美容外科医の眼 《世相にメス》 日本と韓国、中国などの美容整形について

東洋経済日報に掲載されている 『 アジアン美容クリニック 院長 鄭憲 』 のコラムです。

レーガノミクス、安部ノミクス、朴クネノミクス・・・

2013-03-27 15:20:32 | Weblog

 連日新聞では、円安、株高の記事が躍っています。勿論、昨年まで円高による輸出の停滞、そしてデフレが影響しているものか経済界を中心に暗いムードが漂っていたのを考えればアベノミクスは、特効薬であったのかも知れません。勿論私自身は、世界の為替の仕組みや、経済理論に関しては皆目チンプンカンプンで、アベノミクスに関しても偉い経済学者たちの様々な批評や解説を読み、それなりに納得しつつも果たして誰が言っていることが正しいのかは判断しかねます。ただ、一つ不思議なのは、民主政権が昨年の選挙で大敗した直後からすでに円は下がり、株価も上昇し始めたことです。つまり新政権が具体的な政策によるものではなく、人々の期待や雰囲気による効果とも考えられます。まさに景気は気からでしょうか。

 経済学と人間の心理状態との深い結びつきについて研究した学問に「行動経済学」というものがあります。2002年に心理学者のダニエル・カーネマンがこの研究の開拓者としてノーベル経済学賞を受け、一躍注目を浴びるようになりました。それまでの経済学は、経済人を中心に、人間は理屈通りに常に合理的に判断することを基礎に理論化されていたものですが、生身の人間は意外と理屈に合わない行動をとるため、実経済を理解するには十分でないと考えたものです。例えば、「同じ宝石が値段を高くしたとたんに前より売れ始める」という現象は、市場では実際にあったものですが、理屈には合いません。しかし「高価な宝石ほど価値が高い」という一種の思い込みが働くことでこのような行動が起きるのです。(フレーミング効果)東日本大震災後、その後の日本経済低迷を憂慮すれば、円安に向うと考えますが、実際は「円は安全通貨」というイメージに、国内で復興資金として円が必要になり外国資金の円回帰が起きるという海外投資家の意識から円買いが進み、実際は急速な円高になりました。市場の心理状態は、高度な経済予測システムも凌駕しうるもので、実体経済は‘思い込み’を無視しては成り立たないようです。

 歳出削減と減税、規制緩和により市場刺激政策で経済活性を狙ったレーガノニクスも、結果 的には双子の赤字を増やしただけでした。その後の登場した行動経済学は、アベノミクス、朴クネノミクスを成功に導いてくれるでしょうか?経済も外交も、そしてもちろん政治も人間という不可思議で移り気で、特に信ずべき動物の営みであることを念頭においてほしいものです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たかがチョコパイ、されどチョコパイ

2013-03-14 15:50:09 | Weblog

 今年も間もなく2月14日のバレンタインデーを迎えますが、最近は若い男性諸氏も、昔ほどワクワク期待して待つということはないようです。お菓子のロッテが中学生から40代までの女性を対象におこなったバレンタインデーに関する最新の意識調査によると、バレンタインのために使う費用も、また渡す人数も毎年減少しているうえ、特に中高生の場合はその対象は8割が同性の友人で、お互いチョコレートを渡し合うと回答しています。

 そもそもバレンタインデーの由来は、古代ローマの多神教の儀式、豊穣祭ルペルカリアまで遡ることができます。ルペルカリア祭の前日(2月14日)に若い娘たちは自分の名前を書いた札を桶に入れ、祭りの当日、男たちが桶から札をひき、ひいた男と札の名の娘が、祭りの間パートナーとなりました。このように結ばれた二人は、そのまま結婚するケースが多かったようです。西暦3世紀のローマ時代、妻をめとると士気が下がると考え、若い兵士に対して皇帝クラウディウス2世は結婚を禁止しましたが、キリスト教司祭であるバレンティヌスは、密かに兵士と恋人をかくまって結婚させていたのです。当時のローマではキリスト教を迫害していたため、バレンティヌスは捕まり、改宗を強要されましたが拒み、結局2月14日に処刑されたのが、今に伝わるバレンタインデーの由来とされています。勿論、ここには己の命を懸けて若者の愛を守護した殉職者の想いはあっても、1950~6年代に日本の製菓会社やデパートの即売キャンペーンによって発祥したチョコレートは登場しません。(さらにホワイトデーはなおさらですが・・・)

 チョコレートといえば、子供から大人まで韓国で親しまれてきたお菓子に「チョコパイ」があります。チョコレートでコーティングした柔らかいビスケット生地の間にマシュマロを挟んだものですが、アメリカのムーンパイ(moon-pie)というお菓子が元祖ともいわれますが、日本にもあります。このチョコパイ、韓国軍の兵士の中でも隠れて食べたいモノの1~2位を争う程ですが、北朝鮮でも、韓国企業が運営する開城工業団地で北朝鮮の労働者に間食として支給したところ「南朝鮮を代表するお菓子」として北朝鮮全域に広まり闇市でコメと交換されるまでなり、北朝鮮当局が体制維持に悪影響と判断し規制に乗り出したとの話が伝えられました。チョコパイによる平和統一も夢ではないかも知れません。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体罰と躾

2013-03-14 14:37:33 | Weblog

 今回、大阪市内にある高校体育科の男子生徒が部活の顧問による暴力的行為が原因で自殺した一件は、指導という名目で行われきた体罰に対して教育界のみならず、あらためて社会全体で考えてみる問題であると思います。子供に対する暴力防止が世界各地で精力的に取り組まれている現在、教育場に限らず家庭も含めるすべての場所で体罰を法的に禁止した国が世界で33か国に達し、さらに20か国以上で法制化の議論が進んでいます。これら禁止国は、欧州を中心として広がっていますが、一方 アジア、中東、南米地域では未だ体罰を容認する傾向があります。

 日本でも、古くから躾と称してある程度の体罰は社会的に容認されてきた背景があるため、40代以降の世代では、積極的ではないにしろ認める人々はいます。社会調査機関であるJGSS(Japan General Social Surveys)によると、「親あるいは教師による体罰は時により必要か?」という問いに対して、半数以上が‘必要’と答えています。(2000~2001年)さらに、回答者を分析すると、若く高学歴で都市出身者ほど、そして男性より女性に体罰否定派が多く、逆に保守的で年配者の男性に肯定派が多いことわかります。また、若年者でも体罰を受けたことがある被暴力経験者の方が、体罰を受けた経験がない人より肯定派が多い傾向があるのも特徴です。体罰という行為は、保守的な権力意識と共に、男らしさというイメージを反映しているということ、そして、体罰を受けた人間がむしろ、否定するより受け継いでいく傾向があることが示されます。親の虐待で子供が亡くなる事件がきっかけで世界に先駆けて1979年に体罰を禁止したスウェーデンでさえも、それ以前は体罰肯定派が過半数であったと言います。しかし、法制化することで「いかなる理由があっても体罰は許されない」という意識に変わっていきました。これは、ある程度強制的に禁止することで、暴力の連鎖を予防した例なのかもしれません。

 韓国には昔から「フェチョリ」という細い木の棒でできたお仕置き道具があります。これで、子供の手のひらやふくらはぎを叩く伝統があり、今でも時々おいている家もあります。母親からフェチョリで叩かれた記憶を、愛の鞭として懐かしげに語る人の話を聞くことがありますが、叩く方がより痛いという親の愛情を感じてのことでしょう。これも体罰と無条件否定するかどうかは別として、より考えるべきなのは、体罰を受ける側の気持ちであることは忘れて15878はいけません。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴムシンと軍靴

2013-03-09 11:23:04 | Weblog

「男の身だしなみは足元から」という言葉もあるように、ピカピカに磨かれたお洒落な靴をさり気なく履きこなしている紳士を見ると、それに比べ随分と年季が入り、踵もだいぶすり減ってきた我が靴がみすぼらしく思えて、少し反省します。もう少し若いころは、靴選びもスタイルやブランドを優先して選んだ頃もありましたが、今はとにかく履き心地と歩きやすさです!足甲がしっかりした東洋人に合う、高さも幅もゆったりしたものを求めて、お洒落で先がすっきりしたスマートな革靴には手が伸びなくなってしまいました。その上、長く履いて足になじんでくると、少々くたびれてきても履き替える気持ちが薄れ、妻に文句を言われつつ今日も同じ愛靴で出勤となります。

400~700年前、主に四足で行動していた祖先が、高いところにぶら下がっている食べ物をとろうとして上体を起こしたまま短い距離すり足で二足歩行したのがヒトへの進化の一歩ならぬ‘二歩’だったといわれます。その後、恒常的に立って歩行することで、手は自由に使え道具も持てるようになり、何より重さを垂直に支えることで脳も大きく発達することが可能になりました。しかし、同時に全体重が両足にかかり、足底を寒さ、熱さ、怪我から保護する必要が生じたのが‘靴’の使用の始まりとなります。現物が残っている最古の靴は紀元前2000年頃のシュロの葉や動物の革で作られた貴族用のサンダル状のものですが、ワシントン大学の人類学チームの研究によると発見された人骨の足の形から、それよりずっとさかのぼり4万年以上前からヒトは靴を履いていたと推定しています。足を保護する道具として広まった‘靴’は移住する環境や目的で様々な形に変化、改良され、やがて実用性だけでなく審美的な意味も持ちながら今に至っているわけです。

クツといえば、韓国に全体がゴムで作られた上履きのような形の‘ゴムシン’というものがあります。ゴムであるため、軽くて柔らかく非常に履きやすいですが、最近は韓服を着るときくらいで、都会ではあまりみられなくなりました。「ゴムシンを反対に履く」という言葉は、男友達が軍隊に行くと、すぐに(クツもまともに履かず、逃げるように)心変わりする女性を意味します。最近は逆のパターンで「軍靴を逆さに履く」という言葉もあるようですが、やはりゴムシンの方が柔らかく逆でも素早く履けそうですけどね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隣人との付き合い方

2013-03-09 11:22:19 | Weblog

2013年、日韓中の三国は、それぞれ新しい指導者のもと新しい年の門出を迎えました。昨年秋以降の領土問題を発端としたこれら東アジアの関係は、近年においては最もギクシャクしたものになっています。内閣府が毎年行っている意識調査において2012年10月の時点での「韓国、中国に対する親近感」は、調査を始めた1978年以降過去最低を記録しました。特に韓国に対しては、2000年前後の韓流の影響もあり、前年までは親しみを感じるとした割合が62%まで上昇していたものが、昨年8月の李明博大統領の発言と行動後、一気に39%まで下落しました。単純に好き嫌いというイメージは、マスコミの報道や、ブームなどに影響され、単に数字に表れる‘親近感’には大きな意味は感じません。むしろ隣国として本当の関係構築は、表在化した様々な問題や考え方の相違を直視することから始めてなければいけないのでしょう。

18世紀初頭、徳川幕府の招待で来日した朝鮮通信使の一人、申維翰が記した日本紀行文に「海遊録」という本があります。本の中で、通信使を迎える人々の熱狂ぶり、大阪の街の繁栄や見物におと連れた人の衣装のきらびやかさなどを素直に驚いています。中国で生まれた儒教は、国内の思想統一のため漢の武帝により国教として広まりましたが、そこから発展した朱子学など、精密な学問大系として本家以上に受け継ぎ、国の規範として昇華させたのが当時の李氏朝鮮でした。幕府が国を挙げて朝鮮通信使を歓迎した理由の一つが、身分秩序を重視する朱子学を国内支配の基礎学問としての思惑もあったことでしょう。高い観察眼を持ち、漢文による筆談で日本側の多くの人々と接した申維翰でしたが、逆に16世紀の大儒学者‘李退渓’に対する必要な質問を繰り返す日本の学者や、人々の歓待ぶりの中で、儒学先進国であるという学問的優越感と相まって、日本にたいする冷静な評価を曇らせた面があったかも知れません。結果的に、その後も儒教的教養主義を貫いた朝鮮に対して、日本は儒教精神より実利主義をとり、欧米的な近代化の道を目指して行きました。

時代々で変化するパワーバランスの中で善きにせよ悪しきにせよ影響を与え合った隣国との付き合い方は一筋縄ではいきません。歴史作家の司馬遼太郎も、他国の特に政治評価に対しては難しさを感じていたようで「その国の政治現象は、歴史的結果であり、歴史を知りぬいたうえで、愛を持って見る以外にない」と綴っています。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする