぐに思いたくなるような発言ですが、テキトーの度合いもこのぐらいになると、もう上がなさそうな気もします。

テキトー度というのは、ものごとに取り組むときの真剣度の逆数と定義しておきましょう。
たとえば、ブログに写真を載せます。そのとき撮った写真を全部並べて載せればテキトー度が100%に限りなく近づきます。
厳選した写真を選び抜いて、これという1ショットを見せられると、テキトー度は感度の埒外に消え去ります。
その1ショットも、生まれるときには、その人がその場で粘ってその時をつかんでいるのです。
テキトー度が上がってすぐに切り上げていれば、1ショットをつかんだそのときは来なかったでしょう。
真剣度は粘れる度合いとも言えそうです。

そんなものかと、たいがいはやり過ごされるテキトー度も、言ったことは消えても、撮ったもの書いたものには残ります。
うっかり書いていると、テキトー度が沈殿して、ゴミ屋敷条例に抵触することになるかもしれません、くわばらくわばら。

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見つかり度の違い : 違いシリーズ01

2014年05月16日 | 千差万別

ブログの挿入画像の見つけ方について、ある方からお尋ねをいただきました。
何のことはなく、Google のツールバーで「画像」を選んでそこにテキトーな言葉を書き込んでいると、すぐ下にこれを探しているのかというキーワード群が整列してくれるので、その中からまたテキトーなキーワードを選んでクリックするだけのことなのです。
Google のツールバーが出ないようになっていると、そこでちょっとじりじりしなければなりません。
このツールバーはお勧めです。
Yahoo の検索を常用にしておられる方も、ツールバーの左から二つ目の同じような位置にボタンがあります。

画像群がずらっと並んでからどうするか、それは駅前で人を探すのと同じです。
初対面の場合、どういう人かと、こちらがイメージをもつか、相手に目じるしを持ってもらうか、ある程度の準備が要るでしょう。
画像検索では、相手に目じるしを持たせるのはむずかしいので、こちらがイメージを持つしかありません。
言ってみれば心の準備、イメージを持つか持たないかで見つかり度が違ってくるのだと思います。

さて、このタイトル、違いシリーズ01と書いては見たものの、次の「違い」がすぐ見つかるかどうか、これから自分のイメージを検索しなければならなくなりました。どうしたらよいでしょうか。

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見れば気付いて見なけりゃそれまで

2014年05月15日 | 千差万別

「見る」ということは話の種にしやすいものです。
「観光」はその代表です。
「見てきた」というだけで、「よかったね」と言わせる力を持っています。
「見てきた」は、「それがどうした」という返事を出させません。

「・・・は見た」と、これだけでドラマのテーマにもなります。
「見る」ことには、何かに気付く、勿体付け族の言語で言えば、そこに付加価値が生まれるからでしょう。
見なければ気付くことはありません。
何でも見せてやろうは、ビックリさせてやろうに走りがちですが、そうでないサイトもあります。

「ぱふう家のホームページ」もその一例です。
 ⇒ http://jump.cx/pahoo

ホームページというものは、面白いつくりになっていて、入口を通らずに、いきなり部屋に案内されます。
そこで引き揚げたのでは、見たことにならないのがホームぺージの面白さです。
よーく見ると、歴史年表を作ってみましただけではない、何かに気付きます。
何があるかは、百聞・・・・・・のことわざどおりです。

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