読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

現在の政治状況を投射する人間ドラマ、「新リア王(上)」(高村薫著/新潮社)

2009-04-23 02:54:56 | 本;小説一般
第一章
筒木坂、永田町、議事堂、砂防会館、本会議場、大本山、雲水

第二章
王について、一族、決起大会、普門庵

以前「マークスの山」(1993年)を読み、高村さんのそのサスペンスに魅了され、その後映画化された作品(崔洋一監督/1995年)も観、「レディ・ジョーカー」(平山秀幸監督/2004年)で涙しました。それからしばらく小説というものを読まない期間があって、今回偶然図書館で見つけたこの作品を読み始めましたが、これが上下巻1000ページにも達しようという長編であり、しかも政治家の父と仏家となった息子の対話形式で綴られた、仏教用語満載の、とにかく読むのに悪戦苦闘中の代物。やっと上巻を読み終えました。

雲水、叢林、辨道、行願、涅槃、三昧、発心、未那識、阿頼耶識、網代笠(あじろがさ)、手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)などなど仏教、禅用語目白押しで、私の知っている高村薫さんはこんな世界に行ってしまったのかと、聳え立つ大きな山に入りぜえぜえ息を吐きながら、雲を被った山頂目指して足を運ぶというような気持ちでした。

まず取り急ぎ、概要を知りたいという方はコチラを。

<高村薫『新リア王(上)』|新潮社>
http://www.shinchosha.co.jp/book/378404/


まず、本書のタイトルの基になっている「リア王」について触れておきます。

~『リア王』(King Lear)は、シェイクスピア作の悲劇。5幕で、1604年から1606年頃の作。四大悲劇の一つ。長女と次女に国を譲ったのち2人に追い出されたリア王が、末娘の力を借りて2人と戦うも敗れる。王に従う道化に悲哀を背負わせ、四大悲劇中最も壮大な構成の作品との評もある。

ブリテンの王であるリアは、高齢のため退位するにあたり、国を3人の娘に分割し与えることにした。長女ゴネリルと次女リーガンは言葉巧みに父王を喜ばせるが、末娘コーディリアの率直な物言いに、激怒したリアはコーディリアを勘当し、コーディリアをかばったケント伯も追放される。コーディリアは勘当された身でフランス王妃となり、ケントは風貌を変えてリアに再び仕える。~

~リアは先の約束通り、2人の娘ゴネリルとリーガンを頼るが、裏切られて荒野をさまようことになり、次第に狂気にとりつかれていく。リアを助けるため、コーディリアはフランス軍とともにドーバーに上陸、父との再会を果たす。だがフランス軍は敗れ、リアとコーディリアは捕虜となる。ケントらの尽力でリアは助け出されるが、コーディリアは獄中で殺されており、娘の遺体を抱いて現れたリアは悲しみに絶叫し世を去る。~

つまり、引退を決意したリア王が、三人の娘のうち、長女と次女に国を譲ったのち2人に追い出されたリア王が、末娘の力を借りて2人と戦うも敗れるというこのシェイクスピアの作品を、青森県の政治一家・福澤王国の内部で起こった造反劇に投影した作品ということですね。1985年、黒澤明が「リア王」をベースにした「乱」を制作してもいます。


さて、本書の舞台となる青森県。主な舞台は、この地図に○で囲んだ三つの地区であり、取上げられる時代は次の年代です。

1963年 むつ製鉄株式会社設立(むつ小川原地域の砂鉄を製鉄する国策会社)。
1965年 青森空港営業開始。
1965年4月 むつ製鉄事業化断念
1967年 科学技術庁、大湊港を原子力船母港に決定。
1971年4月 むつ小川原開発会社設立。
1980年 車力ミサイル基地発足。
1980年5月 むつ小川原国家石油備蓄基地着工
1985年 核燃料サイクル施設、六ヶ所村に立地決定。
1985年 米空軍三沢基地へのF-16戦闘機配置が開始。
1985年3月 青函トンネル本坑貫通。
1985年夏 冷夏、青森県の作況指数は47。
1985年9月 むつ小川原国家石油備蓄基地完成
1987年7月 現在の青森空港が供用開始。
1988年3月 青函トンネル営業開始。これにともない青函連絡船営業廃止。
1988年 7月9日から9月18日まで青函トンネル開通記念博覧会が行われた。マスコットは「シャコちゃん」。エアドームの愛称は「夢来ちゃん」。
1988年10月 ウラン濃縮工場着工
1990年11月 低レベル放射性廃棄物埋設センター着工


本書で登場する青森県の政治家、団体、個人以外はすべて実名入りでこのドラマに組み込まれています。そこに、1987年の11/30~12/4までの4日間に渡る、福澤王国の王・福澤榮(72)と禅僧になったその庶子・彰之(41)とのダイアローグであり、プラトンの対話編の手法が採られています。上巻を読んでの感想は、まるで対話劇の戯曲のようであり、しばらくぶりの高村さんはこんな世界に入っていられるのかと感慨深く、疑心難儀に読み進めたのでありました。

1986年~87年を中心に描かれ、2005年10月に刊行された本書を読んでいる今、20年の時を経て、国内の政治状況が全く変わっていないことに愕然とするのであります。選挙前に小沢民主党党首に打たれた投網、そこに渦巻く政治的な思惑、それによってかき乱される地方の人々の奔走は、本作で深く掘り起こされた政治と金、政治と行政、政治と企業の相似形の投影であることに愕然とします。

そして、このような政治状況の中に自らの家系を築き上げた福澤王国。この親子の間に歴然と流れる政治家と仏家の違いについて、父である榮は次のように息子に語るのです。

「仏は諸法実相と言い放ってすべてを捨てるのだったな。ならば俗界の王はすべてを引き受けると言いなおしてもよい。君たち仏家が無上菩薩のために捨てたすべて、人が生きる瑣末な現実のすべてを、私は政治的能動をもって拾うのだ」。

重厚なこの物語の中に、民主主義と資本本主義社会の抜き差しならない人間模様に閉口しながら、この図式は地方分権になったからと言って、安易に瓦解するものではないことが示唆されています。少なくとも自民党的政治に終結を望む国民は多くなってはいますが、その先にある民主党的なる未知の政治手法、政界再編の姿を明確に描くことは至難の業でしょう。

この膨大な人間ドラマで、私の脳裏にがひときわ残ったのは、「一炷」という言葉でした。

~江戸時代では時計の代わりとしても使用され、禅寺では線香が1本燃え尽きるまでの時間(40分)を一炷(いっちゅう)と呼び、坐禅を行う時間の単位としたほか、遊郭では1回の遊びの時間をやはり線香の燃え尽きる時間を基準として計ったが、中には線香を途中で折って時間を短縮させる遊女もいた~。

(「下巻」に続く)


<備忘録>
「1979年の10月の総選挙」(P56)、「陳情の実態」(P60)、「政治家の経理」(P62)、「秘書の仕事」(P64)、「代議士なる生きもの」(P123)、「岸信介の一言」(P147)、「サクラマス」(P175)、「福澤榮の夢」(P176)
「雲水」(P178)、「只管打座」(P219)、「人間と未知の山」(P264)、「ニーチェの揶揄」(P249)、「埴谷雄高、死霊」(P247)、「仏の教え」(P253)、「ミッキーマウスの着ぐるみ」(P259)、「彰之の信心」(P260-261)、「坊主の仕事」(P264)、「福澤=リア王(彰之の心象)」(P300)、「福澤=リア王(榮の自認)」(P301)、「政治と仏教」(P303)、「1980年、断末魔の狂奔」(P309)、「福田派久保田×田中派福澤」(P319)、「彰之の立場」(P363)、「地方の生きる道~原発と予算」(P374)


<もんじゅトラブル「組織のたるみが要因」…機構が自己批判>(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20090420-OYT1T00079.htm?from=main2

本書の表紙を飾るレンブラントの絵については、下記の記事を参照下さい。

<高村薫の小説「新リア王」とレンブラントの「金の鎖をつけたあごひげの老人の肖像」>
http://blog.livedoor.jp/asongotoh/archives/51334042.html


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