美容外科医の眼 《世相にメス》 日本と韓国、中国などの美容整形について

東洋経済日報に掲載されている 『 アジアン美容クリニック 院長 鄭憲 』 のコラムです。

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日韓関係における温故知新

2011-11-24 12:12:31 | Weblog

‘冬ソナ‘に始まる韓流ブームの到来、2002年のサッカーワールドカップ共催などをきっかけに、近くて遠い国と言われ続けてきた日本と韓国の関係も、文化、民間レベルでの交流という点では、随分 身近になったと感じます。しかし一方、政治や歴史問題が絡むや否や、相変わらず、韓国側の責任追及の声に対して、日本では‘もう、うんざり!’という反応の繰り返しです。最近の日本では、それが国内の停滞感と韓流への反発、韓国企業の台頭による輸出部門で日本企業との競争の激化等と相まって、一部では‘嫌韓’感情にまで発展している観があります。両国の首脳会談があるたび、そんな現状を考慮してか、‘未来志向による関係の構築’という言葉が頻繁に用いられますが、果たして謳い文句だけに終わっていないでしょうか。

やはり、過去を直視せずに、未来志向は考えにくいと思います。それは、また、一方的な反省とか、追求ではなく、過去の事実をできるだけ客観的に分析し、その中で、お互いの立場から主張する部分は主張し、共有できる価値観は認めるという姿勢です。例えば、日本による朝鮮の植民地時代に対して、どれだけの人が、正確に内容を知っているか疑問です。1910年から45年年までの35年間、統治政策のもと最大75万人の日本人がいたと言われます。そんな所謂 在朝日本人についての記録や検証もほとんど紹介されたことはありません。(植民地朝鮮の日本人、高崎宗司著) このように実際に歴史の舞台にいた人々に視点をあて、双方の立場から議論することが、結局は真の理解に繋がると考えます。

東洋経済日報でも以前取り上げられた、来年夏公開予定の映画「道~白磁の人」の主人公 浅川巧(あさかわ たくみ)は、植民地時代の挑戦で、林業技師として山林の緑化復元に貢献しただけではなく、白磁に代表される朝鮮工芸の美しさを伝え守り、40歳の短い生涯を半島で終えた人物です。彼が、朝鮮の人々に慕われ、その死を惜しまれたのは、その業績のみではなく、チョゴリ(韓服)を着て、朝鮮語を話しながら、当時、植民地化では当たり前な、強制的な態度や、差別意識を持たず、朝鮮の文化と人を尊んだ生活によるものでした。浅川巧が京城(今のソウル)に設立した朝鮮民族美術館が、現在 京福宮にある国立民族博物館の前身と言われます。

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日本茶道と韓国茶礼

2011-11-09 16:07:47 | Weblog

子供のころ読んだ吉川栄治の小説「三国志」で劉備が母の為に、当時、非常に稀貴なお茶の葉を買い求めようと、働いた給金の全て叩いたうえ、それでも足らずに家宝の刀まで差しだす場面がありました。これは、「三国志演義」にはない話で、吉川栄治が聖人君子として描かれた劉備の誠実さを表現しようとして創作した内容のようです。この話を読んだとき、私個人的には劉備の孝心以上に、命に代えても母に飲ませたいと考えたお茶に対する当時の価値に興味を持ちました。茶は、インドから広がり、中国の広州に伝えられ、当初は薬として用いられましたが、漢の時代を経て、唐の時代に一般的に飲まれるようになりました。日本や朝鮮半島に初めてお茶が伝えられたのもこの時代のようです。

遣唐使によって日本に伝えられた茶も、国内で広まるようになったのは、平安時代末期 宋に留学していた栄西が茶の種を持ち帰り、京都などに植えて栽培してからでした。こうして鎌倉時代末期には、相当普及し、茶の産地をあてる「討茶」という遊びが武士の間でおこなわれていたという記録があります。茶はその後、室町時代を経て、‘禅’と融合し、遊興や儀式から、侘(わび)という精神的な茶道に昇華していきます。現在に伝わる日本の茶道は千利休によって完成され、その弟子たちによって継承されて来ています。

一方、朝鮮半島でも、唐から新羅の善徳王の時代に茶種が伝えら智異山に植えられたという記載があります。(三国史記)新羅時代は、「花朗」という当時のエリート集団を中心に煎茶を嗜む習慣が盛んであったようです。高麗時代になり、禅僧の僧侶たちにより、宋の茶道が伝えられ、やがて高麗風の茶の作法として変化していきました。これは、煎茶ではなく、抹茶であり、一日3回の供茶を行ったというところは、中国よりもむしろ日本茶道に近いとも言えるかも知れません。

朝鮮半島にも、このような茶の歴史があるにも関わらず、「東アジアで喫茶の風習を唯一もたなかったのが、朝鮮民族だった。」(『韓国民族への招待』崔吉城)などと一般的に認識されたのは、‘茶’に関連する書物がほとんど残されていない事と、日本の表千家、裏千家のような茶道を伝承する家元が存在しない為だと考えられています。現在韓国でおこなわれている茶礼は、逆に日本の茶道の影響を多く受けているものでしょうが、そこからまた、独自の作法、茶文化が生まれて行くことを期待します。

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