美容外科医の眼 《世相にメス》 日本と韓国、中国などの美容整形について

東洋経済日報に掲載されている 『 アジアン美容クリニック 院長 鄭憲 』 のコラムです。

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便利を身に着けると

2015-02-24 15:40:41 | Weblog

スマートホンの画面を見ながら歩く、いわゆる「歩きスマホ」族の増殖は日々実感せざるを得ません。特に駅校内や周辺では、若者を中心に半数以上が片手スマホスタイルでやや下向きで行進しているようです。その上最近は両耳にはイヤフォン装着という完全武装も少なくないですから、同じ空間、時間には存在しても個々が別世界にいる感覚でしょうか。歩きながらドラマ、映画などの動画を見るのは論外としても、「歩きスマホ」族の皆さんはいったい移動中に何を見ているのかは気になるところです。メールマーケティングサービスを提供するLifemediaという会社が行った調査によると女性は「メールチェックと返信」「LINEなどでのチャット」男性は「マップアプリでの目的地案内」「ニュースチェック」が上位でした。目的地案内は歩行中の事とはいえ、時折の確認チェックでもよいでしょうし、その他はどうしても必要なものではなさそうですね。

周囲を見ずに歩くことは、狭い空間では当然マナー違反ではあり、不快に感じている人は少なくないと思います。しかし問題は事故、なかには死亡例まで発生しており、さらに年々増加しているということです。これは勿論日本だけではなく、世界中で起きているもので、スマホ普及率が90%近い韓国では、スマホ使用に関連する交通事故も数年で倍増しており、法的に規制すべきという声も高まっています。実際米国の幾つかの州では歩行中のメール操作に罰金を課しました。「歩きスマホ」「ながらスマホ」に対する対策として、今のところ日本や韓国では基本的にマナーに訴えるキャンペーンを展開していく方向ですが、国ごとに様々なアイデアが試みられています。「使うのは仕方ない、先ずはぶつからなくしよう」と言うのが欧米式合理性なのか、スマホ画面を見ながらも前方を確認できるミラー付きカメラを開発したベンチャー企業がありました。またワシントンDCの一部で スマホ使用可専用のレーンを試験的に準備しましたが、標識はあってもスマホ画面に夢中で誰も気づかず結果は今一つのようです。またロンドンではぶつかっても怪我をしないよう電柱にクッションを巻いたセイフティゾーンを設けたりと、もう幼稚園並みの扱いです。

結局「見るなら歩くな、歩くなら見るな」「目の前の現実を見る」私はこれに限ると考えますが、腕時計型に眼鏡型、さらに指輪、帽子、シャツ、ズボン、靴型などウェアラブル端末が目白押しの未来。人間は便利になるほど不自由な選択をしているのかも知れません。

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茶山 丁若

2015-02-14 10:31:17 | Weblog

先週まで豪州にて熱戦を繰り広げたサッカーアジア杯での韓国チームの活躍はある意味予想以上のものでした。朴智星選手引退後のリーダーやスター選手の不在、ブラジルワールドカップの一次リーグ敗退それらの影響によるものか韓国国内リーグの不人気と停滞気味の韓国サッカー界にとっては久しぶりに 元気づけられる話題です。そこで注目されているのが新しく韓国代表監督に就任したドイツ出身のシュティーリケ監督(61)。「攻撃力があるチームが勝つが、優勝するのは守備力があるチーム」理想的なサッカースタイルは「勝つサッカー」と述べるように、派手なパフォーマンスや面白いサッカーを目指すのではなく、状況々で合理的な型を求める現実主義と誠実そうな風貌から「茶山シュティーリケ」というニックネームもつけられました。茶山とは、朝鮮末期の実学者・丁若(チョン・ヤギョン)の号です。

丁若(17621836)は朝鮮王朝第22代王・正祖(イ・サン)の補佐として様々な分野で卓越した才能を顕した人物です。優秀な成績で進士試験や文科試験に合格するものの「南人」に属していたことから重用されなかった中での正祖による大抜擢です。当時としては珍しい工法を用いた水原華城(世界文化遺産指定)の設計構築、挙重機(クレーン)や滑車ろくろなどの科学器具の制作、『麻科会通』などの医学書籍も執筆し、まさに「朝鮮のダヴィンチ」の呼び名にふさわしい業績を残しました。反面、官職での彼の人生は決して平穏なものではありませんでした。派閥抗争、妬みによる様々な迫害、天主教との関わりなどを理由に何度も辞職と復職を繰り返します。そして正祖の死後は政的により天主教弾圧の名のもと18年に及ぶ全羅南道 康津での流配生活を送ることになります。しかし、丁若はこの地で過ごす間、朝鮮時代の性理学の空想的な発想を実用的な科学思想に基づいて研究し、500冊以上の本を執筆しました。中でも『牧民心書』は民衆を統治する地方行政官の備えなければならない心構えと守らなければならない準則、徳目が書かれたもので、韓国古典の中でも最高と言われる一冊です。ベトナムの最高指導者ホーチミンも生前に『牧民心書』をベッドの枕元に置き、愛読していたことは知られています。

「清廉は牧民官(地方長官)の本務であり、すべての善の根源である。徳の基本である清廉でなくては牧民官になることはできない。富を貪する首長はその下のものまで汚染され一様に蓄財にだけ励み、これはそのまま国民の血を吸い上げる盗賊と同じ存在となる」どの時代でも通用する言葉です。

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表現の自由と不自由

2015-02-03 11:38:18 | Weblog

無慈悲で凄惨な手口で12人もの命を奪った、フランスの時事週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃事件は世界中を震撼させました。そして言論に対するテロリズムは絶対に許すべきでないとして「私はシャルリー」の言葉をスローガンに、暴力に屈せず、表現の自由を守ることを訴えフランスのみならず世界各地で行われたデモ行進の様子が報道されています。犯人の行為は決して容赦されるものではなく、今回の行為に対し如何なる主張も言い分も受け入れられません。一方、さらなる犠牲者が現れないためにも、この事件をきっかけに「表現の自由」についてもう一度考えてみる必要はあるでしょう。

フランスにおいて風刺画が登場したのは、フランス革命最中といわれ、フランス国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネット、そして当時の聖職者も暫し標的にされました。その後もあらゆる宗教や支配層に対して漫画という形で批評し、さらに言論の弾圧を強いたナポレオン三世を打ち倒しフランス共和政を勝ち取った現在のフランスにとって風刺画を含む言論の自由は大衆にとって特別な意味を持つものかも知れません。「シャルリー・エブド」もそんなフランスの風刺画文化を受け継いできた出版社の一つでしょうか。しかし、ジャーナリズムにおいての批評や風刺の自由は、基本的には声をあげられない弱い立場の代弁者として権力者や支配層、国の矛盾に向けられてこそ社会にとって剣に代わる武器としてその役割を果たすのではないかと考えます。民主主義社会にとって、言論の自由が守られることは基本的な権利であり、原則の一つであるのは言うまでもありません。しかし、「表現の自由」を盾に「ヘイトスピーチ」や「児童ポルノ」、子供に悪影響を与えうる過激な映像等現の規制に意義を唱える論調は本質を取り違えていると思います。

表現の自由は、時に弱者や声をあげる術を持たない少数の人々の発言や存在自体を脅かし、彼らの自由を奪うことになるものです。表現の自由も他人の不自由を考慮せずに発信されたならば、自由という名のもとの言葉の暴力です。理解し改善するための発言や討論は大いにすべきですが、己の自由のみ優先し相手の自由を犠牲にしてはいけません。

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つばきの島

2015-02-03 11:35:18 | Weblog

お正月休みを利用して伊豆大島に行ってきました。Tokyo Islandの呼び名の通り、本州から最も近い島で東京 竹芝桟橋から高速船で1時間45分ほどしかかかりません。しかし、陸続きでないということで心理的な距離感もあってか、なかなか訪れる機会はありませんでした。実はどのような経緯かは不明ですが、亡くなった父が僅かばかりの土地を残しており、一度は訪れたいと思ってはいたのが漸く実現した次第です。

大島は15×9㎞の葉の形をした島で、東京 山手線内ほどの大きさです。島の出現はおよそ2万年前と考えられ、その後現在まで100回以上の噴火活動を経て堆積したスコリア、火山灰からなる地層により大島は形成されています。レンタカーを借りて島の南西側、元町港から波浮港に向かう島一周道路沿いに行くと「地層大切断面」、地元で呼ばれる様に「バームクーヘン」のような地層を観ることができました。大島と言えば「椿、あんこ、三原山」の言葉どおり、温暖な場所を好み火山ガスにも強いヤブツバキは、縄文時代から島に自生し島の人々は椿を、防風林として植林され、さらに炭、油などに利用し育てた結果、今では300万本以上生息し、まさに島の命でありシンボルです。韓国語で椿はトンベク(冬柏)、椿の語源を冬柏の古音“Tsu-Pak”(ツーパク)からきたという説もありますが(深津正『植物和名の語源探究』八坂書房)、同じ火山島である済州島も古来から全島に椿が茂っているつばき島です。帰りの日、大島町郷土資料館に立ち寄って年配の案内の方に興味深い話を聞きました。第二次世界大戦終戦の翌年の129日、マッカーサー元帥率いる連合国軍総司令部の二二宣言により、伊豆大島は日本国から行政分離(他にも沖縄、小笠原、伊豆諸島全域、奄美群島も)させられました。この突然の分離に当惑しながらも、伊豆大島では日本からの独立を模索して『大島大誓言』(大島暫定憲法)を起草したそうです。その第1条には「大島の統治権は大島島民にこれを帰す」とあり、『もう日本は取るに足らない、アメリカにも屈しない』という強い意思表明だったと言われています。結局、その322日には行政分離が解除され本土復帰しているので、50日余りの幻の独立国で終わります。

父が残した土地は山林の一部で、当面手を付けるのは難しいものでしたが、この土地に来る機会を与えてくれたことが遺産だったと考えています。

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