作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

wissenschaftlich をどのように訳すべきか―――ひとつの試案

2012年11月08日 | 哲学一般

 

wissenschaftlich をどのように訳すべきか。このテーマで考えてみたい。手元にある三修社の現代独和辞典では、wissenschaft は①学問、科学、②知識、学識 な どの訳語が挙げられ, wissenshaftlich では学問の、科学の、学術の、学的、などと訳されている。

wissen は①知識、学識、心得などの訳語が当てられている。-schaft と schaffenが語源的にどう関係しているのか、浅学にして不明だが、schaffen には①造り出す、創作する、②仕事する、成し遂げる、などの意味があるらしい。


とすれば、 wissenschaft  の意は「知識が創り出したもの」と解してよいのかもしれない。単に wissenschaft を学問、知識、科学などと訳すだけでは、もとの原語の語源的な意味は捉えられない。


-lich は形容語尾で使われる。 wissentlich は、知っていながら、意識しながら、さらに、故意に、などの訳語が当てれているのに対し、wissenschaftlich は、学問の、科学の、学術のなどと訳されている。

この語はとくに歴史的には、マルクスが der wissenschaftliche Sozialismus として、従来の Sozialismus 社会主義 に wissenschaftlich を形容詞に付すことによって、この語に彼自身の思想の独自性を含ませて「科学的社会主義」として主張したことによって知られている。しかし言うまでもなく、この wissenschaftlich こそ、それ以前にヘーゲルが自身の哲学の特色として打ち出したものであった。

従来のPhilosophie(哲学)を、単に「愛智」というレベルではなく、wissenschaftlich の段階にまで高めたことがヘーゲルの功績であることは周知のことである。このwissenschaftlichは、だから、単に学問とか学術とか科学と 訳出するだけでは、その真意は出てこない。なぜなら、ヘーゲルの wissenschaftlich の性格は、その「知識が創り出したもの」が、論理必然性を概念的に証明するものであること、さらに体系的必然性と完結性を持つものであることである。し かし、現代の日本語でいう「科学」には、必ずしもヘーゲル由来のそういった意味は含意されてはいない。


とすれば、 wissenschaftlich の訳語として、ヘーゲル哲学用語法を踏まえて、これに「哲学的」という訳語を、科学的、学問的、学的、などと並んで、 加えるべきではなかろうか。もちろん、多 くの人々は、伝統的にも 「哲学」という用語に、概念的論理必然性や体系的完結性という理解を含めるようなことはなかっただろう。

しかし、たといそうであるとしても、これからの日本の哲学史の伝統の形成において、日本語の「哲学的」という用語に、ヘーゲルの wissenschaftlich の用語法の原意を含めて使用してゆくべきだと思う。

これまでのヘーゲルの作品の著作において、これまで実際にどのように訳されてきたかというと、それは「学的」「科学的」「学問的」などと訳されてき た。確かに、これらに加えてさらに、wissenshaftlich に「哲学的」という訳語を加えるとするならば、従来の philosophische の訳語として確立している「哲学的」との区別をどうしてゆくかという問題が出てくるかもしれない。一つの提案としては、 philosophische の訳語としては、愛智学的、智学的などの訳語を当てればどうだろうか。

それともあるいは、「科学的」という語に、ヘーゲルの wissenschaftlich の原意を込めて使用してゆくという道もあるかもしれない。ただ、個人的な感想としては、これからの日本の哲学史の試みとしても、wissenschaftlich の訳語として、「哲学的」の語を使ってゆきたいと思う。

 そうして一方では、philosophie、philosophisch の訳語としては、愛智学、智学、愛智学的、智学的などの用語を使うようにしたいと思う。Wissenschaft、 wissenschaftlich の訳語としては、「哲学」、「哲学的」の語を当てたい。

 それほどにヘーゲル以降と以前 では「哲学」の根本性格が変わったのであるから、彼以降のwissenschaftlich の性格を受け継いでいる philosophie のみに、名誉ある「哲学」の訳語を当て、それ以前の、あるいはヘーゲル以降の哲学であっても、本質的に wissenschaftlich な性格を受け継がない単なる philosophie については「智学」とか「愛智学」と呼ぶようにすればいいのではないか。とにかく、ヘーゲル以降において philosophie  は根本的に性格が異なって、真の philosophie として従来のそれとは質を異にしたも のとなっているからである。

いずれにしても、wissenschaftlich を単に機械的に、「学問の、科学の、学術の、学的」などと訳して済ませている教授には、このような問題意識はないに違いない。

マルクスの der wissenschaftliche Sozialismus を 「科学的社会主義」 などと訳してきた共産党なども、もし、「哲学的社会主義」 とでも訳していたならもう少しまともな国際運動になったかもしれない。いやむしろ、「哲学」という高貴な語を、彼らによって貶められることがなかったことこそ、幸いだったとすべきか。

 

 『wissenschaftlich をどのように訳すべきか―――ひとつの試案

http://blog.goo.ne.jp/aowls/d/20121107

 

 

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11月7日(水)のTW :#西尾幹二『中国に対する悠然たる優位』

2012年11月08日 | ツイツター

経団連の米倉弘昌会長や前中国大使の丹羽宇一郎氏らは西尾幹二氏の警告を深刻に受け止めるべきだ。>><<西尾幹二【インターネット実録】2012/11/6 火曜日『中国に対する悠然たる優位』nishiokanji.jp/blog/?p=1232


官邸に入る途中、歩きながら記者の呼びかけに答えるという中途半端ではなく、かっての小泉純一郎元首相のように、野田首相も、日に一度ぐらい記者団の「ぶら下がり」に応じて、テレビなどのマスコミを通じて、国民に呼びかけるべきである。民主国家の指導者として、それくらいの能力を示すべきだ。


どうしたのかなな。RT @mimura1133: まさか・・まさか・・


 
中国に対する悠然たる優位 – 西尾幹二のインターネット日録 https://is.gd/fs6lQy
 
 
 
 
 
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