美容外科医の眼 《世相にメス》 日本と韓国、中国などの美容整形について

東洋経済日報に掲載されている 『 アジアン美容クリニック 院長 鄭憲 』 のコラムです。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

美しい肌の色とは?

2012-04-18 12:53:18 | Weblog

 少し前、地方からわざわざ肌の相談で男性が来院しました。受付の職員の話によると予約電話では、私のクリニックでシミの治療を受けた知り合いから話しを聞き、自分も肌を白くきれいにしたいと言う内容でした。予約当日に診察室に入ってきたのは、30代の東南アジア出身と思われる男性です。比較的流暢な日本語で「肌を白く綺麗にしたい。」と言うその男性の肌は、私からは張りもあり特にシミや色素沈着も認められない明るい褐色の肌でした。私がその男性が同年齢の男性と比べても、きめの細かい健康な肌であることを伝えると彼は少し躊躇した表情をした後、実は自分には娘がいて今度幼稚園に入学するのだが、父親の肌の色が違うことで他の子供からいじめられるのが心配で、もし可能であれば肌を白くしたくて相談に来たと話してくれました。

 人種による肌の色の違いを決めるのは、表皮内にあるメラニン量です。メラニンは、表皮最下層の色素細胞(メラノサイト)にあるメラニン小体(メラノソーム)で産生されます。メラニン顆粒が一定量充満すると、メラニン小体は周囲の表皮細胞に運ばれ、最終的には分解されながら角質と共に排出されます。色素細胞の数自体は、人種の中で差はありません。ただ白人のメラニン小体は小さく皮膚の表面に近づくほど分解されなくなっていきますが、黒人はメラニン小体が大きく黒色メラニンであるユーメラニンの量も多く、また表面に近づいても分解されずに残っています。日本、韓国、中国人など黄色人種の場合は、この中間ですが同じ人種でも僅かなメラニン小体の大きさの差で、人によって肌の色は異なります。結論的には、生まれつきの肌の色を変えることはできません。医学的可能なのは、部分的に行う先天的な痣の治療や後天的な加齢や肌トラブルによって生じたしみ、くすみの治療だけです。もし、生まれつきの肌の色を変える白くするという薬や治療が可能である様に謳った広告や宣伝があれば嘘だと思って構いません。

 先の患者さんにも、そのことを説明し、むしろ如何わしい治療に気をつけて欲しいこと伝えました。また祖先が紫外線の多い地域で肌を保護する為に進化し、子孫に伝わったもので、その結果白人よりはるかに皮膚がんの発生率が低いことも話しました。そして何より、その娘さんにとって、その優しい父親の肌は誰よりも美しく綺麗に映るだろうことも・・・

コメント

詩の韓流、尹東柱(ユン・ドンジュ)

2012-04-16 11:00:50 | Weblog

 家に帰ると韓国語と日本語で朗読される詩のCDが流れていました。「死ぬ日まで空を仰ぎ  一点の恥辱なきことを、 葉あいにそよぐ風にも  わたしは心痛んだ。 星をうたう心で 生きとし生けるものをいとおしまねば  そしてわたしに与えられた道を歩みゆかねば。 今宵も星が風に吹きさらされる。」韓国では国民的詩人である尹東柱(ユン・ドンジュ)の「序詞」です。家内に聞くと、自称‘韓流ドラマのファン’という知り合いの女性から貰ったとの事でした。‘韓流ブーム恐るべし!’と一瞬口から出かかりましたが、これは‘詩の韓流‘といった安易な表現の現象でなく、もっと純粋な文化的興味からくる関心が、人々の間で根付き始めた証拠なのかと思いました。

 尹東柱(1917~1945)は、朝鮮から満州の北間島に移住した一家の長男として生まれました。幼少時より文学に興味を抱いていた彼は、強く医科大学進学を勧めた父親に対してハンストまでして意志を貫き、結局 現在ソウルの延世大学の前身である延禧専門学校で本格的に文学を学び始めます。日本による植民地統治下の朝鮮、太平洋戦争が勃発すると時代はさらに混沌とし、そんな状況の中、尹東柱は悩みながらも詩の創作に没頭しました。この1941年5月以後、日本に留学する翌年までの間に、今残る彼の作品の多くが執筆されています。東京の立教大学に入学し、翌年 京都の同志社大学の英文科に転校します。植民地国の人間として日本で学問を探求することへの自責の中、孤独に耐えながら詩作を続けたようです。同志社大学で一学期を終えた直後、日本警察により民族運動を扇動した思想犯として逮捕、懲役2年を宣告され福岡刑務所に送還されました。結局、終戦まであと半年という1945年2月16日獄中で息を引き取ります。内容もよくわからない注射を頻繁に打たれたことから毒殺されたという説もあります。

 先に紹介した作品「序詞」は、代表的詩集「空と風と星と詩」の序文のかわりとして書かれたものでした。尹東柱は、当初 この詩集の題名を「病院」と使用と考えていました。その理由として「今の世の中、一面 患者だらけではないか?」と説明したと言います。彼は、父親に逆らって医学の道には進みませんでしたが、詩の力で世の中が癒されることを望んでいたのかも知れません。

コメント

震災と多文化共生社会

2012-04-04 17:17:52 | Weblog

東日本大震災が発生して一年。被災地では、多くの人々がその甚大な被害の傷跡から未だ回復できずにいます。さらに原発による併発事故まで重くのしかかり、東北地方に限らず、日本全土が不安の中で過ごしてきた一年でもありました。毎日のように体感する揺れの中で、政府や専門機関による地震予測や見解も、その数字の解釈や表現は異なりますが、今の日本は、結局のところ地震が、どの地域にいつ起きてもおかしくない時代に生きていることを自覚すべきなのでしょう。震災を漠然と心配するのではなく、起きたとき、そしてその後どう対処すべきかを真剣に準備する必要があります。そしてそれはグローバル化した現代日本人だけでなく、ある意味日本人以上に不安感を抱く外国人も含め、同じ社会の運命共同体として一緒に考えていかなければならない課題です。

17年前の阪神淡路大震災のとき、灘地区の一部の住民が瓦礫で道路が塞がれ、指定された避難所までたどり着けずにいた100人余りの人々を西神戸朝鮮初中学校が受け入れ、学校の生徒父兄と長い時間励ましあいながら一緒に過ごした事実があり、それまで近くにいながら全く知らなかった住民たちとの交流は今でも続いているそうです。同様な出来事は、東日本大震災でもありました。一方、その他様々な外国籍の人の中には、十分に地域に溶けこめない状態で孤立したり、言葉の壁から十分な援助や情報を受けられなかった被災者も多くいました。阪神淡路大震災の死亡者数5497人の内、外国人は3.17%の174人でした。日本では、それまで余り一般的でなかった多文化共生という言葉や概念、そして支援する運動が始まったのは阪神淡路震災がきっかけでした。

電通総研で行った震災前後での人々の意識変化を調査したものがあります。男女共に、総じて‘人との絆’を改めて見直し、「本当に大切な人との関係を再構築したい。」という思いが強まったという結果です。震災という困難の中での絆の大切さは、これから進むべき多文化共生社会においても、改めて見直すべきことです。一方的な支援ではなく、お互いを大切に想う努力から生まれるものでしょう。

コメント