海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

南洋群島慰霊墓参団解散式

2009-09-07 23:54:35 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 アメリカン・メモリアル・パークから歩いてホテルに戻る途中、ガラパンの街並みや奉安殿の内部の写真を撮った。奉安殿の中には御真影を置いたと思われる大理石らしい台座があったが、右上半分が壊れて欠けていた。  現地での催しの最後にホテルのホールで開かれた解散式に参加した。旅行企画を実施した国際旅行社の添乗員が司会をし、団長の平良善一氏があいさつをして、墓参団という形では最後となった旅を締めくくった。   . . . 本文を読む
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アメリカン・メモリアル・パーク歴史博物館

2009-09-03 14:50:20 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 サイパン島に戻り、ハファダイビーチホテルに荷物を置いてから、出発までの間に初日に行った軽食店で昼食を取り、歩いてアメリカン・メモリアル・パークに行った。時間が限られていたので歴史博物館を急ぎ足で見たのだが、サイパン戦を中心に写真パネルや戦闘用具などが展示されていて、英語と日本語で説明されている。日米両軍の兵士や住民の証言を読めるコーナーもあり、サイパン戦の経過や全体像を把握する上ではいいと思うが . . . 本文を読む

後ろ姿のあちりていくか

2009-09-02 22:34:53 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 テニアンの港でサイパンに戻る船の切符を待っているところ。いかにも暑そうだが、実際に暑かった。半袖で歩き回っていたので、両腕がピーラチヤミしていた。  テニアンの現在の状況を聞くと、高い失業率や米軍に入隊してイラクへ行く若者のこと。在沖海兵隊のグアム移転問題がテニアンにも波及していて、米軍基地強化と地域振興の問題が浮上していること。カジノが地域社会に与えた影響など、過去の歴史だけでなく、現在の沖縄 . . . 本文を読む

テニアン/アギーガン島

2009-08-28 14:57:57 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 翌日は午前中自由行動だったので、ホテル近くのタガビーチを散歩した。少し離れた浜辺で泳いでいる観光客は4、5名で、散歩をしている人も少なく、いたって静かな海岸で海を眺め、木麻黄の木陰で旅の間にとったメモを整理した。  沖に見えるアギーガン(アグイガン)島は現在は無人島で、ウチナンチューが持ち込んだヤギが繁殖し、ゴートアイランドと呼ばれているという。テニアンの人たちもピージャージョーグー(ヤギ料理好 . . . 本文を読む

テニアン/親善交流の夕べ

2009-08-23 20:23:15 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 島内観光を終えてホテルに戻り、そのあと夕方から「親善交流の夕べ」に参加した。会場は海のすぐそばの屋外ホールで、波の音とココヤシや木麻黄の葉を揺らす風が快かった。  参考までにプログラムを引用したい。   第32回テニアン島沖縄県人戦没者追悼式 親善交流の夕べ プログラム 日 時 2009年5月28日(木)午後6時30分より 場 所 テニアン市パビリオンホールにて 司 会 沖縄テニアン会理事  . . . 本文を読む

タガ族の遺跡と対馬丸沈没

2009-08-22 22:08:40 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 島内観光の最後にサン・ホセ村(旧ソンソン)のタガ族遺跡のラッテストーンと、隣にある公園内の慰霊碑を訪ねた。『記念誌 はるかなるテニアン』には、遺跡前の広場に干されたニクブクや遠足できたカーヒー小学校生など戦前の写真、「日本人の墓」の墓碑を遺跡前に移して持たれた初期の慰霊祭の写真などが載っている。  話は変わるが、今日8月22日は対馬丸が沈没してから65年目である。皆既日食で話題になったトカラ列島 . . . 本文を読む

南洋興発製糖工場の事務所跡

2009-08-22 19:55:35 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 テニアン島内観光のつづき。  米軍上陸地点の次に南洋興発製糖工場の事務所跡を訪ねた。隣接して二階建ての糖度分析所跡も残っている。当時の町並みを復元した地図を持ってきて、もっと周辺を確かめたそうにしている人たちがいたのだが、時間がなくて二つの建物を見ただけで移動した。  道路の両側に広がっているタガンタガン(ギンネム)の林の中に入れば、工場や関連施設の跡も見られたのだが、島内観光ではそこまでは難し . . . 本文を読む

日本軍のトーチカ

2009-08-13 06:38:42 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 海岸近くには日本軍のトーチカが残っている。あちこちに弾痕があり、鉄筋として利用された軽便鉄道のレールものぞいていた。中に入ると蜂の巣だらけで、余り長くはいられなかった。  三ヶ野大典『悲劇のサイパン』は〈北西部の水際陣地にいた歩兵第五十連隊第三中隊と海軍陸戦隊は上陸前のすさまじい砲爆撃でほとんど全滅し、米軍は午前八時すぎには早くも一部が第一、第二飛行場まで進撃して来た〉(190ページ)と記してい . . . 本文を読む

テニアン/米軍上陸の海岸

2009-08-13 06:36:40 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 間が空いてしまったが、テニアン島内観光のつづき。  原子爆弾搭載地点を見たあとに、米軍がテニアン島に上陸した海岸に行った。1944年7月24日、米軍は島の南西部海岸に上陸すると見せかける陽動作戦を行い、日本軍の守備が手薄な北西部海岸に第四海兵師団の第二十四、第二十五海兵連隊が上陸を開始した。  バスを降りて海岸に出ると、砂浜は狭く、岩場にはハマシタンが茂っていた。海岸沿いの木麻黄や椰子の木も当時 . . . 本文を読む

原子爆弾搭載場所 2

2009-08-03 22:35:28 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 少し離れたところには広島に投下されたウラン型原子爆弾「リトルボーイ」をB29/エノラ・ゲイ号に搭載した場所があり、同じように鉄骨を組んでガラスで保護されていて、中には写真が飾られていた。  吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)によれば、1945年5月10日と11日の二日間にわたって、原爆投下の目標選定委員会が、アメリカ・ニューメキシコ州ロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室 . . . 本文を読む
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原子爆弾搭載場所 1

2009-08-03 16:47:27 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 サイパン島、テニアン島を攻略することによって、米軍はB29爆撃機による日本本土の空襲が可能となった。平坦な地形のテニアン島は飛行場建設に打ってつけであり、米軍はすぐに日本軍の飛行場を整備拡張し、B29の発進基地として使用する。以後、日本はB29の空襲にさらされることになる。  写真は長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」をB29/ボックス・カー号に搭載した場所。深さ2メートル程の . . . 本文を読む

ブロードウェイ

2009-08-03 16:43:30 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 ホテルの前は島を南北に貫く直線道路が走っていて、上陸した米軍はブロードウェイと名付けたという。テニアン島の形がマンハッタン島に似ているのでそう名付けた、とガイドの女性は話していたが、当然「マンハッタン計画」との関連もあるのだろう。道路沿いにある日本海軍通信所跡や日の出神社跡をバスの中から見学し、潮吹き海岸に寄ってから島の北部にあるハゴイ飛行場(ノースフィールド飛行場)に向かった。 . . . 本文を読む

ダイナスティホテル&カジノ

2009-08-03 16:28:00 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 追悼式を終えたあとホテルに向かい、チェック・インと昼食をすませたあとに、島内観光に参加した。  写真はテニアンで宿泊したテニアンダイナスティホテル&カジノ。一階のホールの横にカジノがあり、普段安ホテルしか利用しない私にとっては、かなり豪華なリゾートホテルだったのだが、沖縄から来た墓参団の他には客の姿がほとんど見られなかった。 . . . 本文を読む

「玉砕」という詐術

2009-08-02 23:57:22 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 沖縄の塔の周辺には慰霊碑がいくつもあり、写真はその一つの「鎮魂不戦之塔」。  米軍は8月1日、戦車を先頭にカロリナス台地に攻め込み、155ミリ砲や火炎放射器、手榴弾、自動小銃などで洞窟陣地をしらみつぶしに掃討していく。そして、その日の午後には島の南端に到達する。8月1日午後6時55分、米軍のシュミット少将はテニアン島の占領を宣言した。  65年前の8月2日から3日の状況を三ヶ野大典『悲劇のサイパ . . . 本文を読む

渇きと死と生 2

2009-07-31 18:23:03 | 2009年 南洋群島慰霊墓参団
 写真は「沖縄の塔」近くの崖から眺めたマルポ方面の海岸。  三ヶ野大典『悲劇のサイパン』(フットワーク出版社)には、65年前の7月30日から31日にかけての状況が次のように記されている。 〈米軍は南部を残す島の四分の三を制圧していた。東西から呼応して日本軍を挟撃するように南下を続け、三十日にはテニアン町北東の第三飛行場になだれ込み、午後にはテニアン町に進出した。テニアン町を守る日本軍はタコツボを . . . 本文を読む