今年はパリで夏季オリンピックが開催された。地理的にも、その背景を考えても決して遠くないウクライナ、そしてパレスチナ地区では連日戦闘による破壊、殺害が続く真只中の大会である。実際、よく謳われる「政治理念、宗教、民族を超えたスポーツによる平和の祭典」という大義名分を言葉通り素直に受け止められない現実がある。戦後で言えば、共産圏で初めて開催された80年のモスクワ大会は、前年のソ連のアフガニスタン侵攻に抗議したアメリカの呼びかけでイギリス、フランス、西ドイツ、イタリア、日本などがボイコットを決めた。最終的には中国も含め60ヵ国が参加せず、81ヵ国での開催となる。そして次の84年ロサンゼルス大会は、報復としてソ連及び東欧諸国が参加をボイコット。まさにスポーツが東西対立の道具とされた。勿論戦前も何度か戦争で開催を断念した事もある上、オリンピックを政治的プロパガンダに利用した大会として暫し挙げられるのが36年のベルリン大会だ。ヒトラー率いるナチス政権は、人種差別、軍国主義の特性を隠蔽し、平和的で寛容なイメージを外国にアピールした。古代オリンピックの開催地ギリシアから聖火をリレーで運ぶ儀式もこの時からで、ドイツ民族が文化面でも正当な継承者であることを象徴し、ドイツの若者をナチ党に惹きつける意図があった。
それとは別にベルリンオリンピックは、日本の植民地統治下での大会として韓国では特別な意味を持つ。この大会のマラソン競技に日本代表として孫基禎(ソン・キジョン)、南昇龍(ナム・スンニョン)の二人の青年が参加し、見事金、銅メダルを獲得した。特に、孫基禎は前年の明治神宮大会で世界記録を出したのに続き、オリンピック最高記録での優勝であった。しかし、このとき2人の若者は、表彰台で日章旗が上げられるのを直視できず、君が代を聞きながらうつむくしかなかった。特に民族意識が強かった孫基禎は、外国人からサインを求められると名前に加えて「KOREA」記し警察から監視に対象になる。勿論、朝鮮国内では彼らを民族の英雄として称え、朝鮮の新聞「東亜日報」に胸の日の丸を塗りつぶした写真が掲載された。
今回の作品は、あまり知られていない孫基禎のオリンピック後の指導者として軌跡、そして彼の教え子である徐潤福(ソ・ユンボク)の成長とボストンマラソンでの快挙を描いた映画である。あらすじは、1945年、韓国が日本から解放された後、荒れた生活を送っていたソン・ギジョン(ハ・ジョンウ)の前に、ベルリンで共に走り銅メダルを獲得したナム・スンニョン(ぺ・ソンウ)が現れ、“第2のソン・ギジョン”と期待される若手選手ソ・ユンボク(イム・シワン)をボストンマラソンに出場させようと声をかける。祖国は独立してもベルリンのメダルは日本人のまま記録されていた。止まった時間を動かし、祖国への想いと名誉を取り戻すためレースに挑むソンと選手たちは様々な困難に挑んだ。韓国映画を世界に知らしめた作品と言っても過言ではない「シュリ」(99)や観客動員1000万を超えた大ヒット作「ブラザーフッド」(04)で名声を不動のものにしたカン・ジェギュ監督。「実話としてどうアプローチしようかと悩み、フィクションを最小化して、実際の話を忠実に盛り込んだ」本作品は観るものに臨場感と感動を呼ぶ。
歴代オリンピック男子マラソン競技では、92年バルセロナ大会で韓国の黄永祚(ファン・ヨンジョ)選手が再び金メダルを獲得した。一方、公式記録上は‘日本人’の金メダリストは唯一、孫基禎ただ一人。彼は、オリンピック後、明治大学に留学するが、陸上より知名度を利用され、朝鮮人の学徒志願兵募集の演説に駆り出される。抑圧された思いを背負いながらも、スポーツを通した平和の実現、とりわけ日本と韓国の関係改善に心を砕いていたと、横浜市に住む長男の孫正寅(ソン・ジョンイン)氏は語る。オリンピアン、それもゴールドメダリストのプライドだろう。