うっかりユーザのパソコン奮闘記

パソコンを使っていて感じたあんなこと、こんなこと、気ままに書いていきます。

YouTube

2011年01月31日 | 忘れかけていたこと
「もっと Google のサービス」の サービスのうちで、これはすごいと思うのが「YouTube」だ。

大げさに言えば、視聴覚メディアに載ったものは何でもござれで復活再生できる。
アップロードの具合で音量音質に適否優劣はあっても、それがTVの、CMと映画の音量差よりも腹立たしくはない。
ただし、長い曲はぶつ切りになっているから満足には聴けない。

前にも書いたが、むかし持っていたレコードで演奏者とメロディだけが頭に残っていた曲名をつき止め、また聴くことができた。

何十年も前の半端な趣味をなぜ今思い出すのか、卒業に至るほど打ち込まなかったからか。
思考停止は突き詰めすぎが因かな、そんな逆説が根気衰退をなぐさめてくれる。

Picasa

2011年01月30日 | 忘れかけていたこと
「もっと Google のサービス」の Gmail には降参させられたが、またまた難敵が現れた。「Picasa」という写真ソフトである。

「Picasa を使用すると写真を美しく編集することができます。 
ボタンをクリックするだけで、お気に入りの写真を友だちや家族と簡単に共有することができます」と書いてある。

難敵と一瞬思ったのが、前に一度付き合いがあったのを思い出した。
「すべてのプログラム」にすでに入っていて起動したら、どこへ行ってしまったのだろうと思っていた写真や参考画像がぞろぞろ出てきた。
いい加減に作ったフォルダーに分けてあるから、掘り返せば何か出て来そうではある。

しかし、物置に押し込んだようなものを誰かと共有するという感覚はどうもよくわからない。
データでもモノでも、「こんなのあるか」と言われれば、探し出して「はいどうぞ」というのが普通だと思っている。
「そこにごちゃごちゃ入っているけれど探して勝手に見ていいよ」は、データの持ち主としての態度としてどうなのだろうか。

こういうシステムは、一人では整理しきれないほどたくさんの画像データを持たなければならない研究機関などでは威力を発揮するだろう。
私らはまあ、大きな保管庫を貸してくれるところが見つかったぐらいに思って、ありがたく使わせていただくことにしよう。

Gmail

2011年01月29日 | 忘れかけていたこと
ブログの次は「Gmail」である。

「現在、<・・・@・・・・> の Google アカウントにログインしています。 
このフォームの入力を完了すると、 Gmail がこのアカウントに追加され、Gmail がメインのアカウント ユーザー名になります」 

こういう表示が真っ先に出てきた。
<・・・@・・・・> は私のメールアドレスだが、ここに書かれている意味がさっぱりわからない。
何かの拍子にアカウントを登録してあるらしいのだが、そのあと意識して使った覚えがない。

知らない国の郵便局に迷い込んだような感じで、さっぱり見当がつかない。
このメールを好んで使っておられる方は、よほど勘の冴えた方なのではないかと感心する。

ここでじっくり構えて、一通だけ自分宛のメール送受信をしてみれば二度目三度目はそのとおりやるだけだからどうということはないのだが、一丁目一番地の案内看板がよく見えないのだ。参った。

コメント

2011年01月28日 | 忘れかけていたこと
ブログの話のついでに、ちょっと寄り道をする。
寄り道といっても、「もっと Google のサービス」街路にある店で一息というぐらいのこと。
思いついたら忘れないうちに、これが寄り道の理由なのだが、何を思いついたのかというと、ブログへのコメントのことである。

コメントにもいろいろな種類がある。
あんなのもこんなのもと書き立てるのは、GEBONに属するからやめておく、と書けば、お前はGEBONでないのか、との自問にさえ返事に詰まるけれども。
多種類とだけ言っておくのがよさそうだ。

グルメにB級とわざわざ書く集客戦法もあるようだが、ここでは私の出会ったA級ブログをとりあげることにする。
実例は次の想像の路地への近道だから。



(B)ある家の通夜に集まった親戚の方々の顔ぶれを見て、「美人は隔世遺伝するのでしょうか」
(C)孫の男子のうち、上の孫は私に、下の孫は私の弟に似ている気がします。
?世遺伝というのでしょうか。
(R)従兄弟同士というのはよく似ているものですね。おじいちゃんと孫の場合でも当てはまるのかもしれません。「従世遺伝」?

(注)(B)は書かれたブログの一部分、(C)はコメント、(R)はコメントへの返事。

(C)がなければ(B)は寂しい。(R)がなければ(C)は張り合いがない。
しかし(R)のあとにまた続けばくどくなる。くどくなれば言い合い書き合いになり、後味がどんどん悪くなる。
ブロガーの品位は(R)に現れる。
ここでまた、わが身を省みると忸怩という言葉を思い出すのである。

Blogger

2011年01月27日 | 忘れかけていたこと

 

どうぞブログをお作りなさい。その道具立てがここ「もっと Google のサービス」の「Blogger」に備わっている。

ホームページはやや静的であるが、ブログは動的のもののように思える。
ツイッターは衝動的といえるだろうか。

動きの態様がどうであれ、情報の出入りがなければこれらの存在価値はない。
「三日前の古新聞」という歌の文句があった。
ブログは三日も経てば賞味期限が切れる。
半年前にこんなことが書いてあったなどと探し出してみたところで、見つけたという意味しかそこにはないだろう。

そうは言いながら、面白いトーク・サイトがあると、さかのぼって聴いてみたくなることもある。
古酒をありがたがるのと似ているのかもしれない。


リーダー

2011年01月26日 | 忘れかけていたこと

「もっと Google のサービス」に「リーダー」というのがあるが、会員制クラブのような感じで、何とも敷居が高そうだ。

「お気に入りサイトの新着情報をすぐにお届け」と説明にはあるが、一日中パソコンとにらめっこしているわけではないから、新着をすぐに届けられても、見なくてもよい広告を郵便受けにぎゅうぎゅう詰め込まれたようになって困惑のたねにしかならない。

このメニューは、受信メールや検索履歴をだいじに保存しておくなど、ふところの広い蓄積趣向をお持ちの方にはよいかもしれない。

一方、データは溜めてみないと用途も用法も見つからないぞという説もある。
ここはいちばん、元気のよい方に、せいぜいむだを試してみていただくより仕方がなさそうだ。


翻訳

2011年01月25日 | 忘れかけていたこと
「もっと Google のサービス」に「翻訳」がある。
元の言語も、翻訳する言語も、50種類以上あるというからこれはすごい。

いろいろな言葉を探ってみるのも面白そうだが、読み方がわからなければ、文字だけでは言葉にならない。
音声を聞くこともできるようになっているが、ここには聞ける言語と聞けない言語がある。
アイスランド語は聞けたが、アイルランド語は聞けない。



KOBANは英語になっていると聞いたが、ここでは違っていた。
日本に来た外国人がKOBANを探していても、それが英語になっているというのは勝手な思い込みではないのか。
相撲はさすがに元の英語がないからSumoと出てきた。音程はひっくり返っていたが。
韓国語は文字からの判読もできなかったが、ここなら一つずつ覚えていけそうだ。
1日1語、1年で365も覚えれば、あとの問題はM&tかな。

トーク

2011年01月24日 | 忘れかけていたこと

「もっと Google のサービス」の共有ドキュメントの次にあって、さらに親近感をもてるようにというのがこの「トーク」である。

ここでは、テキストチャットとボイス&ビデオチャットをウェブ上でできるようになっている。
スカイプのPtoPとは方式がちょっと違うようだ。双方を何度か体験してみないと、実用感覚の違いはわからない。
若い者同士なら、「おお、両方やってみようよ」ということにすぐなるのだが、お互い腰が重くなっているから、だいたい「うーん、そのうちに」で終わってしまう。

『楽しい気持ちを「(笑)」のような文字だけでなく、実際の笑い声や笑顔で伝えることができます。これらのサービスでは、実際に声に出して会話したり、お互いの顔を見ながらビデオチャットすることができます』という説明書きがある。
だが、お互いの顔を直接ならよいがカメラを通すと嫌だという人もいる。
顔と顔の間に、空気以外の光学装置や電子装置などが介在すると不安になるのだろうか。
そのときの相手は一人のはずなのに、ネットに乗ると世界中の人に見られているような錯覚が起きるのだろうか。


ドキュメント

2011年01月23日 | 忘れかけていたこと
名画の修復は別として、絵画は通常別人の筆を受け付けない。
お母さんがクレヨンを持って仕上げる夏休みの宿題絵画ほどばかげたものはない。

文書が、書き手の書くものから、寄ってたかって作るものになってきたのは、いつのころからだろうか。

新聞や雑誌に投稿すると、こう直したらどうかとご親切に修文原稿が送られてくる。
弄り回した原稿では、文に秘めたというほどのことではなくても、読んだ人に感じ取ってもらいたいと、はじめに書いたことが消え去っている。
編集という仕事に熱が入りすぎて、添削に、もっとひどくなれば転作に変貌してしまうのだ。
支援活動が代行受託になりやすいのに、どこか似ている。

「もっと Google のサービス」に「ドキュメント」というのがある。
「オンラインで文書や表計算などを作成して仲間と共有」と、看板の添え書きがある。
ドキュメントを作るソフトをそれぞれが持たなくても、ここで作ればみんなが見られるという仕組みらしい。

共有ファイルは、共同で使うものにはたいそう便利なのだが、入り口の用心をよほどしっかりしておかないと、ドキュメントがドッキリメントになるかもしれないのである。

サイト

2011年01月22日 | 忘れかけていたこと
いわゆる「ホームページ」、それを簡単に作る。初期のころは自分のウェブページをもつのにはひと苦労だった。
専門の用語を覚え、約束ごとを覚え、コツコツと積み上げていかなければでき上がらなかった。

「もっと Google のサービス」のなかにあるこの「サイト」を使えば、ものの数分で自分のページができてしまう、とサービスの中身を確かめずに言い切っても多分間違っていないだろう。

入れものだけはごく簡単にできるのだが、そのあとは昨日書いたグループと同様のことになるだろう。いや、作りっぱなしの罪はグループより重いかもしれない。

作る楽しみは、こちらのほうが大きい。
編みものの習いたての人が、マフラーを編むのとセーターを編むのとの違いか。もっと差があるか。
マフラーぐらいならよいが、下手に編んだセーターをプレゼントでもされたら、これは始末に難渋することになる。

グループ

2011年01月21日 | 忘れかけていたこと

たとえば mpsnnet のような、miurahanto のような、メーリングリストを Google でも作ることができる。その入り口が Google の「グループ」にある。

グループを作るのは簡単にできてしまうから、よし私も、と手をつける人は多い。
しかしその後がどうなのか。
1か月のメッセージ数ゼロが63%もある。
メンバー数ゼロというのはどういのだろうか。幻のグループか。泡沫グループか。
おっと、吾が名も泡沫を象徴しているから、えらそうなことは言えなかった。

1000人以上が17グループあって、これは相当なもの、という見方もできるが、ファンクラブのような、あなたも、わたしも組かもしれない。

数が力と言えるのは、永い永い時間の流れの中のある瞬間だけなのだ。


カレンダー

2011年01月20日 | 忘れかけていたこと
「コミュニケーションと共有」という街路を歩いてみる。
最初の項は「カレンダー」、MPS予定表もこれを使っているのだろうか。

会社勤めのときの、年末のカレンダーくじ引きを思い出す。
あちこちから送られてきたカレンダーをひとところに集めておいて、仕事納めの日にくじ引きをする。こういうときにだけすばしこい人を好き勝手にさせないということもあったが、あれも、仕事以外の声を聞ける少し楽しい職場ゲームだったのだ。


ニール・セダカの古い歌を思い出す。

どこからかカレンダーを送ってくることも、ごく稀になった。
今年は Ecxel で作った自製のPSCでいくことにする。
Sはシンプルだが、Pはピュアかプーアか。

カレンダーがいくつもあると整合修正が厄介だから、Google カレンダーは「結構です」ということにしておこう。

labs

2011年01月19日 | 忘れかけていたこと
Google の「先進的なサービス」に「labs」というのがある。
lab (ラボラトリー:実験室) を集めた公開実験場がここにある。

全部が英語というわけではないのに、labs(英語) と書いた看板の括弧書きが、なにやら嫌味に見える。
そう書いておきながら『 Google Labs は「グーグルラボ」と読みます。』という親切なご案内もある。
案内役の鼻のうごめきが目に見えるような気がする。
先進的サービス案内だから、裏町のパイラーのような素振りは必要ないのだが、英才編集者の生まれ育ちがこういうところににじみ出るのかもしれない。これは失礼。

ここで公開したソフトは、使ってみた人の反応や提案も参考にして改良し、それでよかろうとなれば正式に発表される。もちろんだめなら没になる。
看板の (英語) は、ここでものを言うなら英語でという意味だろうか。

一歩だけ入ってみよう。
「Indic Music Search Google でヒンディー音楽をすばやく簡単に検索」 というところに並んでいる最初の曲を聴いてみる。

これはこれは、想像していたインド音楽とはまったく曲相が違う。
やっぱり吾が頭は遅れているなあ。

Code

2011年01月18日 | 忘れかけていたこと
「もっと Google のサービス」に「先進的なサービス」というのがある。
そのひとつは Code である。一口に言えば約束ごととでもいうのだろうか。

コンピューターのプログラムは、コンピューターが読みとれる言葉で書かれていればどんな面倒な注文をつけられてもそのとおりに動く。
優れたプログラムを作るには、はっきり読めること、順序立てがよいことを要求される。
点ひとつでも間違っていれば読めるプログラムにならないから動かない。
動かす順序が悪かったり、回り道が多かったりすれば、動くには動いても余分な負担がかかり、す早く動かない。
あれもこれも、用心また用心と、ぐずぐず動きの悪かった先代のOSがよい例だろう。

プログラムの内閣府のようなOSと、各省庁のようなアプリケーションプログラムが、巧みに連携を保ちながら、もっとも有効な働きのできるように組み上げるのが、プログラマーの腕の見せどころか。
それにはどうすればよいかを探り出すひとつの場として、Code のサービスが用意されているという見方もできるのではないかと思う。
まあ、うっかりユーザーには手の届かない領域だから、横目で見ておくしかないのだが。

大文字返信

2011年01月17日 | 忘れかけていたこと
Google 検索サービス街の散歩がひと通り終わったので、先週ちょっと引っかかった問題を取り上げることにする。

メールで返信するとき、文字を特別に大きくしたいという方が現れた。
これまで、メールは電報のネット版と思っていたから、文字の大きさを変えてメールを化粧しようなどと考えたこともなかった。
電報にも入れものに凝ったのが使われるのは知っていたが、中身の文字面は単調なものかと思っていた。
朝日のア烏のカと、昔聞いた電報を送るときの局員の声が耳に残っているので、電報というものは、やはり文字をを組み合わせた短文で、メールはそれが電子化されたものという、いわば固定観念がぬぐいきれてないのだ。

「あまり大きすぎるとかえって読みにくいですよ」と言ったら、お目出度メールの返信だから、はじめの文字だけ大きくしたいというご希望なのである。
返信メールの作成画面に編集メニューバーが出てくるから方法はわかるのだが、来たメールによってこのバーが出ないことがあって困るのだという。

Outlook Express で[ツール]→[オプション]の[送信]タブで送信モードを変更できるのだが、そこでHTMLモードにしておいても、テキスト形式で送られてきたメールの場合、返信のとき編集メニューバーが出てこない。



メール送信の形式を「HTML」/「テキスト」と切り替えてみて、自分宛にメールを送り、返信用ウィンドウに文字を変えられる編集メニューバーが出てくるかどうかを試しているうちに、「受信したメッセージと同じ形式で返信する」かどうかを選択できるようになっているのに気づいた。


送られてきたメールがテキスト形式の場合、「受信したメッセージと同じ形式で返信する」という縛りがかかっていると、送信モードがHTMLになっていても、返信はテキストモードになり、返信用ウィンドウのなかでは文字の大きさを変えることができなかったのである。

メールの送信形式の設定欄を表の形にしてあれば、こういうところにも気づきやすいのだが、うっかりを棚に上げてぼやいても仕方がないだろう。