読書と映画をめぐるプロムナード

読書、映画に関する感想、啓示を受けたこと、派生して考えたことなどを、勉強しながら綴っています。

政治と宗教のダイアローグが織りなす大いなるサスペンス、「新リア王(下)」(高村薫著/新潮社)

2009-04-24 17:14:24 | 本;小説一般
第三章
初江、王座にて、息子たち、声なき声

第四章
参集、英世、死の周辺で、小慈小悲もなき

昨日に続き、あらすじはコチラ。
<高村薫『新リア王(下)』|新潮社>
http://www.shinchosha.co.jp/book/378405/

1983年11月19日、同月28日の衆議院解散(田中判決解散)によって行われる、総選挙前の青森での決起集会を終えた福澤王国の王・榮が泊まるホテルの一室に顔を揃えた福澤貴弘(榮の妹・和子の次男、通算官僚)、竹岡潔(選挙区担当私設秘書)、保田英世(資金管理担当私設秘書)、そして福澤優(榮の長男、自民党参議院員)らが集っての席で、戦後政治の申し子のこの王に対して、その政治手法に優は婉曲的に異議を挟みます。この優るに対し、榮は自民党政治と民主主義について次のように定義をするのです。

~教科書の言う民主主義の多数者の正体は、日本やアメリカでは漁協や農協、業界団体、労働組合、市民団体などなど個々の利益集団であり、その集団によって選出された政治家との間に交わされ選択された、多数な契約があるにすぎない。そういう契約を千も万も寄せ集めて成り立っておるのがわが自民党政治だ。~

~政治家の実感としては、確固としているのは代議制や政党制や普通選挙という諸制度の手続きだけであり、手続きの正当性だけを根拠に、私たち政治家は地元の個々の集団の要求に応えるべく政策を決め、実行する。他方、顔のない本物の多数者は受動的にそれを承知しておるだけだし、また多数者はそれ以外にありようもないのだ、~

1987年、11月30日、福澤榮は誰にも告げずに、末の弟の妻に産ませた庶子・彰之と41年の時を隔てて対峙することを求めて、彼の住む普門庵へ足を運びました。王国の崩壊を自認する榮の目に映る風景は「昏(くら)い」影が付きまとっています。父はこれまでの政治生活を息子に語り、息子は仏への棘の道を父へ語ります。実に深く、暗く、混沌としたお互いの心情を吐露しながら、この小説は戯曲のように進んでいきますが、エンディングに向けて高村薫の筆は、この物語が大いなるサスペンスであったことを解き明かしていきます。そして私は、本作がサスペンス小説の格調高き到達点に達したことを知るのです。

田中、中曽根、二階堂、後藤田、竹下、金丸、小沢、細川と日本の政治を司った人々が実名で登場します。実名で語られる出来事は、すべて歴史的事実でありましょう。その中で青森県内の登場人物は、複数の人物の「遺伝子」組み換えによって創造され、歴史的事実の中に織り込まれています。そこで構築された、代議士をその王をとする王国は、日本のどこにでもあるようなモデルでもあります。

現実の今、自民党政治への国民の憤懣はもう火口から漏れ出しており、次に迫る解散選挙によって野に下ることは既定の事実のような様相を呈していますが、地方分権を推し進めようとする民主党に、その後の国の形は見えているのでしょうか。いずれにしても、これから政治家を目指そうという人には必読の一冊と言えます。

世代交代の狭間にあって福澤榮は、最早、進歩ではなく更新なのだと語る市場原理主義者たちへの命題を「消費と生産の終わりのないメタモルフォーズ」としての資本主義は幻影に過ぎないのかと、次のように語るのです。

八三年当時の私はと言うと、すでに時代の進歩に際限はないという感覚をもってはいなかったし、もっと言えばこの行き詰まりの先に来る時代の輪郭も見えていなかったのだ。より正確には、生産と消費の際限のない自己運動である資本主義のあるべき姿といったものが、一寸見えなくなっていたと言ってもよい。もっと簡単に、進歩というものが分からなくなっていたと言ってもよいが、はて、私に見えないものが息子たちには見える------?~

~ああ否、市場原理にせよ国家管理にせよ、それが目指しておるのは依然成長であり、発展や進歩だろうという私の憶測そのものが間違っておるのだろうか。彼らに見えているレールは、ひょっとしたら私が考える〈進歩〉とは違うのか~

*メタモルフォーゼ(Metamorphose)=生物学でいう変態の意。

久々の高村作品の険しい山の中腹に、全く無頓着にヘリコプターで舞い降りたような私ですが、読了後にその頂で見る景色は実に雄大でありました。そして、この頂の手前に乗り越えるべきもう一つの山があることを知りました。明日からはまたこの山を下山し、そのもう一つの山に挑もうと思っています。その山には「晴子情歌」と名づけられています。

「晴子」とは、福澤榮の末弟の妻であり、榮の実の息子である彰之の母の名前です。

本書、下巻の表紙を飾るレンブラント」の「瞑想する哲学者」(1631年)についてはコチラ。

<高村薫の小説「新リア王」とレンブラントの「瞑想する哲学者」>
http://blog.livedoor.jp/asongotoh/?blog_id=1680591

<楽天ブックス:本 『新リア王』高村薫さんインタビュー/ オンライン書店>
http://books.rakuten.co.jp/RBOOKS/pickup/interview/takamura_k/


高村薫;1953(昭和28)年、大阪市生まれ。国際基督教大学卒。外資系商社勤務を経て、1990年『黄金を抱いて翔べ』で日本推理サスペンス大賞を受賞。1993年『リヴィエラを撃て』で日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞を受賞、また同書は山本周五郎賞の候補となる。同年『マークスの山』で直木賞を受賞。主な著作に『神の火』『わが手に拳銃を』『地を這う虫』『照柿』などがある。

<高村薫 - Wikipedia>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%91%E8%96%AB


<備忘録>
「いまの恁麼(いんも)をうえふべからず」(P22)、「69年の米供給過剰」(P71)、「大規模開発の要請」(P72)、「1980年の青森の開発と勢力事情」(P79)、「1983年の福澤派と久保田派の勢力図」(P95)、「竹岡の見解(本音と建前)」(P117)、「自民党政治」(P121)、「地方分権論とその落とし穴」(P126-130)、「進歩でなく更新」(P138)、「リア王の時代認識」(P147)、「政治とは(福澤榮)」(P155)、「足元に伸びる長い影とその正体」(P163)、「榮への政治家としての発心」(P211)、「国政と寒村」(P227)、「資金管理担当施設秘書の仕事」(P291)、「ブラトンの『洞窟の人間の記号』~榮の秘書時代」(P301-302)、「福澤榮の反骨~岸信介の一言~」(P304)、「福澤優の国政への失望」(P349)

<ザ・選挙/投票率>
http://www.senkyo.janjan.jp/senkyo_dictionary/0902/0902180726/1.php


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