海鳴りの島から

沖縄・ヤンバルより…目取真俊

川俣町と飯舘村

2011-05-18 19:24:59 | 政治・経済

 5月9日は宿泊した福島市から川俣町と飯舘村を経由して南相馬市を再訪し、海岸近くの道路を相馬市まで北上した。
 川俣町は車で通り過ぎただけだったが、歩道沿いに植えられたチューリップや菜の花が満開で、田圃に水が張られ田植えの準備が進んでいた。
 町の中は見た目は特に変わりのない風景が続くが、福島第一原発の事故を受けて川俣町も一部が計画的避難地区に指定され、山木屋地区では15日から避難が始まっている。
 町の保険センターに災害対策本部が置かれていた。

 阿武隈山地にある飯舘村は人口6,200人ほどの農村である。市町村合併の波に流されることなく、自立を目ざしてやって来たという。菜の花や桜の花が咲き、五月晴れの下でのどかな風景が広がっていた。しかし、田畑で働く人の姿はない。
 村の中を回りながら、故郷の今帰仁村のことがしきりに思い浮かんだ。今の時代に人口が1万人を切る農村が置かれている状況は厳しいものだ。過疎化、高齢化が進み財政面の問題もある。そういう中で飯舘村の人たちも、生まれ育った土地への愛着を持って日々の営みを続け、農業を主とした村づくりを進めてきたはずだ。
 にもかかわらず、福島第一原発の事故によって、理不尽にも避難しなければならなくなった村民の、怒り、悲しみ、不安、やりきれなさはどれほどのものか。もし今帰仁村が同じような状況になったらどうなるか、と考えると、計画避難を間近にした村の様子を見るのがつらかった。

 4月5日に行われた調査で臼石小学校の校庭では1時間あたり地表から1cmで12.5/1mで11.5マイクロシーベルト、飯舘中学校の校庭では地表から1cmで12.2/1mで9.7マイクロシーベルトの放射線量が検出されている。
 ゴールデンウィークが終わり、本来なら校庭では子どもたちが遊んだり、部活動をしているはずだが、生徒の消えた学校は静まりかえっていた。川俣町に長距離通学を強いられている子どもたちや家族の負担は大きく、これまでに浴びた放射能による健康被害への不安にさらされている。
 村にとって学校とは、住民の思い出と歴史が重なる場所であり、地域社会が続いていくためのよすがであり希望である。そこから子どもたちの声や姿が消えてしまった。飯舘村をはじめ原発事故によって避難を強いられている地域、住民の犠牲の大きさにもっと目を向けたい。そこに目を向けずに原発を議論することはできない。

 写真は飯舘村役場といいたてミートプラザ。村役場は計画避難の準備に追われているようで、郵便局やガソリンスタンド、Aコープなどは開いていたが、農産物直売所がある飯舘ミートプラザは閉まっていた。
 隣のAコープでパンと牛乳を買って昼食をとり、南相馬市に向かったが、ホテルに戻ってからニュースを見ると、この日、東電の社長が飯舘村に謝罪に訪れていた。長年酪農をやって来たが計画避難のために牛を売らねばならず、トラックに載せた牛に泣きながら別れを告げている農家の姿が報じられていた。

 沖縄では5・15平和行進や県民大会が開かれていた15日に、飯舘村では計画避難が始まっている。地元テレビの映像を見てほしい。

http://www3.nhk.or.jp/news/fukushima_furusatonews/movie/chapter_56.html

 


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1 コメント

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私も行ってきました (かぜ)
2011-05-20 02:50:11
私も川俣、飯舘、行ってきました。
まだ日本にこんなに美しい農村があったかと
思うような景色が村中に広がっていました。
そこから「避難」しなきゃいけない無念さ、
想像するにあまりあります。

私はもともと原子力は人類に扱えない
エネルギーだと思ってきました。
でも、原発の反対運動を支援したりは
していませんでした。
その点についてはとても後悔しています。
ですので、いまさら偉そうなことを言えた
立場にありませんが、これからは心を入れ替え
てと思っています。
多分、基地も同じかことかと思います。
遠くからですが、応援だけはと思っています。

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