12日(木)は午後2時48分頃、3回目の資材搬入に抗議する前に辺野古弾薬庫近くの歩道から大浦湾の様子を見た。
サンドコンパクションパイル船(SCP船)やトレミー船など、軟弱地盤改良工事の船が湾内から出ているので、青空の下で広々とした海が気持ちいい。
逆に言えば、新基地建設のために作業船が密集している状態が、いかに圧迫感をもたらしているかを示してもいる。
大浦湾に向かって左側( . . . 本文を読む
以下の文章は2005年5月20日付「沖縄タイムス」に〈日本軍の美談に注意必要/生成AIの政治利用懸念〉という見出しで掲載されたものです。
自民党の西田昌司参院議員が、「ひめゆりの塔」の展示資料を「歴史の書き換え」などと発言し、大きな問題となっている。7月とされる参議院選挙を控えて形だけの謝罪をしているが、本心は変わっていない。曖昧な記憶に基づき、事実を確かめもしないで発言していながら、反省し . . . 本文を読む
新基地建設問題を考える辺野古有志の会とティダの会では、上の内容で講演会を予定しています。
沖縄戦から80年を迎える今年、自民党・西田昌司参院議員の発言に見られるように、沖縄戦についての歴史認識をめぐる問題が新たに起こっています。
「台湾有事」を口実に沖縄における自衛隊の強化が進められているいま、住民がどのようにして戦争に動員され、犠牲となっていったかを、沖縄戦の実相に基づいて学び直し . . . 本文を読む
5月の庭はあちこちに白ゆりが咲いている。
仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(角川文庫)に「白ゆり」と題された一節がある。
〈二十四壕の入り口に白ゆりが一りん美しく咲いた。生徒は行く先幸多しと、何かのようによろこんだ。ところが二、三日たってゆりの花が何者かの手によってちぎられていた。生徒は心なき者のしわざに憤慨し、犯人の捜索にかかった。
その翌日であった。看護勤務の生徒が . . . 本文を読む
以下の文章は4月16日付琉球新報に〈80年前の無念/軍隊は住民を守らない/歴史の教訓を忘れるな〉という見出しで掲載されたものです。
20年ほど前、沖縄戦を戦った元陸軍兵士に話を聞いた。東京出身の彼は負傷と疲労で沖縄島南部のガマに横たわっていた。岩を隔てた隣にいる兵士は、暗くてよく見えなかったが、若くて重傷を負っているようだった。ある日、隣で手榴弾が爆発した。間に岩があったので . . . 本文を読む
16日は午後から本部町の八重岳に行き、三中学徒之碑と国頭支隊本部壕・病院壕跡を訪ね、お菓子やお茶、泡盛などを供えて手を合わせてきた。
三中学徒之碑は枯葉などが溜まっていたので清掃も行った。
沖縄戦当時、私の父親は県立三中の2年生で、鉄血勤皇隊の一員として八重岳・真部山での戦闘に参加している。
まだ14歳の少年に銃を持たせて戦わせる。
日本軍や国・県の行政及び教育職員は、勝ち . . . 本文を読む
以下の文章は「監視社会ならん!通信」58号(2025年1月10日発行)に掲載されたものです。同通信は辺野古テント村の棚に置かれていますので、ぜひご覧ください。
1971年に「戦争を知らない子供たち」(作詞 北山修/作曲 杉田次郎)という歌が流行った。Wikipediaによれば、初めて披露されたのは1970年8月23日に大阪で開かれた万国博覧会のコンサートだったという。沖縄の施 . . . 本文を読む
23日(日)は沖縄戦慰霊の日で、供え物や線香などを準備してお昼頃、本部町の八重岳にある三中学徒之碑に行って手を合わせた。
私の父も三中の鉄血勤皇隊の一員として、八重岳で米軍と戦っている。
伊江島に上陸する米軍を攻撃するため、大砲を八重岳に運び上げたが、一発も撃たなかった。一発撃ったら百発返ってくるのだから、撃つことはできなかった、と話していた。
私の祖父は避難した今帰仁 . . . 本文を読む
以下の文章は、2017年12月7日発行の『越境広場』4号に掲載された仲里効氏との対談で、沖縄戦について語った部分の引用である。
1930年代になって満州事変や上海事変とかが始まり、1937年に南京大虐殺が起こります。沖縄の人たちもそういう戦地に行っている。1980年代に個人史ブームが起こって、自費出版された本が古本屋で安く売られています。その中にはたいてい従軍体験が載っているわけです。だいた . . . 本文を読む
新型コロナウイルスの感染拡大が始まってから、映画館に行く機会はほとんどないので、五十嵐匠監督『島守の塔』はまだ見ていない。したがって作品については論じられないが、島田知事をめぐる動向については、2014年に安倍首相が「島守の塔」で手を合わせるのを目にする以前から関心を持ってきた。「ヤマトゥの監督による「島守の塔」の映画製作やそれを全面的に支援する県内マスメディアの動きも、先に述べた〈対中国との関 . . . 本文を読む
以下に紹介する文章は、『越境広場』11号(2022年11月20日発行)に掲載されたエッセー「地を這う声のために」の第5回である。
6月23日の沖縄戦慰霊の日は例年、本部町の八重岳にある「三中学徒之碑」や第44旅団国頭支隊の本部壕・野戦病院跡に行き、酒やお茶、お菓子などを供えて線香をあげている。そのあと名護市内の「少年護郷隊之碑」の前で行われる慰霊祭に参加し、最後に名護岳にある「和魂の碑」を訪 . . . 本文を読む
23日(金)は沖縄戦から78年目の慰霊の日だった。
午前中は本部町の八重岳に行き、三中学徒之碑と国頭支隊本部壕・病院壕跡を訪ね、お菓子やお茶、泡盛を供えて手を合わせた。
私の父も78年前、三中鉄血勤皇隊の一員として、この地で米軍と戦っている。当時14歳だった。
今はもう碑の前で慰霊祭は行われていない。それでも高齢の遺族が、家族に支えられて碑に向かい、ご馳走や花を供えて手を . . . 本文を読む
以下の文章は2022年10月27日付琉球新報に〈沖縄人の戦争被害と加害/アジアの虐殺記録されず/植民地支配加担の反省を〉という見出しで掲載されたものです。
沖縄戦の際、本部半島に配置された日本軍(独立混成第44旅団第2歩兵隊や運天港の海軍部隊)は、米軍の攻撃に耐えられず4月中旬には多野岳に敗走する。本部半島や周辺の山に逃げ込んだ日本兵は、昼間は森の中に隠れ、夕方になって米軍が . . . 本文を読む
23日(木)は沖縄戦慰霊の日で、午前中、本部町八重岳に行き「三中学徒之碑」と「国頭支隊本部壕・野戦病院跡」を訪ねた。
「三中学徒之碑」は八重岳の山頂に向かう途中にある。道路を挟んで向かいの森は真部山で、渡具地方面から登ってくる米軍と交戦し、日本軍の兵士や学徒の多くが犠牲となった場所だ。
私の父も三中学徒隊の一員として、この地で戦闘に参加しているので、毎年慰霊に来ている。
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以下の文章は、2021年4月28日付琉球新報に〈沖縄戦犠牲者と新基地建設/本部の山にも戦没者遺骨/辺野古土砂への使用禁止を〉という見出しで掲載されたものです。
子どもの頃、母方の祖母が住む家の隣に喜瀬さんという老夫婦が住んでいた。喜瀬のおじいは家で琉舞を教えていた。縁側には踊りを習いに来た女生徒たちが読むマンガ雑誌が置かれていて、時おり、それを読みに喜瀬さんの家を訪ねた。幼心にやさしい人たち . . . 本文を読む