父の生家が解体されて無くなった。
10月に行ったときはあったのに、11月には無くなっていた。
明治?に建てられた古い家。
長年誰も住んでいなかったし、熊本地震であちこちが崩れかかっていたので、そのうちに解体するとは聞いていた。
今の持ち主は、父の兄(故人)の息子(私のいとこ)。
父が生きていたら解体の連絡があっただろうけど、もういないからね。
けど、私と妹は小さいころに住んでいたから、無くなったのは悲しい。
もう50年くらい入ったことがない。
以前から妹と「中に入ってみたいね。」と話していた。
妹は「うっすらとしか記憶がない。間取りがわからない。」と。
私はかなり記憶があるけど、写真を撮っておきたかった。
小6の終わりに完成した今の実家は、父が転勤族だったので、私はあまり住んでいない。
数えてみたら、実家に住んだのは3年半。(中1夏までの半年+高校2年~大学1年)
それに比べると、父の生家に住んだのは7年。(0歳~2歳+幼稚園~小3)
父の生家の方が思い出がある。
で、ちょっと写真と思い出を。
解体前の写真は、父に見せるために5月に撮った。 持ち主不在だったので、敷地外から。
南側の板で塞がれているところが玄関。玄関の横に外便所があった。
入ってすぐは広い土間で、台所まで、土足のまま行けた。
雨の日はここにゴザを敷いて遊んだものだ。
横に大きな押入れがあって、そこには米を保管する円柱の大きな金属缶があった。
隣のここが最初は正式な(客用?)玄関だったそうで、後に床を張って部屋にして、私たちの子供部屋だった。
その前に座っている1歳の私。
そして無くなった。同じ木が残っている。
子供部屋を西側から。シュロチク(棕櫚竹)の木がある。
母に抱かれた2か月の私。後ろにシュロチク。
解体されたけど、シュロチクは残っていた。
写りが悪いけど、南側の広縁。
広縁で母に抱かれておしっこをしているのは、1歳の私。
このころは雨戸だけで、ガラス戸はなかった。
丸太の手すりみたいなのがあって、よくぶら下がっていた。
部屋との間の雪見障子のガラスには山水画があって、よくお腹を壊して昼間ふせているときに、うつらうつらしながらその画を眺めていたことを思い出す。
西側。地震で壁が崩れていた。
右側が床の間の裏で、広縁から入る細長い物置部屋だった。左側は仏壇の裏で便所。
きれいさっぱり無くなった。
北西方向から。
L字の縁側は夏に涼しくて、母がよくここで手仕事をしていた。
この角が便所で、夜に行くのが怖かった。
便所の入り口横(縁側外)には手洗い容器(掌で下から押すと水が出る)がぶら下がっていて、南天が植えられていた。
とうぜん便所はポットン式で、時々家周りの仕事に来ていたおじいさん(その頃の私から見たら)が、溜まった尿便を天秤桶に入れて畑に撒きに行ってた。
便所と言えば思い出すのは、こっそり母のネックレスを付けてそのまま便所に入り、しゃがんだとたんにストン。子供がやることだから留め金をきちんと留めていなかったようで、下を見るとネックレスがあったことは覚えているが、その後のことは記憶が定かではない。
北側。
左の方が台所で、勝手口にはかまどと風呂の焚口があった。
かまどで煮炊きしていた記憶はないけど、風呂は薪で沸かしていて、私も担当していた。
薪割りをしていたのも天秤桶を担いていたおじいさん。
勝手口を出ると井戸があって、手押しポンプの口には布が付いていた。
ハンドルを上下すると、布がプワーッと膨らんで水が出る光景が浮かぶ。
東側から家の全貌。
解体後。
解体後の写真を撮りに行ったら、ちょうど持ち主のいとこが来ていた。
いとこ一家は、父が結婚する前にこの家に住んでいた。
大黒柱だけ残した。と聞いて、見せてもらった。
いとこ3兄弟の背比べ記録があるから残したそうで、
でもここに貼られたシールは知らない。とのこと。
じゃあ、シールを貼ったのは、私か妹かな。
そのことを知っているかもしれない父と母はもういない。