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ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

ルイビル

2023-01-10 00:04:58 | 生活
ルイビルとは、米国ケンタッキー州の都市である。Louisvilleと書き、“s”は発音しないようだ。2022年の年末は帰国するほどの休みはとれずに孤独なので、このルイビルを訪ねることにした。ケンタッキー州で年越しすれば、少しは思い出に残るであろうと考えたのだ。今回はそのルイビル探訪の記録である。普段は閑散としているハートフォードのブラドリー空港も、さすがに大晦日とあって混雑していた。2022年の日本の大みそかは、氷川きよしさんがついに“紅白”を超えた特別枠で歌合戦に出場を果たしたり、『笑ってはいけない』が前年に引き続き放映されないことでコクミンにストレスが溜まったりしたようだ。

この探訪の記録は以下の通りだ、参考にしてもらいたい。

①モハメド・アリ空港
フィラデルフィアで小一時間の経由を挟み、4時間程度でルイビルのモハメド・アリ空港に到着した。そう、ルイビルはモハメド・アリの生誕の地なのである。そういえば米国ではニューヨークのケネディ空港やサンノゼのノーマン・ミヤマ空港など、空港の名前にニンゲンの名を付けていることが多い。我が長期出張先のコネチカットのブラドリー空港の由来を調べてみると、ニューイングランドとはあまり関係のなさそうな、空軍の飛行訓練中に事故死した24才の若者(オクラホマ出身)の名前を使っているとのことだ。小さなモハメド・アリ空港のコンコースにはバーボンやケンタッキー・ダービー、モハメド・アリの看板が並んでいて、観光地として力を入れる様子が伺える。とりあえず空港からウーバーでケンタッキー・ダービーミュージアムへ行ってみることにした。曇り空の中、運転手がなかなか到着しないと思ったら、この辺りではウーバーに競合会社がおり、黒人運転手はそちらの会社のピックアップコーナーで筆者を待っていた。



②ケンタッキー・ダービーミュージアム
筆者は“飲む、打たない、少ししか買わない”30代独身日本式サラリーマンなので、競馬とは縁がない。だがそんな筆者でも聞いたことがあるほど高名なケンタッキー・ダービーの会場がルイビルにあり、ミュージアムが隣接しているということで、最初に訪ねた。まぁ、年末に開いている施設が少なかったのも理由だ。このミュージアムのメインは、楕円形のシアターでダービー当日を体感できる360度型ムービーと、その後に係員と行くチャーチルズタウン競馬場内のウォーキングツアーだ。その他にもシアター周りに様々な展示がある。馬の模型が3つ並んだ競馬ゲームでは、子供に混じって大の大人が盛り上がっていて面白いし、蹄鉄に関する展示なども興味深い。そしてやはり黒人差別と競馬産業の関係に関する展示などもある。大晦日のミュージアムはかなりの混雑で、人気の施設のようだった。果たして子供が楽しめる施設かどうかは疑問だが、シアター視聴中には車いすの知的障害の女の子と黒い犬を連れた女性がぐるぐる回っていたのが印象的だ。



③ダウンタウンへ
チャーチルズタウン競馬場正面にある、悲劇の馬バーバロ像の前で再びウーバーに乗り、ダウンタウンへ向かう。ダウンタウンはオハイオ川の南岸にあり、川の向こうはインディアナ州だ。ダウンタウン西端のスラッガー・ミュージアム付近に降り立ち、“まずは昼食だ”と思い周囲を見渡すも、一人で入りやすい食堂が見当たらない。テクテクと東方向へ歩いてみると、“OSAKA”という鮨屋があったので入ってみた。暗い店内には筆者しか客はおらず、BGMもないので寂しい雰囲気だ。店主は頬の長い韓国人風の風貌だったので、キムチロールを注文してみた。味は普通だが5切れほどしかなく物足りなかった。OSAKAを出てさらに東進し宿へ向かうと、宿周辺には賑わいのあるウイスキー酒場が並んでいたので『こっちにすれば良かった』とけっこう後悔したものだ。



チェックインを済ませ、再びダウンタウンを横断してスラッガーミュージアムの前にある歴史博物館を訪ねた。ここはケンタッキー州の歴史を割と楽しく学べて良い施設だ。良質なオークの木の産地であること、オハイオ川の水運、アイリッシュ移民の融合でケンタッキーやテネシーがウィスキー産業として発展したこと、バーボンについて、シビルウォー時の南北境界州としての立ちまわりなどが勉強できるし、何故かミニチュア人形がたくさん展示されていて、小一時間の時間潰しになった。何せ曇り空のせいか、町全体がどんよりしていて気持ちが晴れない雰囲気があるが、30代独身日本式サラリーマンらしい大晦日だったかも知れない。

保濟丸

2023-01-05 01:27:26 | 生活
保濟丸とは、香港製の漢方胃腸薬である。英語では“ポーチャイピルズ”と発音する。海外駐在員にとって床屋、薬品、そして歯ブラシ関連は、いくら現地の暮らしに慣れたといえども日本製・日本式を使っていたいのが心情だ。筆者はここ最近原因不明の胃痛に悩まされていたものの、米国の胃薬を試す気持ちは薄かった。逆に胃が荒れそうだ。そしてたまたま長期出張先のアジアンスーパーで、この保濟丸を見つけたので試してみることにした。おりしも中国ではコロナが再燃し、中国の人々は日本製風邪薬を買い占めているとのことだ。世界第二位の経済大国の中国の人々にとっても、一部の領域では日本はまだ科学技術先進国のようだ。

この薬の特長は以下の通りだ、参考にしてもらいたい。

①アジア系スーパーで薬を買う
米国のアジア系スーパーにはたいていレジの近くにカウンターがあって、ガラス棚に高級酒や贈答品、たばこなどが置かれており、それと一緒に薬品も売られている。おそらく高級品を取り扱うコーナーのためにカウンターにしてあるのだが、無人の場合もままある。そういった場合はしばらくそこでウロウロしていると、客と区別がつかない格好の店員が現れて中国語で話しかけてくる。筆者はジェスチャーで『胃が痛い』ことを伝えると、『それならこれだ』と言わんばかりに保濟丸を手渡された。手渡された後に、『すぐにレジへ行くのだろうな』と念を押されたので、やはりこのコーナーでは万引きを恐れる商品が扱われているに違いない。


②保濟丸 装丁
この保濟丸(ポーチャイピルズ)、紙製の四角い箱の装丁が非常に可愛らしくて、凝っている。手のひらに収まるサイズの箱の正面には辛亥革命時代風の髪型をした男性の肖像が描かれ、その下に古い香港の街並みの写真が載る。この男性が李兆基という名の、保濟丸の会社の創業者だ。また紙箱表面にはプリズム仕掛けが施されており、光を当てると『保・濟・丸』の文字が入った小さな丸が無数に輝くようになっている。横書きの文字は右から左に読ませてレトロ感を残し、いかにも悠久の中国漢方薬な雰囲気がある。側面には漢語にて説明書きがある。

③保濟丸 中身と服用
箱を開けてみると、そこにはさらに細長い紙の小箱がたくさん入っている。この小箱も李兆基おじさんの肖像やメッセージ性のある漢文で飾られていて、たかが胃薬なのに仕事が非常に細かい。この小箱を開けるとついにカプセルが現れる。それは小児の小指ほどの大きさで、中に大きな黒子のような茶色い粒状の丸薬が詰まっている。このカプセルはプラスチック製で水に溶けるようなものではないので、こいつを開けて中の黒子だけを服用する。カプセルの頂部の蓋を歯でこじ開け、水と一緒に口の中に放り込むと、小さな黒子たちはサラサラという心地の良い感触で食道を通っていった。


 
さすがは100年のを超える歴史を持つ保濟丸である。漢方薬なので即効性はなかったが、一日二カプセルを服用し続けると数日で胃痛がおさまった。ストレス性の胃痛に悩まされている30代独身日本式サラリーマンは、試してみてもよいのではないか。ただし、この保濟丸はアメリカ式とのことである。香港のオリジナル製品とどう違うのか不明だが、おそらくは輸出可能な様式・成分に変えてあるということだろう。保濟丸の装丁から中国語ではアメリカは“美国”と書くことを知った。世界を二分する大国の米中間が、お互いに『美しい国』と尊重しあえる関係になればいい、そんな月並みなことを感じた2023年の元日であった。

宇部新川

2022-12-29 12:25:24 | 生活
宇部新川とはJR宇部線の駅である。石炭記念館を後にした筆者はときわ公園入口前にバス停を見つけ、次の目的地の宇部新川駅行きのバスに乗り込んだ。宇部市・小野田市の海沿いは、瀬戸内工業地域の中核をなすにも関わらず、鉄道交通の便がよくない。新幹線や山陽本線の主要駅からは離れていて、JR小野田線・宇部線を使って行かねばならず、地図を見れば一帯は陸の孤島のような感がある。それでも中心部である宇部新川駅は、地図だけ見ればけっこうな盛り場で、出張者や工業労働者の憩いの場になっているようだ。筆者はひょんなことから宇部市周辺へ行くことになったので、この盛り場へ行くのを楽しみにしていた。

この町探訪の記録は以下の通りだ、参考にしてもらいたい。

①街を歩く
バスを降りた筆者は宿探しのついでに町を散策してみることにした。まだ日が高い。宇部新川駅から南東へ伸びる商店街は、もともと夜の町ということもあるのか、加えてコロナや猛暑の影響もあってか、閑散としている。野良猫がアーケード商店街真ん中でのんびりと寝そべっていたりして風情がある。地図で見ると酒場が密集するこのエリアも、店舗の二階が住居になっている建屋が多く、生活者のための駐車場などのスペースもたくさんあって、町に生活臭が強いのがまた風情を与えているようだ。時折見られる小じゃれたバーは、近くにある山口大学の学生らをターゲットにしたものだろうか。


②ビジネス旅館駅前
歓楽通りの入り口付近に“山田屋別館”という風情豊かな安宿が見つかったのだが、残念ながら閉店しているようだ。次に新川駅の南西方向にいかにもな安宿、“ビジネス旅館駅前”が見つかった。町役場のような入口の階段を上がるとすぐに町役場の受付のようなフロントがあって、『風呂やトイレは共用だが大丈夫か』と確認される。まるで町役場のような内階段を上がると長い廊下があり、部屋が並んでいる。すれ違う宿泊客はやはり作業員風・船乗り風の中年男ばかりで『こんにちわ!』と気持ちのいい挨拶が交わされる。部屋は小さな冷蔵庫とテレビがあるばかりで、タコ部屋の雰囲気があって風情を感じる。2階には小さな食堂や洗濯物が干せる大きなベランダがあったりして社員寮のような雰囲気もある。テレビには期待の通り24時間無料でやや古めのエロ放送が流れていた。部屋も風呂屋もトイレも清潔で、決して悪くない。


③鮨処たつみに入る前
やっとこさ酒場町に灯がつく時分になったので、再び町へ出かける。大通りから逸れる小路に粋な雰囲気の酒場がちらほら見える。最初に行ってみた魚介を推す酒場は予約でいっぱいで入れないとのことだ。コロナ禍でもなかなかに栄えてるようでうれしい気持ちになる。隣の建屋にある焼き鳥屋に入るも、ここもずいぶんな人気店のようで、30代独身日本式サラリーマンが一人で入るには相応しくないようだった。バイトの姉ちゃんに『90分の時間制限でお願いします』と言われて気分が冷めたので、焼き鳥数本とハイボールを飲んで店を出た。熱心に焼き鳥を焼いていた大きな坊主頭の大将は、筆者の気分を察したように表まで出てきて扉を開けて送り出してくれたのだった。


そして入ったのが鮨処たつみである。おつまみが充実した嬉しい鮨屋で、このわた、葉わさび、ゲソ酢味噌にクジラベーコンを瓶ビールや東洋美人でしっぽり愉しむ。眼鏡の坊主の大将は黙々と調理を続け、客と話さない。お付きのまだ若い2人の子分は大将の動きを察して材料をサッと準備している。大将が奥に入った隙に『大将、怖いの?』と冗談半分に尋ねるも、子分らは『いえ!大将は怖くないですよ!』と全否定された。最後に上握りをいただきました。カウンターだけの居心地のいい鮨酒場で、宇部新川で嬉しい思い出ができました。

ハーレム地区のブラウンストーンハウスに泊まってみる

2022-12-19 22:03:54 | 生活
ハーレム地区のブラウンストーンハウスに泊まってみるとは、筆者の2022年サンクスギビング連休におけるマンハッタンでの宿泊先に関する記録である。米国では民泊システムが充実しており、いくつかの大手サイトがある。とはいえ外国人にとってはなかなか懸念要素が多く、筆者のような小心者にとって利用のハードルは低くなかった。だが筆者は今回のコネチカットの長期出張で、それら民泊システムの利用に自信をつけたため、マンハッタンハーレム地区への旅行では思い切って、ブラウンストーンハウスに宿泊してみることにしたのだ。


この宿泊の詳細は以下の通りだ、参考にしてもらいたい。


①ブラウンストーンハウス
ニューヨークやボストンの下町通りには3~5 階建ての赤茶色い石やレンガ造りの細高い住居が隙間なく並んでいて、そのファサードのデザインの古風な美しさと都会的な香りで都市のアイコンのような存在になっている。このスタイルの家屋の歴史は古く18世紀後半から始まり、曲線やドーム型を多用したロマネスク建築風や直線的なギリシャ風・・といった時代ごとの建築様式のトレンドがファサードに反映されている。だが入口が通りの高さより半階~1階分高くしてあるのは共通で、階段手摺のデザインなども隣近所と競い合うようにそれぞれ異なっているので、歩くだけで面白い。



②民泊サイトの利点
歩くだけで面白いのに、民泊サイトでこの家屋に泊まれることが分かった。セントラル・ハーレムの125番通りから数ブロック北側の通りである。統一化されたデザインのホテルでなく、そこに住む人の生活が分かる家屋に泊まれるというのが民泊の魅力のひとつだ。30代独身日本式サラリーマンの旅は観光地へ行っても現地で孤独だし、帰ってから同僚に『この前、自由の女神を見に行ったんだ!』と話しても、『えー!でも一人ででしょ。』という何気なく刺さる言葉が返ってくるので、こういった地味なところで点数稼ぎをしておく必要がある。それにホテルに比べて人件費やサービス料がかからない分、価格が安い場合が多い。そのうえキッチンが使えるのも(孤独に食堂に行かなくて済むから)魅力なのだ。


③ブラウンストーンハウスの中
民泊サイトは紹介文によく目を通さないと、自分の想像と違って困ることがある。長距離バスターミナルからタクシーで現地まで移動し、ホストに連絡を取ると家屋から大柄な黒人男性が現れて部屋を丁寧かつフレンドリーに案内してくれた。正面入口を入ると内階段がある。それを上ると各階の正面側と奥側にドアがある。筆者の部屋は4階の正面側で、内階段のドアから入るとほぼベッドのみの小ぢんまりした部屋がある。部屋にはもう一つドアがあり、そこを出ると短い廊下を挟んでバスルームと階下へ降りる階段がある。よくよく話を聞けばホストはこの下の階に住んでいて、ホスト宅の一室を間借する形式になのだという。ブラウンストーンハウスは数世帯が入るアパート形式の建物で、筆者の宿の場合は1、2階と3、4階の奥側と正面側で計4世帯が入れる造りになっている。想像するに奥側の部屋は窓が一つもない空間になっているはずだ。外観はアイコニックな雰囲気だが、やはりもともとは下町庶民のアパートである。当然エレベーターなどないので、階段の上り下りに支障のある人は暮らすことが難しい。



とはいえ部屋は快適だった。今は富裕層の宅になっているはずのブラウンストーンハウスの内装は洗練されてきれいだし、ホストはプライベートを尊重してくれた。時折階下から聞こえるテレビの音や話し声も、何だか学生の下宿先に居るような心持になって悪くない。ただ階下のホストの部屋で暖房された空気が部屋にやってくる影響か、すこぶる暑いので、こちらは冷房を使わなくてはならなかった。とにかくそこそこ貴重な経験をすることができた。部屋には宿泊者の書置きノートがあったので、日本語で感謝の意を記しておいた、誰か見てくれるだろうか。

石炭記念館

2022-12-19 00:33:09 | 生活
石炭記念館とは、山口県宇部市にある石炭に関する博物館である。2022年夏の一時帰国休暇、伊勢市を後にした筆者はすったもんだの挙句に山口県宇部市へと向かっていた。最初の目的地が石炭記念館である。“カーボンニュートラル”が高らかに謳われる昨今、石炭は目の敵にされ、さらに発電量が一定でない太陽光発電の激増により日中は火力発電の採算が取りにくくなり、石炭火力発電所の新設は難しい状況にあるという。だが石炭による蒸気機関や製鉄技術の発明でニンゲンの生活は格段に豊かになった。そんな石炭の博物館が宇部市にあると聞きつけて、30代独身日本式サラリーマンが暇つぶしに赴いたのである。おりしも2022年夏の日本は猛暑による電力需要が高まっており、政府はコクミンに節電を訴えかけていた。


この記念館の特長は以下の通りだ、参考にしてもらいたい。


①アクセス~ときわ駅から
石炭記念館は、“ときわ公園”という遊園地や動物園などがある広大な公園の中にある。このときわ公園は電車からのアクセスが良いとは言えない。最寄り駅のJR宇部線の常盤駅から適当なバスを期待して思い降りたものの、ロータリーもない無人駅で取り付く島もない。『小川の蜜カス』の黄色い看板が貼られた電柱が並ぶ緩やかな上り道をずんずんと歩く。結局この炎天下、ときわ公園にたどり着くのに30分ほども歩いたのだ。公園入口には大きな建屋があり、何故かそこには焼き肉屋が入っていて、これがそこそこ繁盛していた。筆者はその入口のロビーでしばらく涼んだのちに公園へ入場した。

②アクセス~ときわ公園入口から
ときわ公園は“常盤池”という大きな人口池(東洋のレマン湖と呼ばれるらしい)をぐるりするようなかたちになっていて、公園入口から石炭記念館までもけっこう距離がある。入口から階段を降りると小児用のプールが営業中で、若奥様たちで賑わっているのを尻目に看板が示す石炭記念館の方向へ歩く。途中に現代アートが点在していたり、小さな囲いにみすぼらしい白鳥が一羽飼われていたりする。そしてカラスが多いのも印象に残る。石炭記念館はもうすぐだ。

③石炭記念館へたどり着く
蒸気機関車を通り過ぎ、最後の上り坂を上れば石炭記念館が見えてくる。それはコンクリート造の昭和の市役所のようなソリッドな建物で、テレビ局のような電波塔が上に伸びている。前庭には炭鉱で使われた台車やトロッコ、巻き上げ機などの機械が置かれて雰囲気がある。昭和の役所のような扉を押し開くと、またまた昭和の役所のような受付がある。なんと入場は無料だ。



④展示
石炭について、炭鉱について、炭鉱夫の暮らしについてなど、科学や歴史・民俗と広い範囲で捉えた展示が充実する。特に再現された坑道は迫力があって実際に働く人の気分が味わえる。長く展示内容を更新していないせいか、とにかく全体的な昭和臭が素晴らしい。特に子供を対象とした、トロッコに乗ってモニター映像を見る展示は、映像のアニメが絶滅危惧種的な昭和で、“ソ連”などの表記も出てくる。もしかしてあのテレビはブラウン管だったかも知れない。これはこのまま残したい。また、実際に当時炭鉱で働いていらっしゃた木下さんが(現在は語り部ボランティアをされているとのこと、御年90を超えていらっしゃる)、炭鉱夫の悲哀を歌った短歌がところどころに飾られて趣を感じる。牛蒡木固による止水方法の説明も興味深いものだった。電波塔のように見えたのは展望台だったが、これは上がらずに博物館を後にした。



石炭記念館に十分満足した筆者は猛暑の中を再び歩いて公園入口へ戻る。焼き肉屋のある建屋から、再びときわ駅へ向かってテクテク歩いていると、右手の遊園地がある方に公園入口がもう一つあって、そっちの方が記念館にはずいぶん近いことが判明した。来るときは見過していたのだ。しかもその入口にはバス停があり、次の目的地の宇部新川まで行けることが分かった。日本の石炭産業は石油へのエネルギーシフトや海外との価格競争に敗れた影響で、昭和後期に次々と閉所することになる。その労働環境の劣悪さによる犠牲者も多く、労働組合運動へとつながっていった背景もある。それにしても、東洋のレマン湖って本当に呼ばれているのだろうか。