本書に収められた平塚柾氏の「グアム島玉砕記」には、日本軍によるグアム島民への虐殺も記録されている。1944年の7月から8月にかけて、米軍に追いつめられた日本軍は、もはや戦闘集団ではなく、自分の命を守るために仲間の兵に銃を向けるまでになっていたという。そういう状況下で、グアム島の現地住民に対する大量虐殺事件も発生したという。
〈師団戦車隊付きの歩兵であった水上正さんは、その目撃者の一人である。水上さんの小隊はすでに全滅、生き残りは水上さん一人であった。しかし、戦車隊はかろうじて生きのびている二台の戦車で夜襲をかけるという。しかたがない、水上さんはたった一人の戦車隊付き歩兵として参加することにした。
二台の戦車と水上一等兵は真っ暗ヤミのジャングルを進んでいった。と、島民の集団が戦車の前に現れ、進むことができない。夜眼で正確な数はわからないが、二百名は優にいた。その現地住民を前にするかたちで仲間の日本兵たちが軍刀や銃を突きつけているではないか。水上さんは背筋に寒いものを感じた。虐殺……。危惧は現実のものとなった。目前でだ。やがて日本兵たちは住民たちを数人ずつ一列に並べては一斉射撃を開始したのだ。それも「一尺くらいの至近距離から射つ」(水上氏)残虐なものだ。その光景は三十年を経た現在も水上さんの脳裏をときどきよぎるという。
「倒れた島民たちがウンウンいっている。これをまた銃剣でとどめを刺しているんだけど、とにかく暗いため急所に刺さらないで逃げ出す者もいる。後を追いかけて射つんだが当たらない。米軍の砲撃なんかで瞬間的に明るくなると、島民が手を合わせて拝んでいるのが見えるんです。むごいことをすると思ったけど、わし一人にゃどうすることもできんし……」
日本軍守備隊主力がグアム島に上陸した十九年のはじめ、グアムの一般住民は約二万四千名いた。これら住民のうち約千名以上の子弟が米軍に応召、各戦線で日本軍と戦っていたこともあり、占領軍である日本人への感情が悪いのは当然であった。そして米軍上陸後ははっきりと日本軍に敵対行動を見せるようになっていた。ゲリラ部隊を組織していたともいうし、ジャングルの中からノロシを上げては日本軍の位置を米軍に知らせていたともいう。そして一般住民は攻めてくる友軍ーー米軍側に向かって避難しようと努力していた。
「住民を殺していた連中に、なぜだと聞くと、それ(米軍側への避難)を許すと日本軍の状況がつつ抜けになってしまうから、それを“止めている”んだということだった。島民の虐殺事件としてあとで問題になったと聞くが、そのとき逃げた人たちが告発したんだろうな」(水上氏)
敗走の中での住民虐殺は帰還兵の証言を総合するとあちこちで行われた形跡がある。戦後、これら日本兵によって虐殺された住民の慰霊碑が住民の手で西海岸のパンギ(番庄)岬の近くに建てられた。その慰霊碑から数百メートル離れた山の中腹には殺された人たちの墓が並んでいる。パンギ岬の上に立ち、右手の足下を見下ろすと真っ白い十字架の群れが見える。南洋の強い陽光に映えるこの十字架群は、事情を知らない観光客には緑の樹木の中に浮き立つ一種のエキゾチシスムを形どる絶好のカメラ対象に見えるに違いない。土産の品々を売る岬の住民たちはなかなかわれわれ日本人には、その歴史を語ろうとしないからである。〉(91~92ページ)
欧米列強の植民地支配からアジアの人々を解放する。日本軍がそういう美辞麗句を並べても、現地の住民からすれば、旧来の支配者に替わって、新たな支配を狙って上陸してきた侵略者にすぎない。協力してうまい汁を吸おうとする者や付和雷同する者が一部にいたとしても、侵略者に対して住民が反感を持ち、抵抗するのは当然のことだ。日本軍からすれば、住民が服従せず、敵対=抵抗することへの怒りがあり、加えて通敵行為は許さないという理屈だったのだろう。だからといって、武器を持たない非戦闘員の一般住民を、このような形で虐殺することが許されるはずはない。島民からすれば、自らが望んだわけでもない戦争に巻き込まれ、一方的に服従を強いられ、挙げ句の果てに虐殺されていったのだ。
沖縄の施政権が日本に返還された1972年の1月、グアム島のジャングルで元日本兵の横井庄一氏が保護され、大きなニュースになったのを覚えている。横井氏は壮絶な「玉砕の島」の生き残りの一人であった。
〈記録によれば、グアム島の日本軍総兵力は一万九千六百二十七名。死者一万八千三百七十六名、捕虜(戦後収容者も含む)千二百五十名と横井庄一伍長。〉(93ページ)
平塚氏はそう記している。すでに日本軍は制海・制空権を失っており、兵員や食糧、武器、弾薬を運ぶ輸送船は、片っ端から米潜水艦に撃沈されていた。補給物資もないまま、太平洋の島々で日本兵たちは、戦闘よりも飢えや病で倒れ、死んでいった。グアム島民を虐殺した現地の日本軍の問題はもちろん問われなければならない。しかし、それ以上に重く問われなければならないのは、無謀な作戦を立案した大本営の参謀をはじめ、戦争を推進した軍の首脳部、政治家、高級官僚、そして昭和天皇の責任と罪である。現地の兵達も最後は見捨てられ、熱帯のジャングルで死を強制され、全滅していったのだ。全滅を「玉砕」という言葉で飾り立てた大本営の作為は、戦争を指揮・推進した首脳部の自己保身と責任逃れのためのまやかしでしかない。
戦後、グアム島は新婚旅行のメッカとなり、「南国の楽園」として日本人に知られるようになった。平塚氏も観光化の問題について触れているが、グアム島の戦争の歴史が不可視化され、リゾート化されていく問題について書かれた本に、山口誠『グアムと日本人』(岩波新書)がある。現在の沖縄と共通する問題も多々あり、一読を薦めたい。
沖縄人にとってグアム島は、米空軍のアンダーソン基地があり、台風を口実にB52が飛来するたびに報道で目にし、耳にする島という印象を持っている人も多いだろう。そして、現在は米軍再編で沖縄の海兵隊が移動する先として認識されているだろう。だが、そのグアム島が「玉砕の島」であり、日本軍による島民虐殺が行われた島であることは、どれだけ知られているだろうか。米軍再編による沖縄の基地移転問題を議論するときには、そのような歴史も踏まえるべきだろう。
〈師団戦車隊付きの歩兵であった水上正さんは、その目撃者の一人である。水上さんの小隊はすでに全滅、生き残りは水上さん一人であった。しかし、戦車隊はかろうじて生きのびている二台の戦車で夜襲をかけるという。しかたがない、水上さんはたった一人の戦車隊付き歩兵として参加することにした。
二台の戦車と水上一等兵は真っ暗ヤミのジャングルを進んでいった。と、島民の集団が戦車の前に現れ、進むことができない。夜眼で正確な数はわからないが、二百名は優にいた。その現地住民を前にするかたちで仲間の日本兵たちが軍刀や銃を突きつけているではないか。水上さんは背筋に寒いものを感じた。虐殺……。危惧は現実のものとなった。目前でだ。やがて日本兵たちは住民たちを数人ずつ一列に並べては一斉射撃を開始したのだ。それも「一尺くらいの至近距離から射つ」(水上氏)残虐なものだ。その光景は三十年を経た現在も水上さんの脳裏をときどきよぎるという。
「倒れた島民たちがウンウンいっている。これをまた銃剣でとどめを刺しているんだけど、とにかく暗いため急所に刺さらないで逃げ出す者もいる。後を追いかけて射つんだが当たらない。米軍の砲撃なんかで瞬間的に明るくなると、島民が手を合わせて拝んでいるのが見えるんです。むごいことをすると思ったけど、わし一人にゃどうすることもできんし……」
日本軍守備隊主力がグアム島に上陸した十九年のはじめ、グアムの一般住民は約二万四千名いた。これら住民のうち約千名以上の子弟が米軍に応召、各戦線で日本軍と戦っていたこともあり、占領軍である日本人への感情が悪いのは当然であった。そして米軍上陸後ははっきりと日本軍に敵対行動を見せるようになっていた。ゲリラ部隊を組織していたともいうし、ジャングルの中からノロシを上げては日本軍の位置を米軍に知らせていたともいう。そして一般住民は攻めてくる友軍ーー米軍側に向かって避難しようと努力していた。
「住民を殺していた連中に、なぜだと聞くと、それ(米軍側への避難)を許すと日本軍の状況がつつ抜けになってしまうから、それを“止めている”んだということだった。島民の虐殺事件としてあとで問題になったと聞くが、そのとき逃げた人たちが告発したんだろうな」(水上氏)
敗走の中での住民虐殺は帰還兵の証言を総合するとあちこちで行われた形跡がある。戦後、これら日本兵によって虐殺された住民の慰霊碑が住民の手で西海岸のパンギ(番庄)岬の近くに建てられた。その慰霊碑から数百メートル離れた山の中腹には殺された人たちの墓が並んでいる。パンギ岬の上に立ち、右手の足下を見下ろすと真っ白い十字架の群れが見える。南洋の強い陽光に映えるこの十字架群は、事情を知らない観光客には緑の樹木の中に浮き立つ一種のエキゾチシスムを形どる絶好のカメラ対象に見えるに違いない。土産の品々を売る岬の住民たちはなかなかわれわれ日本人には、その歴史を語ろうとしないからである。〉(91~92ページ)
欧米列強の植民地支配からアジアの人々を解放する。日本軍がそういう美辞麗句を並べても、現地の住民からすれば、旧来の支配者に替わって、新たな支配を狙って上陸してきた侵略者にすぎない。協力してうまい汁を吸おうとする者や付和雷同する者が一部にいたとしても、侵略者に対して住民が反感を持ち、抵抗するのは当然のことだ。日本軍からすれば、住民が服従せず、敵対=抵抗することへの怒りがあり、加えて通敵行為は許さないという理屈だったのだろう。だからといって、武器を持たない非戦闘員の一般住民を、このような形で虐殺することが許されるはずはない。島民からすれば、自らが望んだわけでもない戦争に巻き込まれ、一方的に服従を強いられ、挙げ句の果てに虐殺されていったのだ。
沖縄の施政権が日本に返還された1972年の1月、グアム島のジャングルで元日本兵の横井庄一氏が保護され、大きなニュースになったのを覚えている。横井氏は壮絶な「玉砕の島」の生き残りの一人であった。
〈記録によれば、グアム島の日本軍総兵力は一万九千六百二十七名。死者一万八千三百七十六名、捕虜(戦後収容者も含む)千二百五十名と横井庄一伍長。〉(93ページ)
平塚氏はそう記している。すでに日本軍は制海・制空権を失っており、兵員や食糧、武器、弾薬を運ぶ輸送船は、片っ端から米潜水艦に撃沈されていた。補給物資もないまま、太平洋の島々で日本兵たちは、戦闘よりも飢えや病で倒れ、死んでいった。グアム島民を虐殺した現地の日本軍の問題はもちろん問われなければならない。しかし、それ以上に重く問われなければならないのは、無謀な作戦を立案した大本営の参謀をはじめ、戦争を推進した軍の首脳部、政治家、高級官僚、そして昭和天皇の責任と罪である。現地の兵達も最後は見捨てられ、熱帯のジャングルで死を強制され、全滅していったのだ。全滅を「玉砕」という言葉で飾り立てた大本営の作為は、戦争を指揮・推進した首脳部の自己保身と責任逃れのためのまやかしでしかない。
戦後、グアム島は新婚旅行のメッカとなり、「南国の楽園」として日本人に知られるようになった。平塚氏も観光化の問題について触れているが、グアム島の戦争の歴史が不可視化され、リゾート化されていく問題について書かれた本に、山口誠『グアムと日本人』(岩波新書)がある。現在の沖縄と共通する問題も多々あり、一読を薦めたい。
沖縄人にとってグアム島は、米空軍のアンダーソン基地があり、台風を口実にB52が飛来するたびに報道で目にし、耳にする島という印象を持っている人も多いだろう。そして、現在は米軍再編で沖縄の海兵隊が移動する先として認識されているだろう。だが、そのグアム島が「玉砕の島」であり、日本軍による島民虐殺が行われた島であることは、どれだけ知られているだろうか。米軍再編による沖縄の基地移転問題を議論するときには、そのような歴史も踏まえるべきだろう。
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