23日(日)は沖縄戦慰霊の日で、供え物や線香などを準備してお昼頃、本部町の八重岳にある三中学徒之碑に行って手を合わせた。
私の父も三中の鉄血勤皇隊の一員として、八重岳で米軍と戦っている。
伊江島に上陸する米軍を攻撃するため、大砲を八重岳に運び上げたが、一発も撃たなかった。一発撃ったら百発返ってくるのだから、撃つことはできなかった、と話していた。
私の祖父は避難した今帰仁 . . . 本文を読む
以下の文章は、2017年12月7日発行の『越境広場』4号に掲載された仲里効氏との対談で、沖縄戦について語った部分の引用である。
1930年代になって満州事変や上海事変とかが始まり、1937年に南京大虐殺が起こります。沖縄の人たちもそういう戦地に行っている。1980年代に個人史ブームが起こって、自費出版された本が古本屋で安く売られています。その中にはたいてい従軍体験が載っているわけです。だいた . . . 本文を読む
新型コロナウイルスの感染拡大が始まってから、映画館に行く機会はほとんどないので、五十嵐匠監督『島守の塔』はまだ見ていない。したがって作品については論じられないが、島田知事をめぐる動向については、2014年に安倍首相が「島守の塔」で手を合わせるのを目にする以前から関心を持ってきた。「ヤマトゥの監督による「島守の塔」の映画製作やそれを全面的に支援する県内マスメディアの動きも、先に述べた〈対中国との関 . . . 本文を読む
以下に紹介する文章は、『越境広場』11号(2022年11月20日発行)に掲載されたエッセー「地を這う声のために」の第5回である。
6月23日の沖縄戦慰霊の日は例年、本部町の八重岳にある「三中学徒之碑」や第44旅団国頭支隊の本部壕・野戦病院跡に行き、酒やお茶、お菓子などを供えて線香をあげている。そのあと名護市内の「少年護郷隊之碑」の前で行われる慰霊祭に参加し、最後に名護岳にある「和魂の碑」を訪 . . . 本文を読む
23日(金)は沖縄戦から78年目の慰霊の日だった。
午前中は本部町の八重岳に行き、三中学徒之碑と国頭支隊本部壕・病院壕跡を訪ね、お菓子やお茶、泡盛を供えて手を合わせた。
私の父も78年前、三中鉄血勤皇隊の一員として、この地で米軍と戦っている。当時14歳だった。
今はもう碑の前で慰霊祭は行われていない。それでも高齢の遺族が、家族に支えられて碑に向かい、ご馳走や花を供えて手を . . . 本文を読む
以下の文章は2022年10月27日付琉球新報に〈沖縄人の戦争被害と加害/アジアの虐殺記録されず/植民地支配加担の反省を〉という見出しで掲載されたものです。
沖縄戦の際、本部半島に配置された日本軍(独立混成第44旅団第2歩兵隊や運天港の海軍部隊)は、米軍の攻撃に耐えられず4月中旬には多野岳に敗走する。本部半島や周辺の山に逃げ込んだ日本兵は、昼間は森の中に隠れ、夕方になって米軍が . . . 本文を読む
23日(木)は沖縄戦慰霊の日で、午前中、本部町八重岳に行き「三中学徒之碑」と「国頭支隊本部壕・野戦病院跡」を訪ねた。
「三中学徒之碑」は八重岳の山頂に向かう途中にある。道路を挟んで向かいの森は真部山で、渡具地方面から登ってくる米軍と交戦し、日本軍の兵士や学徒の多くが犠牲となった場所だ。
私の父も三中学徒隊の一員として、この地で戦闘に参加しているので、毎年慰霊に来ている。
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以下の文章は、2021年4月28日付琉球新報に〈沖縄戦犠牲者と新基地建設/本部の山にも戦没者遺骨/辺野古土砂への使用禁止を〉という見出しで掲載されたものです。
子どもの頃、母方の祖母が住む家の隣に喜瀬さんという老夫婦が住んでいた。喜瀬のおじいは家で琉舞を教えていた。縁側には踊りを習いに来た女生徒たちが読むマンガ雑誌が置かれていて、時おり、それを読みに喜瀬さんの家を訪ねた。幼心にやさしい人たち . . . 本文を読む
長田紀春・具志八重子編『閃光の中で/沖縄陸軍病院の証言』(ニライ社)に「第三外科の南風原撤退ーー青酸カリによる自決についてーー」という証言が載っている。編者の1人であり、沖縄戦当時、軍医見習士官だった長田紀春氏(大小九年生)の証言である。
日本軍の司令部があった首里に米軍が迫り、「本土防衛」の時間稼ぎのために軍首脳部は南部撤退を決めた。南風原にあった陸軍病院も南部に移動することになった . . . 本文を読む
23日(火)は正午に黙とうをしてから、本部町の八重岳に向かった。八重岳の山頂近くにある「三中学徒之碑」は、多くの学徒が戦死した真部山と向かいあっている。遠くには伊江島を望むことができる。蝉の声が響く静かな山の緑の下に、今も埋もれている遺骨が数多くあるのだろう。
この碑の前で行われていた慰霊祭は、元学徒の皆さんの高齢化のため5年前に終了した。それでも、碑を訪れて花を手向け、 . . . 本文を読む
16日は本部町の八重岳に行き、三中学徒之碑や国頭支隊の本部壕・野戦病院跡に花やお菓子、水、酒などを供えて御香(うこー)を上げてきた。74年前の4月16日、本部半島の八重岳を拠点にしていた宇土部隊は米軍の猛攻を受け、遊撃戦の展開を理由にしながら名護の多野岳に敗走を始める。
この日はまた、伊江島に米軍が上陸した日でもある。本部半島の本格的な戦闘は終盤となり、八重岳やその周辺では日米両 . . . 本文を読む
8月6日を前後して広島に行く。2011年に来てから6年ぶりに平和記念公園を歩き、リニュアール中の原爆資料館を見学した。
広島県の戦死者は、米軍の原爆投下によるものだけではない。南洋群島に派兵され、どれだけ多くの犠牲者を出したか。その実態にも注目しなければならない、と考えさせられた。
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20日は那覇市新都心の水道タンクがある丘で開かれたシュガーローフ慰霊祭に参加した。お昼過ぎに行くと、展望台のそばに設置された説明版の前にカーサバームーチーが供えられ、サンニンの花が飾られてた。今年は呼びかけが不十分だったとのことで、参加者は少なかったが、黙とうのあと呼びかけ人の具志堅青鳥さんがあいさつし、海勢頭豊さんと娘の愛さんによる「月桃」「喜瀬武原」の演奏があった。
伯母 . . . 本文を読む
3月28日は71年前に渡嘉敷島で強制集団死(集団自決)が起こった日である。今日は所用があってカヌーの活動は休んだが、日に何度も慶良間諸島で起こった惨劇のことを思った。
1945年3月26日、慶良間諸島に米軍が上陸し、沖縄における地上戦が始まった。慶良間諸島に配置されていた海上特攻艇マルレは出撃することなく破壊され、日本軍は山中に逃れる。米軍の攻撃を受けて混乱する中、一般住民にも配布されていた . . . 本文を読む
久しぶりに東京に来ている。今日は午後から神楽坂セッションハウス2Fガーデンで開かれている安世鴻氏の写真展「重重 消せない痕跡 アジアの日本軍性奴隷被害女性たち」を見てきた。
https://www.facebook.com/photographerAhnSehong/photos/pcb.888690277833130/888686671166824/?type=1&theater
昨日は . . . 本文を読む