goo blog サービス終了のお知らせ 

ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

岐阜竹の店

2024-01-01 03:56:40 | 生活
岐阜竹の店とは、岐阜県岐阜市にある竹細工のお店のことである。世界淡水魚水族館を大いに満喫した後、筆者は名鉄で岐阜市へ戻ってきた。この日の岐阜の天気は時折小雨がぱらついたかと思うと、雲が急に消えて青空が見えたりとはっきりしない。だが筆者の目的地の宿へと続く長良橋通りにはアーケードが延びているので、雨に打たれる心配はない。だから少し歩いてみることにした。駅前の交差点を渡ってアーケードに入るとスガキヤラーメンがある。筆者は人生初のスガキヤをここで体験した。飾らない、まるで学生食堂のような雰囲気のラーメン店は気持ちがいい、本来あるべきラーメン店の姿である、と思って調べると、実際にスガキヤは愛知県内の複数の大学に出店しているのだそうだ。竹の店とはその後に遭遇した。


この竹の店での思い出は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。


①岐阜の町
長良橋通りには、肉屋や信用金庫の店、それに楽器屋やスポーツ用品店などが並び、昭和の佇まいがあってとても楽しい。さらに北上を続けると長良橋通りは柳ケ瀬商店街と交差する。その薄暗い商店街もまた、昭和の雰囲気(少しだけフィレンツェ)がさらに濃厚で、タイムスリップしたかのような気持ちになった。それでもところどころ新しいお店があって小さいながらも活気がある、生きた商店街である。この町に漂う昭和臭は、“空襲に遭わなかったせいかもな”と思って調べると、岐阜市もしっかり米国の空襲を受けている。標的は真空管の製造工場(川西機械製作所岐阜工場)であったようだ。小一時間の爆撃で800名の人が殺され、岐阜の中心部は焼け野原となったとの記載がある。



②岐阜竹の店を見つける
柳ケ瀬商店街を高島屋(閉店予定)で折り返して長良橋通りに戻り、北上を再開するも、“ぜにや”の看板があるビルの交差点でアーケードは終わってしまう。しかし西側の歩道にはトタンの軒が延びる小汚いバラック風のアーケードが残っていたので、もう少しだけ歩いてみることにした。そして廃屋のような商工会議所(これは跡地だった)を過ぎたところで雨が激しくなり、ついに諦めてバスに乗ろうと思ったときに、通りの向かいに“岐阜竹の店”が見えたのだった。それは古びた昭和な3階建てのビルの1階にあり、シンプルな白地に行書体で書かれた看板が目を引く。ガラス戸の向こうには民芸品が飾られていて、一見したところでは外国人観光客目当ての店のようにも見えたので、興味本位での入店も許される雰囲気を感じた。



③岐阜竹の店に入る
田舎のクリーニング店のようなガラス引き戸を開けて入店すると、所狭しと竹かごなどの竹細工と民芸品が並ぶ。店内は静かで、誰もいないのかと不審に思い、竹細工が積まれたカウンターの奥をのぞき込むと、男性が椅子に腰を掛けて一人黙々と竹を削っていたので、びっくりして声を上げてしまった。そうすると男性はこちらを向いて、『あ、いらっしゃい』とだけ言い、再び一心不乱に竹を削り始めた。この男が竹職人である。筆者は職人には畏敬の念を忘れないように心がけるので、不必要に話しかけたりせずに大人しく店内を見て回った。



④竹箸、耳かきの購入
たとえ孤独な似非30代独身サラリーマンでも、旅先では何か記念になるものを買いたいと思う。そこで竹の箸と耳かきを手に取ってレジへ近づく。だが、竹職人は作業に集中していて筆者に気が付かない。筆者は職人には畏敬の念を忘れないように心がけるため、むやみに彼の仕事の邪魔をせず、彼が筆者に気が付くのをずっとレジの前で待っていた。数分後にやっと竹職人は筆者に気がついて、会計することができた。職人は申し訳なく思ってくれたのか会話がやや弾み、この竹は長良川で採ってくることなどを聞いた。そして40㎝ほどの反割の竹(足つぼ用)をもらったのだった。



調べてみるとこの店にはずいぶんと平成臭の強い貴重なホームページがある(できれば更新して欲しくない)。それによれば明治から続く歴史ある店のようだ。筆者が出会った竹職人の男性は三代目であり、代々“竹遊斎”と名乗り、竹で花入れなどの芸術作品を制作しているそうだ。さて、ここの竹箸はたいへんに使いやすくて驚いた、“もう他の箸は使えない”と言っても過言ではない。ただ割り箸と見まがうほどのシンプルな造りなので、ちょいちょい間違って捨てそうになる。値段がとても安かったので余分に買っておけばよかったと思うほどだ。それに足つぼ用竹もたいへん重宝している。踏めば踏むほど自分の足になじんでくるような気がしている。2024年が始まる。米国の一極支配は揺らぎ世界は混迷の様相だ。竹の役割が見直されるときがまた来るかもしれない。

世界淡水魚水族館

2023-12-18 01:23:55 | 生活
世界淡水魚水族館とは、岐阜県にある淡水魚専門の水族館である。TOKYOで米国駐在ビザの更新と勤め先の中間管理職研修を終えた週の金曜の夜、筆者は名古屋に居た。その夜に出会った人々の影響で、筆者は翌朝の土曜には名鉄に乗り込んで岐阜へ向かったのだ。朝食は大都会名古屋駅前で牛丼でも食べようと思い、あえて“くれたけイン”の朝食を食べずに地下鉄に乗るも、土曜の朝の名古屋駅周辺の食堂はすべからく閉まっている。筆者は仕方なく三井ガーデンホテルへ行き、豪華ひつまぶし食べ放題朝食をパクついたのだった(2700円!)。隣の席のプチ富裕層熟年夫婦の世間話から、羽生結弦選手のスピード離婚のニュースを聞く。ガラス張りの高層階レストランからは広大な尾張国の平野と海が見えた。


この施設の特長は以下の通りだ。参考にしてもらいたい。



①名鉄に乗って岐阜へ
名鉄とは名古屋鉄道のことをいう。この特急に乗れば名古屋駅から名鉄岐阜駅までおおよそ20分で着いてしまうのだ。正直なところ筆者は勝手に岐阜県に対して漠然と“山奥、秘境、田舎”のイメージを持っていたが、少なくとも岐阜市からは名古屋都市圏が完全な通勤範囲のようだ。しかも勝手に岐阜県と愛知県の間には山々があるのだとばかり思っていたが、県境は木曽川周辺で、名鉄は岐阜駅まで見事なまでの平野を進んだ。名鉄は岐阜・名古屋間以外にも、犬山城方面や知多半島先など沿線は愛知県を網羅している。何でも私鉄の中で近鉄と東武鉄道に次いで3番目の沿線距離を持ち、歴史も古い鉄道なのだが、やはり名古屋の宿命で、上の二つの私鉄に比べるといたってマイナーな印象は否めない。



②世界淡水魚水族館へ向かう その1
筆者の最初の目的地は世界淡水魚水族館である。曇天模様の名鉄岐阜駅にたどり着き、当該施設までのアクセスを調べると、最寄り駅は“笠松”という駅で残念ながらまた戻らなくてはならないことが判明した。悔しいので駅に隣接する商業施設で特大の便を済ませてすっきりする。駅の構内には“岐阜の財布MURA”の看板があった。ちょうど財布を買い替えたいと思っていたので、同じく隣接するロフトなどを覗いてみるも、ポーターしかなくてがっかりする。そして笠松駅まで電車に乗りこんだ、



③世界淡水魚水族館へ向かう その2
笠松駅は寂しい。小さな駅前ロータリーに1台だけ止まっていたタクシーに乗り、“世界淡水魚水族館までお願いします”というと、中年運転手には“あぁ、アクアトットね”と返された。似非30代の大人の男が一人で向かうには恥ずかしいネーミングである。筆者が旅行で岐阜まで来たと言えば、運転手は『ここには競馬と飛騨牛以外はナーンもありませんよ、住むにはエェですけど』と滔々と岐阜をディスり始めて楽しかった。タクシーは笠松競馬場から木曽川の堤防通りを上っていき、15分ほどで世界淡水魚水族館に着いた。



④世界淡水魚水族館
“世界淡水魚水族館は昭和の堅苦しい重厚なコンクリート建物で、薄暗い館内にはあまり人がおらず、話好きな老人の学芸員が筆者について回りアレコレ説明する施設である”はずだったが、違った。それは現代的な建物で、子供連れのママたちで大変賑やかで、周囲に観覧車があったり大道芸人がショーをしていたりと、大したアミューズメント施設であった。しかし楽しい。清流長良川を上流から下流へと下るコンセプトで、生き物たちを素晴らしいレイアウトで紹介しながら、川に関する知識を与えてくれる。それを終えれば研究室のコンセプトでアマゾンの生き物、航海のイメージでアフリカの淡水魚たちとも出会える。実は筆者は池沼や河川が大好きで、そこに住む生き物もまた大好きなのだ。童やママたちがすぐに通り過ぎる水槽の前に立ち、不審者のようにじっくりと生き物たちとの会話を楽しんだ。



この辺りは完全な車社会のようだ。公共交通機関での世界淡水魚水族館へのアクセスは良くない。帰りはバスで安く帰れるかと期待するも便は多くない。仕方なくさっきのタクシー会社に電話をした。さっきと同じ運転手がやって来たなら淡水魚水族館の魅力を滔々と語ってやろうと待ち構えていたが、やってきたのはもっと年老いた運転手だった。笠松駅から岐阜へ向かう。小さなお土産屋“ふらっと笠松”で少しお金を落として帰ろうかと思ったが、岐阜行の特急の時間が迫っていたので足早に切符を購入する。だが、ふと変わった自販機が目に止まる。ボルシチやビーツなどの東欧料理の自販機だ。『笠松と東欧・・・?』何とも不思議な気持ちになったが、とにかく特急に乗るべく、筆者は改札をくぐった。2023年11月の岐阜である。

名古屋の夜

2023-12-17 12:50:28 | 生活
名古屋の夜とは、筆者が2023年の11月に過ごした名古屋での夜のことである。TOKYOで米国駐在ビザの更新と、勤め先の中間管理職研修を終えた週の金曜の夜に、筆者は名古屋に居た。名古屋駅で降りるのは学生時代に栗尾和尚の宅を訪ねて以来なので、おおよそ20年ぶりになる(*栗尾和尚の回を参照のこと)。中間管理職理研修で同席した大阪のニシダと話し足りずに思わず一緒に新幹線に乗り込み、なんとなく名古屋で下車したのだ。似非30代独身日本式サラリーマンは孤独だが身軽な小金持ちなので、ニシダのように子供が待つイエに一生懸命帰らなくてもいい。名古屋駅のコンコースで宿を探し、 “くれたけイン久屋大通り” を予約した。


この日の夜の記憶は以下のとおりだ、参考になりはしないだろう。


①名古屋駅からタクシー
名古屋駅からタクシーで“くれたけイン久屋大通り”まで向かう。名古屋市街は車道と歩道が広い。そしてさすが城下町だけあって歴史がありそうな名前の通りが連続する。運転手の話によれば、2年に渡る“三密運動”の結果、外で遅くまで酒を飲む人がめっきり減り、“終電過ぎてからが稼ぎ時”のタクシー業界は売り上げが戻らないのだそうだ。そのうえ『ライドシェア』なる自由化にさらされる気配を帯びてきて、業界の先行きは暗いとの話であった。その他に“岐阜までは名鉄の特急で20分で行けてしまうこと”や、“赤提灯の飲み屋はホテルから南へ歩けば沢山ある”などといった有益な情報を得た。



②くれたけイン久屋大通
くれたけインが面する通りは“久屋大通”といって、対向車線の間に大きなパブリックスースがあるたいそう立派な通りでびっくりする。 “きっと江戸時代には名古屋城の大手門に繋がる大通りだったのだろう”と思い地図を見ると、通りは名古屋城の位置とは若干ずれている。そこで歴史を見ればこの通りは名古屋城とはまるで関係がなく、空襲で焼き尽くされた名古屋市街の復興時に火災被害防止の目的で大きな幅員が取られたのだという。それが今では『100メートル道路』として名古屋市のメインストリートとなっているのだ。ホテルの場所から通りの先を眺めると、大きな電波塔が見える。これは“みらいタワー”と言うのだそうだ。1950年代に建てられた国の文化財にも指定されている由緒のあるタワーらしいが、日本のその他のタワーに比べてマイナーな存在であることは否めない。だって似非30代日本式独身サラリーマンの筆者は今の今までその存在を知らなかったのだから。そいういところに名古屋の宿命を感じざるを得ない。ちなみにこのタワーについて調べていたら、近藤陽洲さんという面白い男性を発見したので興味のある読者は調べるとよい。


③盛り場へ
筆者は着替えを済ませてすぐにホテルを出て、町を探訪しながら酒場を探す。“盛り場は南方にある”との運転手の情報をもとに歩きだすも、何故かネオンは遠い。そう、筆者はてっきり名古屋駅方面を南と思い込み、しばらく明後日な方向を徘徊していた。東海道新幹線は愛知県を南北に通っているので、筆者は西進していたのだ。それでも自然にネオンの光に惹かれていき、なんともなしに名古屋随一の繁華街“栄”にたどり着いた。しかし金曜夜の栄は何だかギラギラしていて、似非30代独身日本式サラリーマンがひとりで気軽に入れるお店は見つからない(勇気を出して入った地下の鮨屋は満席)。それに路上にはジャージファッションの若者が多くて何だか怖いので、筆者はいそいそと盛り場を退散し、コンビニで総菜を買ってホテル飲みでもすることに決めたのだった。



しかし帰り道を少し迷っているうちに、“味のかつら”という何とも安心感のある酒場に遭遇した。金曜夜というのに客足は少なく、そこそこ広い店内には大学教員と思われる5~6人グループと筆者のみである。筆者はヱビスビールの大瓶から始めて、豊富なメニューの中から土手煮、味噌田楽、目刺し、焼き椎茸にから揚げ、そしてホタルイカ沖漬けとハムカツと、厳選してつまみを選び、“通”を装った。ヱビスビールの後は“蓬莱泉”という三河の酒を、冷や燗で愉しんだ。至福の時間である。あまりに嬉しくなったので釣りの千円札をチップとして残して店を後にすれば、女将さんが『お客さん、お釣り忘れてますよ!』と駆けてきた。以上までが、ここで書ける範囲の2023年の名古屋の夜である。

浦賀

2023-12-11 05:07:49 | 生活
浦賀とは、神奈川県横須賀市にある地域である。三浦半島の東南部(かかとの部分)に位置する。溜池山王の米国領事館で書類提出と面接を終え、米国就労ビザ発給を待つ間は楽しい暇な時間である。筆者は浦賀へ行ってみることにした。開国の、明治維新のきっかけとなった黒船来航の地である。きっと面白いものがあるに違いない。京急線に乗り込み、途中で“雑色”という奇妙な名前の駅で降り、思いのほか賑やかな商店街でハムカツを食べたり、駅前喫茶“リベルテ”でモーニングを食べたりしたので、終着駅の浦賀に着いたのは午前10時頃だった。2023年の11月、天気が良い。


この日の思い出は以下の通りだ、参考になるだろうか。



①浦賀駅に着く
平日、京急線の終点浦賀駅の曲線状ホームで電車から降りる乗客はごく僅かで、観光客らしき人は全くいなかった。駅の改札に、『ようこそ開国の町へ』という手作り感のある看板、というより貼り紙に近いものがある以外は観光地を思わせるものすらなく、少し不安になる。それでも改札を出て階段を下りると入り江の景色が眼前に広がり、『お、海に来た。浦賀に来た』と感じることができる(駅のホームからは谷あいの景色しか見えないのだ)。そして駅前には小さな観光案内看板や、防波堤のようなブロック塀に地元の少年少女が描いた歴史場面の絵画があって、それなりに外からの観光客を迎え入れる準備を感じたので安心した。




②観音崎通りを南へ行く
案内看板を見ればこの京急浦賀駅は入り江の根に位置し、入り江の先端両側に寺社仏閣や碑などの史跡が多いことがわかる。入り江の先端には、東西を結ぶ渡し舟が出ているそうだ。そこで散歩がてら入り江の東側の観音埼通りを南下することにした。道の山側はほぼ垂直に切り立った崖がそびえていて、崖の間を縫うように砦のようなマンションが建っている。入り江側はコンクリート塀で囲まれて、有刺鉄線までついてる。ここは“浦賀ドッグ”といい、この深い入り江を利用して江戸末期に造船所として整備されたようだ。ここで日本初めての洋式軍艦鳳凰丸の築造や、咸臨丸の整備が行われたのだ。明治~昭和時代に軍艦製造がおこなわれ、2021年に住友重工から横須賀市に文化遺産として譲渡されたという。だが背伸びして塀の中を覗くと、この東側のエリアは材料置き場のような殺風景な雰囲気で、観光に使われている様子はまだない。




③史跡エリア周辺
入り江の先端に近づくと平地が増え始め、住居エリアが見えてくる。この辺りが史跡スポットエリアである。歴史好きの老人男性共が書物を持ってエリアを探訪している。しかし基本的に案内が親切とはいえず、東林寺では中島助三郎の墓がどこか分からなかったし、中島助三郎についても説明を見つけることができなかった。“勝海舟の断食の碑”があるとのことだったが、“勝海舟が断食のときに使った井戸”しか見つけられなかった。その他案内にはない記念碑が突然現れたりもする(日スペイン貿易の碑など)。入り江の両側にある叶神社はどちらも応神天皇(誉田天皇)を祭る神社で、21世紀に入り宮司が西と東のコラボのお守りを作って縁結びパワースポットとして売り出しているらしく、ちらほら若い男女がいた。



浦賀、今日では静かな漁村と小さな都心へのベッドタウンとして機能する地域のようだ。観光というより散歩スポットだが、漁村の雰囲気や入り江の地形は楽しいし、のどかな渡し舟やふいに現れる石碑など宝探しのような楽しみがある。しかし筆者は大事なことを忘れていることに気が付いた。それはペリーである。西叶神社の山門にある“ペリー歯科”以外にペリー提督にまつわるものがない。これはおかしい。『浦賀と言えばペリーでしょうが!!』と思い、すぐにネット検索すると、久里浜方面に“ペリー公園”があるという。筆者は浦賀駅へは戻らずに、久里浜行きのバスに乗り込んだ。そのためこの浦賀地区最大の見どころ、浦賀レンガドッグを見そびれたのだった。人生である。

ペリー公園

2023-12-09 13:16:04 | 生活
ペリー公園とは、神奈川県横須賀市にある公園である。“浦賀と言えばペリー”のはずが、浦賀散歩では歯医者以外に偉大なペリー提督の名残を感じることができず、筆者はやや消化不良となった。そこで叶西神社前バス停から京急久里浜方面行のバスに乗り込んだ、目的地はペリー公園である。京急久里浜駅へは丘をひとつ越え、尻こすり坂通りというへんてこな名前の通りを曲がるとすぐに着く。京急久里浜の駅周辺は商店街がけっこう賑やかで、バスターミナルも大きく、思いのほか栄えている。東京近辺に住んでいた20代独身(一時的に既婚)日本式サラリーマンだった頃は、こんな散歩をする余裕が心にも体にもまるでなかったことが思い起こされた。


この散歩の記録は以下の通りだ、参考にするといい。



①ペリー公園行のバス
調べればペリー公園は京急久里浜駅から歩いていくにはやや距離がある。そこでバスターミナルをウロウロするも、京急久里浜駅からペリー公園行きのバスはない。どうやら東京湾フェリー乗り場方面行きのバスに乗り、“大浜”というバス停で降りるようだ。そう、この町からは東京湾を横断して千葉県富津市へ向かうフェリーが出ているのだそうだ。『それにしても“ペリー公園前”というバス停があってもよかろうに・・』と筆者はやや不安になる。大浜バス停には5分ほどの乗車で着いた。そこは大きなホームセンターの前であり、ペリー公園へはそこから海岸通りを5分ほど歩くことになる。久里浜海岸の砂浜と南国風の樹木が見え始めるころに、左手にペリー公園が現れる。




②ペリー公園
ペリー公園は一見したところだだっ広い広場であり、中央に大きな石碑がある。大きな石碑には“北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑”と掘られている。“伯理”とはペリーのことだ。説明書きによれば、この碑文は伊藤博文公の書であり、何でも明治時代に浦賀を訪ねた当時の黒船船乗組員のビアズリー氏が、この地にペリー来訪を記するものが何もないと嘆いたことに端を発し、米友会の当時の会長の金子堅太郎らの働きかけで記念碑建立が発案、超突貫で石碑が造られ、建立に日には盛大なセレモニーが催されたのだという。そして太平洋戦争の時期には横須賀の愛国者たちにより引き倒されたり、戦後にまた立て直されたりと、説明看板には当時の様子が伺い知れる歴史エピソードが書かれている。



③ペリー公園
記念石碑の他にも広場にはセレモニーの際に植樹された松の木や、有名な蒸気船の川柳の石碑などもあるが、それだけである。公園のすみっこにはベンチ並んでいる。そのベンチにはたいてい地元の漁師の人なのか知らないが、北米に駐在していると長らく見ないタイプの近寄りがたい日本人男性が腰をかけてじっと煙草を吸っているので少し怖い。そして公園の奥には“ペリー記念館”があり、何と入館無料である。ここは大変興味深い施設なので、『来てよかった』と思える。ただ、係員と思しき人はずっと背中を向けたままで筆者に全く関心を示さなかった。この日にたまたま嫌なことでもあったのだと信じたい。




雑色駅前のリベルテでの朝食からずっと何も食べておらず、流石に空腹を感じたので公園の少し先にある海岸通り沿いの“黒船食堂”というお店の扉をあけると、テーブルはほぼ地元の漁師の人なのか知らないが、北米に駐在していると長らく見ないタイプの近寄りがたい日本人男性に占拠されており、怖くなってそっと扉を閉じ、通りを戻って“50番”という中華料理屋でスーラータン麺と餡かけ餃子をいただきました。タモリや鶴瓶の写真も貼ってあるなかなか楽しい中華屋でした。そして久里浜駅に戻り、商店街にある小さな感じのいい洋服屋で久々にまともな服を購入した筆者は浦賀日帰り旅行にたいへん満足して京急で東京へ戻ったのだった。晴れた日には浦賀を思い出すだろう、そう思うほどに気持ちのいい晴れの一日だった。