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ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

ジュウジロウ・ワダ像

2024-09-08 02:03:48 | 生活

ジュウジロウ・ワダとは日本人の探検家である。彼の像がアラスカ州スワードの町に建っている。スワードでの二日目は、ケナイ・フィヨルド国立公園でトレイルを歩いた。各所で雪解け水が流れ落ち、苔むした火山岩がゴロゴロした山道はなかなかに険しい。それを一時間ほど登れば、ふいに辺りが高山植物風の花畑になり、谷から吹き上げる風が冷たくなる。さらに小一時間ほど尾根道を進めば氷河を見下ろす絶景スポットへ着く。トレイルはさらに先へ続くが、筆者はそこで引き返した。筆者の他にもハイカーは多く、挨拶を交わしながらの楽しいハイキングだ。特に草むらに野ネズミが居ることを親切に教えてくれた白人メガネ女子の、その学級委員的な風貌では隠し切れないエロスが、今でも印象に残っている。人は神々しいほどの大自然の中にいても、性的である。

 

 

この旅の記録(のつづき)は以下のとおりだ。参考にしもらいたい。

 

 

①ビジター・センター

往復で4時間ほどのハイクを終えて、ビジターセンターへ戻ってきた。ビジターセンターにはケナイ・フィヨルド国立公園のジオラマが展示されている。ジオラマを見れば、盆地のように山に囲まれたお釜の中が氷で満たされており、筆者が見た“氷河”とはそれが盆地の外側に溢れ出ている場所のようだ。故に氷河は、お釜の低い部分、つまり盆地を囲む山と山の間から谷を目掛けて四方八方に広がっているそうだ。地球の気温が上昇している影響で、このあふれ出ている部分の氷の量が年々減っているのだという。

 

 

 

②スワードのスーパーマーケットと地中海料理

予約より一時間早いシャトルバスに乗せてもらい、スワードの町へ戻った。そして『さぁ酒を飲みに出よう』と思ったものの、外で酒を飲むと高いし、一日目のシーフードのコスパの悪さもあったので、“スワードのスーパーマーケットで、魚介の総菜を買う方が良いかも知れぬ”と思いなおした。だがスワードのダウンタウンにはスーパーマーケットが無い。そこで鉄道駅の北にあるスーパーに向けて歩いたのだ。そこには“スワード・マーケット・プレイス”と“セーフ・ウェイ”の二件のスーパーがある。だが期待したスワード・マーケットプレイスには生鮮食品がほとんど売られておらず、少々がっかり(酒類コーナーのコリアン店員は可愛かった)だったり、頼みのセーフ・ウェイですらベイエリアのそれよりも魚介が少ない有様であった。どうやらアラスカの人は、魚介を好んで食する訳ではないようだ。仕方なくダウンタウンの老舗っぽい地中海料理屋へ入ることにした。女将と思しき4頭身で、樽のようなスタイル、そして恐ろしいほどの厚化粧の白人女性からは、心なしか他のテーブルと比べて劣るサービスをされたのが気に食わなかったが、ピザの味は悪くなく、ビールをゴクゴク飲んでしまった。トレイルヘッド・ロッジングに戻ったら、トレッキングの疲れで深い眠りについた。筆者が空港や高速のすぐ傍のアパートで、鳴り続ける交通音にすっかり慣れた生活をしている所為かも知れないが、スワードの夜は、まるで“静寂の音”がするかのような静けさがある。

 

 

 

 

③ジュウジロウ・ワダ像

翌日の朝のバスでアンカレッジへ向かうことになっていた。スワードの町が名残惜しく、早朝に散歩をしてみると、水族館に隣接した芝生の広場にジュウジロウ・ワダ像があった。毛皮の防寒服に全身を包み(顔だけ出ていて可愛い)、手に犬そりの道具のようなものを持つその姿は、一見では日本人とは思えない。台座には“Iditarod Trail Pioneer”と書かれている。他に何の説明もない。しかしウィキペディアを見れば、この人物は、カワベ・パークのカワベ・ソウタロウに比べると圧倒的に情報量が多く、新田次郎によりその半生が小説化もされているようだ。16歳のときに『アシはアメリカに渡って住友になるぞな』と言い、明治24年に愛媛県を飛び出してアメリカへ密航、捕鯨船の給仕として過ごす間にアラスカの土地勘や犬ぞり技術を学び、毛皮商や石油や金鉱の発掘などで活躍したのだという。彼がスワードの町から依頼されて探検したIditarod Trailのルートは、今は世界的な犬ぞり大会のコースになっているそうだ。

 

 

 

 “筆者と同じ年位の頃には何をしていたのかな”とふと思い、ウィキペディアの彼の年紀を追うと、“タバスコ王、エドワード・マキルヘニーと組んで鉱山開発に取り組むも、日本のスパイ説が流布され、身を隠すことを余儀なくされる。その間もカナダ北部を拠点に北極圏を犬橇で走り回る”と、スケールがまるで違う人生を歩んでいる様子があった。筆者は、今の日本にワダ氏のようなタフ・ガイはいるのだろうか・・・そういえば確かかつて早稲田大学にスーパー・フリーなワダさんがいたな・・などと、アンカレッジへ向かうバスの中で思いに耽っていた。


カワベ・パーク

2024-09-02 02:15:53 | 生活

カワベ・パークとは、米国アラスカ州スワードの町にある公園である。スワードはアラスカ鉄道コースタル・クラシック線の南端終点の港町で、氷河やホエールウォッチングなどのクルーズ船が出たりする観光拠点にもなっている。筆者もまたアンカレッジから観光鉄道でスワードへ向かった。退役軍人グループの慰安ツアーと思しきマッチョ風白人家族団体と同じ車両で、興奮の仕方(“クレイジー!”“オージーザス!”など)にやや温度差を感じつつも、圧倒的な景色を彼らと共に感動しつつ、4時間の鉄道の旅を楽しんだのだった。

 

 

この旅の記録は以下のとおりだ。参照にしてもらいたい。

 

 

①トレイルヘッド・ロッジングまで歩く。

スワードの町は縦に細長く、クルージングの発着場や箱の大きなホテル、それに高級感のあるシーフードレストランなどは主にこの鉄道駅周辺エリアにある。一方ダウンタウンは町の南端で、鉄道駅からは徒歩で20分ほど離れている。筆者の予約したトレイルヘッド・ロッジングはダウンタウンエリアにあるので、筆者は徒歩で住宅地を南下した。西側には氷河で削られた急峻な山の頂上が、ほぼ真上に見上げるかのような距離に迫って迫力がある。そして東側の入り江の海は湖のように凪いでいて、水は白く濁る。この濁りは“Glacial silt”と言い、氷河の動きによって岩石が削られた非常に小さな粒子なのだという。入り江の向こうにも急峻な山がにょきにょきしていて、それはそれは不思議な景色だ。

 

 

②トレイルヘッド・ロッジング

トレイルヘッド・ロッジングは、ダウンタウンの北外れにある静かな建屋で、同じ建屋にランドロマット(本ブログ参照のこと)が併設されているので便利である。フロントなどはなく、入り口のドアに部屋番号と宿泊客のファミリーネームが貼られてあって、“ロックは携帯の下4ケタ”と書かれてあるだけだ。部屋はこちんまりした可愛らしい家具が並んで、紅茶のtバッグのサービスもあって居心地がよい。2泊分の宿泊基地には最適で、気に入ってしまった。

 

 

 

 

③カワベ・パーク

荷物を降ろし、『さぁ酒を飲みに出よう』と勇んでダウンタウンへ向かうと、そこにカワベ・パークがあった。カワベ・パークは公園というよりは広場であり、あずま屋と公衆便所と、ベンチがあるばかりだ。だがここはダウンタウンと鉄道駅エリアとを結ぶシャトルバスの停留所になっているため、腰を掛けている人が多くいる。そこに誰も見ていないカワベ・パークの由来が書かれた立て看板があって、カワベ氏らしき日本人の写真が載っている。だが空腹とビール欲しさに立ち止まることが適わず、筆者は立て看板の写真だけとってダウンタウンへ向かった。

 

 

筆者はダウンタウンでヒラメとサーモンのフィッシュ&チップスを食べながら、アラスカビールをがぶがぶ飲みつつ、カワベ・パークについて調べてみた。それはハリー・カワベ(日本名カワベ・ソウタロウ)を記念して作られた公園らしい。ハリー・カワベ(日本名カワベ・ソウタロウ)は大阪近辺の小さな村で1890年に生まれ、16歳のときに渡米し丁稚から始めてスワードの町で財をなし、実業家として洗濯屋や銀行業や毛皮屋などで町の発展に貢献したのだという。太平洋戦争の折にはやはり強制的に収容所に送られたが、戦後には再び実業家としてシアトルで老人用アパートなどの運営で活躍したのだという。日本のウェブサイトを探っても彼の詳細は出てこない。カワベさんの生きざまに感動するとともに、またもやアメリカという国の懐の大きさを感じたのだった。ちなみにフィッシュ&チップスは別に美味ではなかった。


サリナス・ロデオへ行ってみる。

2024-08-16 03:01:46 | 生活

サリナス・ロデオに行ってみるとは、筆者が2024年の7月にカリフォルニア州サリナスで開催されたロデオ大会へ行った日の思い出のことである。“そういえばロデオを見に行っていない”と思ったのは、数ヵ月前のことだ。ロデオは、ジーパンや野球やアイ・フォンなどと違って、日本ではなかなか体験できないアメリカ文化のひとつだろう。“行けたらいくべきである”と思って、何の気なしに近辺のロデオイベントを調べると、このサリナス・ロデオが出てきた。他にもちらほらとベイエリア近辺でロデオのイベントがあるようだ。ああいったカウボーイのイベントは、てっきりテキサスなどの南部州がメインだと思っていたので、筆者は嬉しくなって“一人で見に行くこと”のリスクも考えずにチケットを購入していたのだった。

 

 

このロデオの思い出は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。

 

 

①大会の概要

“サリナス・ロデオ”と銘打ったロデオ大会は、毎年夏が盛る7月中旬に3日間に渡って開催されている。どうやら1911年から続く伝統ある大会のようだ。開催時間は午後1時から夕方5時半までと、かなりの長丁場である。筆者は最終日の日曜日のチケットを購入していた。サリナスの町へは、ベイエリアからは車で南へ二時間ほど走ることになる。以前サン・ルイス・オビスポ紀行を行ったときに立ち寄ったサリナスは、畑の土埃の匂いと日差しが強く、かなり暑かった記憶があったし、それにロデオは夏のイベントに違いないので、サウス・サンフラシスコであればけっこう寒い半ぞでTシャス姿で出かけてみた。101号線はギルロイを過ぎた辺りから渋滞気味である。まさかロデオが原因ではあるまい。

 

 

 

②いざロデオ会場へ

との予想どおり、156号線と分岐するところで、ほとんどの車がモントレー方向へ進んだので、渋滞はなくなり、ほどなくして大会が行われるサリナス・スポーツ・コンプレックスに到着した。しかし周辺はかなりの混雑で、会場駐車場入り口には車が列をなし、道路を挟んだ正面のショッピング・ゾーンには“ロデオ客の駐車はお断り!”の看板が立つ。歩道にはカウボーイ・カウ・ガールの出で立ちの人々がぞろぞろ歩いている。けっこうなイベントだ。筆者は“一人で見にきたこと”への不安が募ったが、ここまで来て逃げ帰るのも恥なので、会場から少し離れた錆びれた住宅街へ路上駐車し、会場まで徒歩で向かった。この日はあいにく曇天で気温が低く、半そでTシャツだと薄ら寒い。

 

 

 

③会場の雰囲気 その1

まず書いておかねばならないのが、会場の人々の恰好についてである。選手だけなく、観客が皆、カウボーイ・カウガール姿なのである。それは阪神ファンや加茂ジャパンファンなどといった、特定のチームを応援するための装いではなく、ロデオを見に行くための“正装”に近いものであり、日本でいうところの“夏祭りに出かけるときの浴衣”のようなものだろうか。まぁ、カウ・ボーイの方はどうでもいい。なぎら健壱風の恰好の人で溢れているだけである。だが女性は、背中やおっぱい近傍が露わになった衣装の人が多く、特にティーン・ネイジャー・ガールのグループなどがそのような恰好で、やや恥ずかしそうに歩いているのを見ると、30歳独身日本式サラリーマンといえども競技よりもそちらの方が気になるのは生物学的には正常である(はず)。しかし場にそぐわないのは明らかにこちら(“台湾”と書かれた怪しいベースボールキャップ、オカバシの便所サンダル、Tシャツ)なので、必死に見ないようにしながらチラチラ見ることになる。人々にとっては、スポーツというより、パーティーのようなイベントのように見える。

 

 

④会場の雰囲気 その2

その他の会場の様子にもサラリを触れておく。会場の外にはカウボーイ関連のグッズ販売や、ビール・食べ物の露店、それに射撃の出し物やカントリーミュージックライブ、子供用の乗馬コーナーといった、まさにお祭りの様子で、観客と共にゼッケンを付けた競技選手と思しき人々も練り歩いている。思いのほか白人層が多く、ヒスパニック系と半々といったところだ。射撃の出し物は、風船を投げてそれを早撃ちするという、日本では決して見られない恐ろし気な出し物で、それを子供らに見せてキャッキャと喜んでいるファミリーを見ると、文化の違いを感じる。

 

 

⑤競技

競技場は、観客席から練習場のようなグランドを挟んだ向こう側で、結構遠い。それでも選手たちが暴れ馬に乗ったり、逃げる牛を投げ縄で捕らえたりする様子にはなかなかの迫力がある。また、競技を終えた後に牛を牛舎へ追い込んだり、暴れ馬をなだめるためのカウボーイ姿の係員がおり、彼らがけっこう選手よりも目立つのも興味深い。だが、それらの競技が選手の男女別、もしくは馬の雄雌別で繰り返されるだけなので、やや単調である。よって競技の最中には、客席に近い練習場グラウンドで観客を喜ばせるダンス・ショーや馬乗りサーカス、屈強な男チームが牛を追いかけて捕らえてズボンを穿かせる珍妙な競技などが行われ、観客を飽きさせない仕組みになっている。競技と競技の合間には大会のスポンサー企業の旗を振った騎手が会場をグルリと走る様は、相撲の懸賞旗を思い起こさせる。スポンサー社は建設業やトラック運送業、精肉会社など、やはりトランプ候補支持層臭が強めになっている。

 

 

さて筆者は寒いのと、淋しいのと、多少の飽きで、最後のメインの“牛乗り”は見ずに会場を出た。悲しきアジアン・ボーイ、熱々カウ・ガールとのハプニングなど期待するべくもない。帰宅後にビールを飲みつつこのイベントについて調べていると、会場にはかつて太平洋戦争のおりにはバラックが建てられ、日系移民の一時収容所になっていたのだという。本ブログの、イースト・シエラ・ネヴァダの旅の回で紹介したマンザナール収容所へ送られる前に収容されていたのだ。サリナスへは日本から農業従事者が多く訪れ、彼らが真面目に働くせいで、他の労働者が職を奪われてしまい、顰蹙を買っていたようだ。思いがけず、また日系移民と関係のある場所を訪ねたようだ。来年は反米と鎮魂を胸に、なぎら健壱ルックで出かけてみようかな、萩原流行さんルックでもいいかな。以上が、サリナス・ロデオのルポである。


寮長の勘違いのせいで、荻田君が折田君の父親と電話で話したこと

2024-07-28 08:13:23 | 生活

“寮長の勘違いのせいで、荻田君が折田君の父親と電話で話したこと”とは、筆者がまだ10代日本式童貞浪人生であった頃の出来事である。そう、今回は久々の思い出シリーズだ。ふと思い出し、おかしくて嬉しくなったのでここに書いておくことにする。それにこの出来事は、情報端末の個人所有化が極限まで進み、ビデオ会話すら可能になった昨今ではもう起こりえないもので、文化的な記録としても貴重である。それにしても思い出し笑いとは本当に幸福なものだ。性欲や食欲や睡眠欲のように、満たされても幸福感が減退しない。

 

 

この出来事の詳細は以下のとおりだ。参考にしてください。

 

 

①メイプル寮

筆者が浪人時代を地方都市の予備校の寮で過ごしたことは、本ブログでも何度か述べた。その名もメイプル寮である。6階建てのメイプル寮には食堂及び寮長寮母の住まいになっている1階を除けば浪人生でぎっしりで、何だか受験戦争の塹壕のような雰囲気があった。数えた訳ではないが、寮生の3~4割程度は医科歯科志望だったように思う。田舎の町の医者のドラ息子のような人も散見された。“そういえばあいつどうなったのかな”などと思ってそのドラ息子の名を検索すると、立派に医者や歯医者になっているので笑える。

 

 

②荻田君

荻田君とは、オギタ君である。彼は医学部志望の二浪生だった。とはいえ彼は医者のドラ息子ではなく、父親は普通の公務員だと言っていた。色白で、肉付きの良い顔つきとぱちくりした目つきが可愛らしい男だった。いつも母校の薄紫色のジャージを穿いていて、野球部で鍛え上げたがっしりとした尻を持っていた。オギタ君は筆者らと共に夜の食堂で勉強するメジャーな群れに属していて、二浪生らしい兄貴肌を持ちながらも人にとてもやさしい。当時は親しかったのだが、今では連絡を取り合うことはなく、少し寂しい気がしている。寮の5階に住んでいた。

 

 

 

③折田君

折田君とは、オリタ君である。彼もまた医学部志望だった。そしてたぶん二浪生だった。たぶん医者の息子だったように思う。というのもオリタ君は筆者らグループと群れることをせずにいたので、実はあまり知らないのだ。オリタ君は、ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト第4回グランプリを受賞した袴田吉彦さんから、清潔感を少し減らしたような、つまり元横浜フリューゲルスの前園真聖選手のようなイケメンで、髪型も当時の“ゾノ”よろしく茶髪真ん中分けのワイルドな風貌をしていた。だが話すと大変な好青年で、笑顔が明るく、育ちが良さそうな感じがあった。彼もまた、寮の5階に住んでいたのだ。

 

 

 

④そして事件は起きた。

そして事件は起きた。だが以下の話はオギタ君からの伝聞であり、筆者が実際に見たものではない。ある日、『511!オギタ!電話!、511!オギタ!電話!』と舌癌手術後の寮長のフガフガ声で寮内放送が鳴った。そう、携帯電話の普及が今ほどでなかった当時は、寮生の両親が寮生に連絡を取る場合は寮に電話をかけ、寮長が各階の洗濯室の電話に転送し、フガフガ声で放送するのだ。5階の洗濯室へ向かい受話器を取ったオギタ君は、相手が父親だったので驚いた。普段電話をかけてくるのはもっぱら母親であり、彼の父親は寡黙で、息子に直接電話をしてくるような男ではなかったからだ。

 

 

 

⑤父と息子

“家族に何かあったのだろうか”オギタ君は一瞬不安を憶えた。だが受話器の向こうの父親は照れくさそうな声で、“・・どうだ。元気にしているのか。”と言う。オギちゃんも照れくさく“・・あぁ 一応元気にしてる。”と答える。その後も父と息子のぎこちない会話が続き、父親が“なぁ・・今年は何とかなりそうなんか・・”と聞いてきたとき、オギタ君は『嗚呼、普段は何も言わない父も、本当は心配しているのだ・・』と申し訳ない気持ちになったのだと言う。そしてついに父親は勇気を出した声で、“どうだ、今週末釣りにでも行かないか”とまで言い出したので、驚愕したのだ。父親と釣りなど今まで一度も行ったことがない。

 

 

 

もうお分かりだろうが、この父親はオリタ君の父親で、オギタ君の父親ではない。同じ階に似た名字の寮生がおり、寮長が勘違いしてフガフガ取り次いだのだ。食堂で恥ずかしそうに事件について話すオギタ君が可笑しくて、筆者らは腹を抱えて笑ったものだ。スマホのない時代にはこういう楽しい事件があった。後日洗濯室でオリタ君を見かけたので、“オリタ君のお父さんとオギちゃん、会話したらしいね”というと、恥ずかしそうに“そうなんだよねー”と明るく笑っていた。二人とも家族ができているのかな、特にオリタ君の方は袴田吉彦風のイケメンなので、もう浪人生の息子がいても不思議なことではない。アパ不倫してないかな。


イースト・シエラ・ネヴァダの旅

2024-06-17 01:14:57 | 生活

イースト・シエラ・ネヴァダの旅とは、シエラ・ネヴァダ山脈の東側を辿る旅のことで、2024年のメモリアル・デーホリデー連休の2日目に筆者が敢行したドライブ紀行の記録である。アルバート・オオクラさんの尽力で残された、サン・ベルナディノのマクドナルドの1号店跡に立ち寄ったのち、筆者は今回の旅の目的地へ向けて395号線を北上した。それは乾いた低草がまばらに茂る砂漠の道だ。

 

この旅の記録は以下のとおりだ、参考にしたもらいたい。

 

①395号線の景色

しばらく砂漠を走ると景色はだんだんと山がちになってくる。通る車も少ない。地殻の変動で南北方向に隆起した火山由来と思われる岩々が荒々しく、その色も黒々した濃いものが多いため、砂漠と相まって荒涼感を増していく。そして西側にはシエラネバダ山脈の急峻な雪山が姿を見せる。シエラネバダ山脈はその東側の断層を境に隆起しているため、東側の方がはるかに傾斜が大きい。そのため山が近く、たいへんな迫力がある。道路のところどころに休憩所が設けられているので、立ち寄って景色を楽しんだり、小石に触れたり、トイレを済ませたりしながらいく。

 

②グレート・ベイジン

さらにしばらく行けば、湖が見られるようになる。このエリアは“グレート・ベイジン”と呼ばれる大きな盆地帯の南端部で、山々から流れてきた水は湖に留まり海洋へ到達しない。ロスからサン・ベルナディノへのドライブで、山を下る巨大なパイプ・ラインが見えたのは、このグレートベイジンに留まる水を強制的に都市へ供給する設備だったようだ。その施設の建設に際して、“カリフォルニア水戦争”呼ばれる、湖周辺の農業従事者と水道敷設業者の間で争いがあったようである。ロスで泊ったホテルのシャワーの水量の豊富さに驚いたが、そのような経緯があるようだ。

 

③マンザナール収容所

今回の旅の目的地はマンザナール収容所であった。太平洋戦争中、この荒涼とした場所に1万人もの日系アメリカ人が、日系という理由だけで収容されていた。施設は当時の様子がよく再現されている(よう)だし、資料館は立派なものだ。大変な人権の侵害であったのは確かだが、その目的は民族浄化のようなものではなかったようだ。特に嬉しかったのが、多くの人がこの施設を訪ねているところだ。白人の親子も多くいた。トルコから来たという女性が、“このような事実は初めて知った”と熱心に学芸員に質問をしているのを見た。終戦後も財産を失い行くあてのない人はこの地に残り、この地で亡くなった人もあるという。筆者はシエラ・ネヴァダ山脈をバックにする慰霊碑に手を合わせた。

 

マンザナールから395号をさらに北上すれば、登山やスキー客のキャンプ地のような様子の町が増えてくる。筆者はビショップという町に宿をとっていた。それは“山谷YAMATANI”という名の立派な日本料理屋を見つけていたからだ。夕日がシエラネバダに沈む様子も見られるだろう。イースト・シエラ・ネヴァダのドライブは、なかなか楽しいのでお勧めです。