稲穂とは、稲の穂である。長い茎の先に花や実が群がりついたものを“穂”といい、特にイネのものを稲穂と呼ぶ。筆者は急に稲穂が見たくなった。日本で暮らしていれば、たとえ生活圏に水田がなくても、車や電車などの窓から何ともなしに水田を見る機会があり、秋には稲穂を目にするものだ。だが筆者の一時帰国はいつも何故か稲刈りの時期を外していたようで、もう永らく稲穂を見ていない。そこで暇な週末に、カリフォルニア米の一大産地であるサクラメント・バレーへ稲穂を見に行く決断をしたのだった。それはたぶん、郷愁、もしくは一種のナショナリズムである。
このドライブの記録は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。
①サクラメントへ
とはいっても“水田”を目的地にすることは難しい。であるからとりあえずサクラメントへ向かうことにした。というのも筆者には戦略があったのだ。米の産地に一番近い都市のサクラメントは、カリフォルニア州の都でもある。そこには小さくとも日系のスーパーもあるはずで、そこで米農家の情報が手に入ると考えたのだ。そしてそこでウマい昼飯の弁当なども購入できるという算段もあった。土曜の、それも二日酔いの朝に急遽立てた計画としては恐ろしく緻密である。ベイブリッジを渡り、80号線を北上した。
②カリフォルニア米
ここでカリフォルニア米について少し解説(パクリ)を記載しておきたい。カルフォルニア米の耕作は、20世紀初頭に北米へ移住してきた日本人によって始められた。しかし当時の日系移民たちはもっぱら日本から輸入したコメを好んだために、カリフォルニア米の売れ行きは芳しくなかったのだそうだ。だが事態が一変したのが第一次世界大戦後の世界的な食糧不足であった。日本では“米騒動”が起こるほど米の価格が高騰したために、米の輸出が抑えられた。そのため日系移民たちも仕方がなくカリフォルニア米を食べるようになり、それが昨今では加州から米を日本へ輸出するほどの一大産業になったのであるというのだから、面白い。
③オトズ・マーケット・プレイス
果たしてサクラメント市の南の外れには、“オトズ・マーケット・プレイス”という日系グローサリーストアがあった。それは筆者の予想以上に大きな店舗で、近辺の日系人の多さをうかがい知ることができる。それに日系らしき名前のファームを冠した芋やトウモロコシが売られていたのも興味深い。このオトズ・マーケット・プレイスはかれこれ50年以上もこのエリアで日系グローサリーを営む老舗というのだから、もともとは日系移民色の強いスーパーであったと思われる。どことなく売られている総菜にもハワイ臭がある。筆者の思惑通りカリフォルニア産ジャポニカ米の種類は豊富で、サクラメント市から小一時間北上すれば、高級コシヒカリ田牧(タマキ)米のファームがあることをまんまと突き止めたのだった。そしてハワイ臭の強い甘口の浸け物オニギリセットを購入し、さらに北上を続けた。
④タマキ・ライス
一大稲作地帯であるはずのサクラメント・バレーだが、5号線沿いからは水田を見つけることは少なくやや不安になっていた。しかし高速を下りてナビに従いタマキ・ライスに近づくと景色が変わった。田んぼがある。そして日本の水田よりもやや並びが雑然としているが、穂をたらした黄色い稲穂が密に並んでいる。筆者の心は踊った。タマキライスの工場の前に勝手に駐車し、あたりを散歩してみた。果たしてそれは水田だった。水路を引っ張ってきて水を引いている。稲穂の垂れた田にもまだ水が張ってあるようだ。広大な水田地帯に砂埃ともにイネの香りが吹き上げている。水路にはメダカのような小魚がいて、それをサギのような鳥が狙っている。トンボも飛んでいる。ミクロな目線で見ると日本に帰ってきたような風景があるものの、頭を上げると地平線まで田畑が広がる。
日本からやってきて稲作を始めた人々のことを考える。歴史がない新天地だったから、皆が入植者意識の持ち主だったから、(もちろんネイティブ・アメリカンを無視できないのは承知だが・・)成せる業だったに違いない。それを証拠に我が国を含めて他の国は、何年たっても“もともとは俺が原住民、お前が侵入者”“逆だろ!”といがみ合いから抜け出せない。2024年9月現在、アメリカ合衆国の覇権の終わりが近いと言われているが、アメリカに続く覇権国が、アメリカのような世界指導者になるには、歴史が長いぶんだけに時間がかかるように思う。そんなことを思いながら、広すぎる農道を疾走した。ちなみにタマキライスは高いので、買ったことはありません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます