海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

『秘録 沖縄決戦 防衛隊』より1

2009-03-14 23:51:17 | 日本軍の住民虐殺
 本書は沖縄戦から40年目に当たる1985年に、福地氏が元防衛隊員に聴き取りを行い、まとめた証言集である。福地氏の出身地である沖縄島北部大宜味村をはじめとして北部各地域、中南部、宮古、八重山と福地氏は足を運び、計59人の元防衛隊員から証言を集めている。ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊に比べて、防衛隊は話題になることが少ない。しかし、その動員数、死亡者数、動員された人たちの年代の幅など、防衛隊の方が沖縄戦においてより大きな位置を占めるのである。本署の解説で大城将保氏はこう記している。

〈沖縄戦における戦闘協力の主役はいわゆる「防衛隊」であった。
 防衛庁資料によると、第三二軍の全作戦期間を通じて防衛召集を受けたものは約二万五〇〇〇人、うち約三〇〇〇人は中途で正規兵に編入され、最後まで残った約二万二〇〇〇人のうち約六割に相当する一万三〇〇〇人が戦死したという〉(5ページ)

 にもかかわらず、本書が刊行されるまで防衛隊については〈沖縄戦史の前面に登場してこなかった〉と大城氏は指摘し、〈従来の沖縄戦記の盲点〉となっていた理由を次のように分析している。

〈考えられることは、ただ一つしかない。戦場における防衛隊の行動は、旧陸軍の価値観からするとあまり都合がよくなかったからであろう。学徒隊の行動が、「国を思ひ、郷土を愛し、身を挺して祖国のために戦って散った純情と至誠」(『愛と鮮血の記録』)と評価されるのにたいし、防衛隊の戦場行動はあまりに現実的で、生活人としての判断力にもとづいていたからにほかならない。学徒隊がもっとも濃厚に軍国主義教育の洗礼を受けていたのにたいし、防衛隊の方は、一家の大黒柱としての家族の身を案じながら従軍したのであり、イザとなれば妻子のもとに逃げかえって家族の保護にあたるというのが人間としての真情であったであろう。彼らは学徒隊ほど身軽に死地にとびこむわけにはいかなかったのだ。こうした行動が軍隊の論理からすれば卑怯とも見られ、極端には〃逃亡兵〃とか〃スパイ〃という汚名をきせられることになったのだ〉(8~9ページ)。

沖縄戦当時十代後半だった学徒隊員たちは、生まれたときから軍国主義教育の中で育ち、いざとなれば〈身を挺して祖国のために戦〉うよう純粋培養されてきた。それ故に、戦場における彼らの行動と発言が「殉国美談」として語られやすく、一面的に持ち上げられるという傾向はいまも続いている。それに対して、家庭を持ち生活人としての義務を負っていたり、幅広い年代層、社会階層から集められ、多様な価値観を持つ集団であった防衛隊は、戦場における行動も多様であった。中には勝手に戦場から離れて家族の元に戻った隊員もいて、その行動を「殉国美談」として単純に称揚することができない。ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊のように「殉国美談」として物語り化することが難しかったことが、防衛隊がそれまであまり光を当てられてこなかった理由だとすれば、そこにはそれまでの沖縄戦の語られ方、記録のされ方が持っていた、重要な問題がある。
 本書には明治30年代、40年代の人たちの証言も数多く集められている。沖縄戦当時、社会の中堅層として中心的に活動していた世代の証言として、いまでは貴重な記録となっている。語られる内容は飛行場建設や陣地構築、戦闘への参加、装備、衣食住など多岐にわたり、防衛隊の活動が具体的に分かる。その中には日本軍の住民虐殺や防衛隊員への虐待などを語った証言もある。ここではそれらを抜き出して紹介するが、その前に防衛隊とは何かについて、大城氏の解説できちんと認識しておきたい。

〈一般に言われる「防衛隊」には三種類あって、これがしばしば混用されているのでいよいよ正体があいまいになっているのが実情である。第一は、「○○村防衛隊」などの名称で昭和一九年七月ごろ各地の在郷軍人会を中心に編成されたもので、これは正規の法令に基づくものではなく、厳密には義勇隊である。しかし、地域によってこれが沖縄戦の終局まで活躍したところもあって、後の防衛召集者と混同される場合がある。第二は、第三二軍が二次にわたって本格的に防衛召集を実施する以前に、飛行場建設などの目的で臨時に召集されたもので、これは一九年初頭から飛行場地区の在郷軍人を対象に召集されている。ただし、これは防衛召集規則改正以前のことなので、対象年齢もちがえば目的も違ってくる。さきに紹介した防衛庁資料にでてくる数字は第三のグループを指すもので、これがいわゆる「防衛隊」の正体である。ただし、正式には「防衛召集者」であって、隊名も「第○○特設警備隊」などと称するのが正式名称で、「防衛隊」というのは通称でしかない。以前の「○○村防衛隊」と「防衛召集」が混線したせいだろうか。
 以上がいわゆる「防衛隊」だが、さらに弾薬運搬などで臨時に徴集された「義勇隊」なども後に「防衛隊」と呼ばれるようになり、いよいよそのイメージは混然としている。部隊によっては正式の手続きも取らずに手当たりしだいに徴集していたから、本人自身が「防衛隊」なのか「義勇隊」なのかわからない場合も珍しくなかったのである〉(6~7ページ)。

 大江・岩波沖縄戦裁判が起こって以降、「集団自決」の場に防衛隊員が持ち込んだ手榴弾と日本軍との関わりをごまかすために、防衛隊は日本軍とは関わりのない民間の自主的な組織であった、と主張する者たちが現れた。中村黎氏や藤岡信勝氏がその代表格だが、その政治的思惑を持った主張を無批判に、あるいは意図的に引用、借用して、防衛隊は日本軍と関係ないから「集団自決」に日本軍は関与していない、というデマがインターネットその他で流されている。上記の大城氏の防衛隊についての解説を読めば明らかなように、防衛隊という場合にも、在郷軍人を中心とした義勇隊や飛行場建設などに臨時で召集されたもの、正式に防衛召集されたものなどが混同して使われていることに注意しなければならない。中村市や藤岡氏はその混同を利用して、軍に正式に防衛召集された「防衛隊」も、あたかも日本軍と関係ないかのように虚言を流布しているのである。
 しかし、渡嘉敷島の戦隊長であった赤松嘉次氏自身が、防衛隊が自分の指揮下にあったことを認めているし、「海上挺身第三戦隊・陣中日誌」にも以下のように記されている。

〈三月二十四日晴 ……戦隊長左の日命を下達す。陸軍中尉 田所秀彦、渡嘉敷警備隊長となり防衛隊並びに連絡所勤務者を指揮し渡嘉敷村落の警備に任ずべし〉

〈三月二十八日小雨 晴 夜小雨 ……②一四〇〇陣地の北の谷に避難していた住民陣地内に崩れ込む住民の異様なる叫び声阿鼻叫喚の中へ。北方の敵陣地より迫撃砲攻撃を受く、戦隊長防召兵を以て之を鎮めしむ〉

〈四月七日 晴 ……戦隊命令……四、防衛隊長は防衛隊員の大半を蓮下少尉の指揮下に入らしむべし〉

 海上挺身第三戦隊(赤松隊)の「陣中日誌」は1970年に発行されたものであり、注意して読まなければならないが、それにもはっきりと「集団自決」の前、当日、その後と防衛隊・防召兵(防衛召集兵)が赤松隊長の指揮下にあり、その命令によって行動していたことが明記されているのである。
 上記の大城氏の防衛隊についての解説は、『沖縄戦の真実と歪曲』(高文研)にも載っている。それを引用して、藤岡氏らをはじめとした右派グループがまき散らす嘘に反論をしているブログもある。防衛隊についてきちんとした認識を持ち、藤岡氏らの嘘に積極的に反論し、事実を広めていきたいものだ。 

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