うっかりユーザのパソコン奮闘記

パソコンを使っていて感じたあんなこと、こんなこと、気ままに書いていきます。

フォント

2010年11月30日 | 忘れかけていたこと

年賀状の季節になった。
郵便で送る文字は、明朝では固い。業務用文書のようになる。
ゴシックも突っ張った感じがする。これはチラシ向きだろう。
楷書なら教科書体がすっきりして気持ちが良いが、平常の文通には几帳面すぎる。これは招待状か礼状向き。
郵便には、少しやわらかめの行書が向いているように思う。

行書のフォントにもいろいろある。
その中でいちばん先に目に付いたものから1字違いの名前のついているのを2つ選んで比べてみた。

一方は文字間隔がぎゅっと詰まっている。
はがきは普通縦書きにするから、これでは読みにくい。

それなら、もうこのフォントには用がない。
フォントファイルを削除しよう。
フォントファイル群から探し当てたら、ここで試してみた二つのフォントが一つのファイルに入っているではないか。
電子データにもA面/B面、表裏一体のものがあった。

これでは、一方を使わないからといって削り取るわけにいかない。
まあ、誰かさんのように、静かにしていてもらうより仕方がなかろう。


親分の働き

2010年11月29日 | 忘れかけていたこと

11月21日に、「スカイプの入り口に案内してもらったサイトにあるはずのサーバーなどはどこに行ってしまったのか」と訳知り顔にいい加減なことを書いたら、なんと、スカイプにはサーバーがいらないのだった。

「スカイプにはサーバが不要だとのこと、その代わりに1000台程のPCをまとめるスーパーノードという親方がいて、電話帳に相当するものを管理していて、要求が来ると、相手のアドレスを紹介する仲介役をこなすようです」
とMPSの知識の宝庫Tさんから教えていただいた。


子分が1000人か、すごいなあ。1000人を超えたらどうなるのだろう。
そう思っていたら、別の新しい親分がひとりでにできるというから、これがまたすごい。
一人の親分に荷をかけ過ぎるとろくなことはないから、分散して働きを損なわないようにできているという。

http://www.geocities.jp/hibiyank/skypep2p-2.htm

盃がどんどん増えていく、これは興味だけではわからないこと。

役所や会社も、こういうシステムをつくれば、過労死などという働き者が命まで奪われてしまうようなことは起こらないと思うのだが。


ショートカット

2010年11月28日 | 忘れかけていたこと

デスクトップにあったショートカット・アイコンを、スタートボタンのところにドラッグするとスタートメニューにショートカットがコピーされる。
こうしておけば、デスクトップいっぱいにひろげて見たり編集したりしていたことを、ひとまずお預けと最小化のマイナスボタンを押さなくても、スタートメニューからほかのソフトを起動できる。
ちょっとメモを別に取る、ちょっと画像を確かめる、そういうとき、ひろげたままの机の上にもう一つ机の上板を重ねたように作業ができる。

昨日スタートボタンはいらないと書いたが、ここはスタート欄にプログラムをもぐり込ませるときの入り口でもあったのだ。これはうっかりしていた。

さて、スタートメニューにアイコンができれば、もうデスクトップにはいらないだろうと、ごみ箱へポイ。

念のためスタートメニューから起動してみる。おや、お断りがきてしまった。

現れたダイアログ・ウィンドウの中で、昼ひなかなのに懐中電灯がゆれている。
「探しています」と書かれていてもそれはウソ。いきなり「見つかりません」では角が立つからそう言っているだけ。ここでは自分で探す道を選ぶしかない。

あわてずに[参照]の入り口から入っていって、消したアイコンの親元のファイルを探し出し、いったん開けばそれでOK。
ショートカットがその場所を記憶しておいてくれる。
一度やってもすぐ忘れてしまうような私らのボンクラあたまとパソコンの違いがここにある。
パソコンの働きは記憶が中心だから当たり前なのだが。


アイコン退治

2010年11月27日 | 忘れかけていたこと

わざわざ書くことでもないのだが、デスクトップの左下端に[スタート]ボタンがある。

スタートのボタンなのに最後の[電源を切る]ときでないと私はこのボタンを使わない。
終わりのときに使うのは習慣以外に深い理由はない。待て待て、ほかに理由はないのかと、自分のやっていることを終わりまでよく見たら、電源を切る操作に入るのはディスククリーンアップの次なので、そのときにはキーボードに覆い布が掛けられているのだった。

スタートボタンは実用上なくてもよいので、代わりは旗印のウィンドウズ・キーがつとめてくれる。
ウィンドウズ・キーを押せばスタートボタンをクリックしたときと同じようにスタートメニューが現れる。
マウスを握る→それほど大きくないスタートボタンにポインターをあわせる→クリックする。この操作より、ウィンドウズ・キーを押すほうがずっと早い。

スタートメニューの現れる前に、[ウィンドウズ・キー] + [E] と押せばマイコンピューターの画面になる。スタートメニューの現れる前にと書いたが、現れるのを待たなくてもよいということで、現れた後でもかまわない。

この付近のキーは、ずっと押し続けていても連続入力にはならないから叩く感じを出さなくてもよい。

スタートメニューを使いこなせば、デスクトップにあるアイコンをどんどん減らすことができる。
いまは毎日使うつもりのアイコン13個がデスクトップに並んでいるが、これも思い切って減らせば[ごみ箱]と[スタンバイ]のショートカットの2個にできるだろう。


ネット便不便

2010年11月26日 | 忘れかけていたこと

「ネット便不便」、ネット便は不便とも、ネットの便利と不便ともとれる。珍妙な表題になった。

節約しても短縮しても意味のないことを、縮めれば洒落て聞こえる粋にみえると思うのはある種の錯覚だが、錯覚に快感を覚えるとこれがまた病みつきになる。
縮め言葉がはやるわけは一種の社会病だろう。

社会病は法定伝染病には指定できない。防疫に名を借りた取り締まりもできない。
実務で対抗するしか打つ手がなければ、法令の文字をどんどん引き延ばすしかない。
法例文がわかりにくいのはなぜかとずっと考えていて、やっとこの戯れ証明にたどり着いた。

ネットスーパーというシステムがはやりだした。
ネットの便利さが痛感できるが、ちょっとお高くつく。歩かずに買い物をするのだから当たり前である。
この便利さを、むやみに便利がっていると、歩く、人に会う、言葉を交わすという人間の証明の機会を失ってしまう。
本当に歩けない、自分では買い物に行けない人に、真っ先にこの便利なシステムが使われてこそ福祉社会と呼べると思うのだが、どうであろうか。


悪戯

2010年11月25日 | 忘れかけていたこと

呪縛から自力で抜けられないとき、人は悪戯に走る。
同じ民族の住んでいる他国の島に向かって弾丸を撃ち込む。
同じ楽しみを持つことを好まずに他人のブログに向かって卑猥な落書きを投げ込む。
ことの大小はあれ、呪縛に苦しんでいながらそれに気付かない者の行為は似ている。

他者に向かって何か仕掛けても、自我の表れにもならないことに気付かない。
自他の関係の噛み合わせの下手具合が目立つだけに終わる。

下手な者に下手な手助けはかえってよくない。
ブログのコメントには、11月20日の記事にも書いたが、  「コメント管理」という手段があって、悪戯の手助けをせずにバサッと切り捨てる方法が備わっている。

自分のブログに悪戯のコメントを見つけたら、早速その場で「削除」したほうが、世のため人のためのなると思う。
「まあいいわ」は鷹揚でも博愛でもなく、下手な手助けにもなるのだから。

 


噛みごたえ

2010年11月24日 | 忘れかけていたこと

スカイプで peer to peer の接続が出来上がると、その前に使っていたブラウザーや、スカイプの入り口までの案内役サイトにあるはずのサーバーなどはどこかに行ってしまう。
この転換の仕組みがどうなっているのか、その疑問は時間を含めた三次元のややこしいところにあった。

こういういい加減なことを11月21日の記事に書いたが、いまのところおかしいという反応も何もない。

ネットの接続空間を1対1の集まりだから二次元とみたてて、それに時間が加われば三次元だろうとしてしまったところが、あたまの働きの雑な証拠である。
別にだいじな証拠でもないから、あっさり開陳してしまう。

1+1=2、2+1=3という幼稚な算術は、こういうところに持ち込めばたちまち誤算になる。七たび繰り返せばシチゴサンでまことにお目出度いということになる。

ブログやメールを読んでいて、奇異なことには気付かず、何でもないことが無性に気になることがある。
おそらく読むときの気分がそうさせるのだと思う。

なんでもないふうに読ませて少し気になるように、まことに巧い書き方をするブロ友がいる。
そういう人を見習いたいと思うのだが、粗忽が先に立って、なかなか巧くいかない。

ブログやメールを発信すると、食いついて欲しいところは無視されて、思わぬところに噛みつかれることもある。
食いつきと噛みつきは異質であって、食いつかれればある種の快感を得られるが、噛みつかれると違和感~いや感を覚える。
噛みつきに噛み返しを始めると、それが際限なく続くことになるから、さっさとやめよう宣言をすることにしていが、噛み付いた相手は多分噛み応えがないと思っているだろう。


名画

2010年11月23日 | 忘れかけていたこと

名画と呼ばれる絵に簡潔なものは少ない。
絵を見るのは人間である。人間が簡潔なものから感動を得ることが下手ならば、簡潔な絵は名画になりにくいということになるのだろう。

ピカソの名画に婚礼の絵があると聞いて、それがどういうものか、婚礼を描いた絵にはどんなものがあるのかと検索してみた。

ブリューゲル(1525-1569) 「婚礼の踊り」     礼と名づけにくそうな絵
ベロネーゼ(1528-1588)  「カナの婚礼」     ごった返している絵
ルソー(1844-1910)      「婚礼」          葬式のような絵
ピカソ(1881-1973)       「ピエレッタの婚礼」 やや気味の悪い絵
ヒロ・ヤマガタ(1948- )      「婚礼馬車」      主人公が見つかりにくい絵

画家の生存年代順にしたがって婚礼の絵を見ていくと、古いものはお祭のようで、次第に葬儀のように暗くなり、新しいのは大勢集まって賑やかそうだが主人公がどこにいるのかわからない。
何か婚礼様式の遷り変わりを象徴しているかのように見てとれる。

こういう比較は、一つひとつ見て歩いたのではできない。
Webのおかげで、並べてみて全体のイメージから時代の流れなどをつかむこともできるようになっているのだ。


歯ごたえ押しごたえ

2010年11月22日 | 忘れかけていたこと

やわらかいものばかり食べていると歯が弱くなる。
歯と一緒に免疫力も弱くなってくると、強烈に熱いものや硬い魚の骨で口の中についたごくわずかな傷が四五日経つとゴネはじめる。
やけどをしないよう傷つかないよう、なぜ気をつけなかったのかと責めたてられる。
口の中の神経は老化せずにますます鋭敏になっているようで、飲んでも食べても渇いても痛む。

パソコンのきーは軽く叩くもので、ギューギュー押すものではないと思っていた。
ある程度の叩きごたえがあって、チョンと叩けば反応してくれるように、どのキーボードも作られているものだと思っていた。
ところが、このあいだお目にかかったパソコンは、そのあたりの具合がちょっと変わっていたのである。
軽く叩いたのでは入力したことにならない。ソフト・キーとでもいうのだろうか、キーに軽く触れるとじわっという感じが指先に伝わってくる。じわっとくるところを通り越して、ほんのわずかだが押さえ気味にしないと応答してくれないのだった。

こういうキーボードはどんな人向けに作ったのだろうか。
こういうキーボードを好む人がいるのだろうか。
入念行動型の人、押しの強い人、あるいは干鱈やするめの好きな人がそうなのか。


ピア

2010年11月21日 | 忘れかけていたこと

スカイプは、いったん接続できて話を始めると、ブラウザーを終了させても話がつながっている。
こういう通信方式をピアツーピア(peer to peer)と呼ぶそうだが、仲間どうしだけで通信できるこの便利な仕組みが、「そうなって」いるというのは実感できても、「どうなって」いるのかを理解することはまだできていない。

むかし、ブラックボックスという言葉がはやった。
優れた働きをする装置ができて、使い方はわかっても、中がどうなっているのかはわからない。
カラクリは分解していけばわかるが、ブラックボックスは分解しても眼で確かめていくことができない。
理解につとめるのが面倒になると、これはブラックボックスだからと、言い訳にも使われた。

peer to peer も接続状態を眼で確かめることができないうえに、システム全体が眼で見えるものでないからいっそうわかりにくい。
これが1端1字違いで pier to pier なら、桟橋から桟橋を連絡するボート、そんなものがあるかどうかは知らないが、何かモノとしてのイメージが湧いてもくるのだが。

ものごとがわかるわからないと言っても、まるっきりわからないのと、ある部分がわからないのとでは、脳みそのこね回し方が違ってくる。

眼で見えない peer to peer を無理やり図にしてみると、何がわからなかったのかが見えてきた。

載せた図は peer to peer の接続が出来上がった状態だが、その前に使っていたブラウザーや、スカイプの入り口に案内してもらったサイトにあるはずのサーバーなどはどこに行ってしまったのか。
この転換の仕組みがどうなっているのか、そこがわからないのだった。
疑問は時間を含めた三次元のややこしいところにあったのである。


管理

2010年11月20日 | 忘れかけていたこと

「管理」は気持ちのよい言葉ではないが、その手をちょっとゆるめると嫌な思いをする人が増えていく。

人間のすることは、行き当たりばったり気の向くままというのが多いから、まったく自分に無関係の人さまの占有場所に入り込んでくる奴がときどき現れる。

ブログや掲示板は、そういう気まま人がわがままを捨てて歩くゴミ箱にされることが多い。
ブログも掲示板も、コメント管理や投稿承認という関門がもうけてあって、ゴミコメが舞い込めば占有権者が削除できるようになっているが、入り口の扉をどうしておくかが悩みどころでもある。

誰でも入りやすいように開けておけばゴミも入りやすい。閉めておいて一つひとつゴミかどうかを確かめる方法もあるが、サボっているとせっかく書いてくださったまともなコメントも入りそこなって、これは失礼ということになる。

部屋の扉と違って開閉状態がすぐには見えないから、気の向くままに開けたり閉めたりでは、さていまはどっちだったかと、かえって面倒になる。

コメント管理に限らず、管理というものはつくづく厄介なことである。

(コメント管理の例)   http://blog.excite.co.jp/bloghelp/7841199/


レイアウト = 前面

2010年11月19日 | 忘れかけていたこと

「背面」があれば「前面」、オオカミに対するトラもあと四十余日で終わる。
レイオフを連想するのであまり心地よい言葉でないレイアウトのことも、この記事で多分終わるだろう。

図を「前面」に設定すれば、「背面」と逆だから、どこに持って行っても見えなくなることがない。
「前面」設定の図は、もともとあった文字列や図にも覆いかぶさって、さあどうだと頑張る。

私の場合は、図を挿入すると躊躇なく「前面」に設定することにしている。
元気のよいほうが使いやすく、いま扱っている図がよく見えなくては、どこをどうするにも考えがまとまらないからである。

図のレイアウトの設定は、「外周」であろうと「背面」であろうと「前面」であろうと、実はどれでもよいので、最初にどれを選択するかは好みの問題だと思う。
というよりも、いちばん最初に教えてもらった方法が、その人にとってはいちばん使いやすいということなのである。
鳥が最初に近くで見たものを親と思い、ずっとその行動に従うのに似ているような気がする。

隠れて見えなくなった字はどうやって読ませるのか、こういうのを聞くだけヤボと言う。


レイアウト = 背面

2010年11月18日 | 忘れかけていたこと

図のレイアウトに「背面」というメニューがある。
背面といっても後ろから見るわけではない。
これは文字との関係だけでなく、複数の挿入図があって重なり合ったとき、図相互にも見える/見えないという関係が生じてくるのを整理するための設定である。

図を「背面」に設定すれば、画面のいちばん後ろ側に回るから、ほかの図なり文字なりと重なりができても、「背面」以外の図や文字が前に出てくる。
こうしておけば、ほかの図や文字が、後側に行って見えなくなり、あれ?消えてしまったとあわてることがなくなる。

デスクトップの壁紙のように大きな図の上にまた文字や図を重ねていくときは、はじめから裏に回る図を「背面」にしておくと、全体の始末がしやすいということになる。
ただし、図に重なった文字は、そのままでは読めないので、文字を浮き立たせる工夫をしないと、何か書いてあるというだけのものになってしまう。


レイアウト = 上下

2010年11月17日 | 忘れかけていたこと

「四角」と「外周」は、図の周りを文字が取り囲むように配置される設定だが、ほかに「上下」というメニューもあって、これは図の左右に文字が寄ってくることを許さない。文字の両側は空白になる。

図がレイアウトを「上下」に設定されると、たちまち元気がよくなり、その図が文字列の上のほうに押し入れば、上にあった文字列は急いで下に逃げる。
図が下に向かえば文字列は上に飛び上がって避ける。
上を下への大騒ぎとなる。

この「上下」設定は、ページ幅一杯に広がるような図に向いている。
図の幅が大きく左右の隙間が狭いときには、左右に文字列の存在を許さない「上下」の設定のほうが、1行ごとの字数が少なく読みにくい配置にならずにすむ。

しかし、隙間があいていれば何でも詰め込みたがり、びっしりしていればそれでよしとする人もいる。
「上下」設定は、押し寿司の好きな人には多分向かないだろう。


レイアウト = 外周

2010年11月16日 | 忘れかけていたこと

図の[レイアウト]のメニューに、もうひとつつかまえにくい「外周」というのがある。

ワード文書に図を挿入して、「四角」/「外周」と交互に設定を変えて比べてみても、何も変わらない。
「外周」が「四角」と様子が変わってくるのは、図をかたむけたときである。

画像ファイルはもともと四角なものだから、挿入図形を傾ければ図形の占有場所が変わってくる。
それにしたがって文字のゆずり合いの具合を変えていくのが「外周」という設定のはたらきなのだと、やってみてわかった。

「四角」に設定したままで図を傾けると、図の端から端までの高さも幅も広がるから、その分だけ文字が上下左右に追いやられる。

ワードの文書に図を挿入してから、わざわざ傾けて見せようというのは、ごく特殊な場合になると思うが、こういう特別な場合にも対応できますというのが、ソフトウェア作者の自慢のたねになるのかも知れない。