美容外科医の眼 《世相にメス》 日本と韓国、中国などの美容整形について

東洋経済日報に掲載されている 『 アジアン美容クリニック 院長 鄭憲 』 のコラムです。

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努力の天才

2014-11-21 14:35:05 | Weblog

先週 東洋経済日報編集部の方のご厚意でサントリーホールでの東京フィルハーモニー交響楽団の演奏を聴く機会に恵まれました。特に今回はピアニスト、作曲家としても著名なロシアの音楽家ミハイル・プレトニュフによる指揮、そして幼少時から傑出した才能を注目され、20才にして既に独自のスタイルを身に着けつつ成長を続けている韓国の気鋭ピアニスト チョ・ソンジンの共演です。彼は6歳でピアノをはじめ、14歳の時 世界中のピアニストにとって登竜門ともいえるショパン国際ピアノ・コンクールで1位、翌年には浜松国際ピアノ・コンクールでは最年少15歳で優勝し、この時  審査員長を務めた中村紘子さんに「圧倒的な桁外れの才能」と言わしめました。その後も数々のコンクールで受賞し、今では世界の一流交響楽団から招かれ活躍中の逸材です。今回演奏したのはショパンのピアノ協奏曲第一番ホ短調。作曲家であると同時に、19世紀において歴史に残るピアニストの一人でもあったショパンのシルフ(空気の精)といわれた優美で空気のような軽いタッチを想わせる自然な美しさを感じるものでした。

チョ・ソンジンの演奏を聴き、彼の若さを考えれば天性の素質、生まれながらに与えられた才能を否定する人はいないでしょう。しかし音楽やスポーツなどの専門的技術の発達については、これまで「生まれ(遺伝)か育ち(環境)か」という論争が繰り広げられてきたのも事実です。今年6月、米ミシガン州立大学心理学教授のザック・ハンブリック氏らによって発表された研究によれば、「すぐれた音楽家は、その技能を獲得するために必要な長時間の練習ができるよう遺伝子にプログラムされている」ということです。 ハンブリック氏らは、名人級の音楽家は普通の音楽家よりもはるかに多く練習しているという調査結果を得、そのうえで一卵性、二卵性双子を比較し遺伝子の影響を評価する双生児法を用い、「より多くの練習を行う傾向は遺伝の影響も受けている」という結論に至りました。この研究は音楽家を対象にしたものですが、誰もが認める超一流といわれる運動選手が、自分は天才でなく人より努力した結果と答えるのをよく耳にします。決して謙遜ではなく素直な気持ちでしょう。

幾ら才能?があっても努力があってこそ開花するという点には納得です。しかし、その努力をできるかどうかも遺伝子によって決められているとなると、私のような凡人は少し複雑な気持ちになります。

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恋と寺

2014-11-15 17:56:40 | Weblog

韓国から義父が来日しました。上背もあるうえに背筋はピンと伸び、とても八十を優に超えているようには見えません。軍人として動乱の時代を生き抜き、退役後も官庁で長く勤務してきた風格を感じます。私の両親は既に他界し、義母も亡くなっているため、夫婦にとって親孝行らしいことができるのも今はこの義父だけです。富士が眺望できる河口湖畔の温泉や、高句麗からの渡来人高麗王若光を祭った高麗神社などを案内しました。東京近郊で何処かと考えたある一日、ふと蕎麦が美味しいからという知り合いの言葉を思い出し訪れたのが深大寺でした。私も妻も寺の由来も知らぬまま義父を連れて行ったわけですが、意外や渡来人の恋の物語を聞かされました。

深大寺は、奈良時代の天平5年(733年)に満功上人が開山したと伝えられます。万功上人の父は福満という渡来人で、この地の豪族右近長者の美しい娘と恋に落ちますが、娘の両親の猛反対にあい、娘は湖の小島に隔離されてしまいました。諦めきれない福満は三蔵法師玄奘が救われた故事を思い浮べ、深沙大王(じんじゃだいおう)に祈願したところ霊亀が現れ、その背に乗って匿われている娘の島に渡ることが出来ました。娘の父母もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人でした。上人は父の深沙大王を祀ってほしいという願いを承知して出家し、唐に渡って法相学を学んだ後故郷の武蔵野へ戻り深大寺を建立します。(深大寺縁起)当然 深大寺という名前はこの水神 深沙大王に由来し、今でも縁結びの寺として多くの人が訪れているということです。

愛し合う二人のキューピッドとなった深沙大王ですが、実際の姿はキューピッドとは似ても似つかぬものです。髪を逆立て、眼を見開き、顔の半分もあろうかと思われる大きな口を開け、物凄い形相であるうえ、そのいでたちがまた凄い!「象皮(ぞうひ)の面」といって、象の顔が付いた皮の半ズボンを履き、七つドクロの胸飾りを付け、腹には人面が現れています。玄奘三蔵が旅の途中、砂漠で一滴の水を得ることができず、息絶えようとしている時、流砂の中より現れて護(まも)ったことから仏教では砂漠の神、旅人の神として信仰されています。見た目は怖いですが、愛の水に乾き、恋に迷った旅人の渡来人にとってはまさに救いの神となりました。

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芸術とノーベル賞とドラマ

2014-11-10 15:03:11 | Weblog

先週の火曜日 何とか午後の診療の合間を見計らい四谷の駐日韓国文化院に行ってまいりました。御目当は、韓国の菁軒刺繍研究所主催による「黄龍佳緑展」です。菁軒は刺繍家 李貞淑氏の雅号であり、彼女の作品は韓国の閨房文化の一つである伝統刺繍を絵画的に表現した独創性と芸術性が内外で高く評価されています。今年のローマ法王来韓の際、国賓のお土産の一つとして彼女の作品が選ばれました。特に、この日展示会のオープンセレモニーとして韓日はもとより世界で幅広くオペラ歌手として活躍されているChie Lee Sadayamaさんのミニ講演も予定されていましたが、こちらは間に合わずでした。(残念!!)とにかく作品はどれも繊細で優雅、刺繍の細かさはマイクサージョン(顕微鏡外科医)顔負けの精緻さでした。展示会を出ようとした時、李貞淑さんにご挨拶する機会を得ることができ、韓日が政治的にギクシャクしている今こそ文化的な交流の必要性を強く感じていることを話されていました。

世界的な文化広報と言えば、ノーベル文学賞はある意味非常にインパクトのあるものです。日本では今年こそは村上春樹氏が受賞なるかと大きな注目を浴び、また韓国でも詩人の高銀(コウ・ウン)氏に期待する声が毎年聞かれます。しかしふたを開けてみると今年の受賞者はフランスの作家でした。日韓両国とも年々国民の読書量は減少の一法、特に2012年度韓国の統計庁の調査では、15歳以上の国民で年間一冊の本も読まない人の割合が4割を超えるという結果が出ています。自国の文化は国民が愛し育てるもの、世界に知らせる云々も大切ですが、少なくとも文学に関してはそれ以前に考えるべきことがありそうです。一方受賞者のパトリック・モディアノはフランスでは非常に著名な作家ですが、アジア地域での知名度は決して高いとは言えません。しかし、韓流ブームの火付け役となったドラマ「冬のソナタ」のシナリオを担当したキム・ウニとユン・ウンギョンの両氏がともに影響を受けた作品がモティアノの代表作「暗いプティック通り」であると著書で明らかにしています。

ノーベル文学賞から冬ソナに・・文化はどこで生まれどこに伝わるのか、面白いものです。

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愛(サラン)すべきもの

2014-11-10 15:02:09 | Weblog

先日クリニックのスタッフが韓国人の患者さんに聞いた話によると、韓国お茶の間での‘サランちゃん’人気が相当のものであるようです。この「サラン」という女の子は、父親一人で子育てに奮闘するという韓国のテレビ番組「スーパーマンが帰ってきた」で紹介され、その愛くるしい表情や行動が一躍人々の心を掴み、毎回高い視聴率を記録し今ではCMにも引っ張りだこの様子です。さっそく家で動画を検索して観てみると、サランちゃんの可愛らしさは噂に違わずですが、それ以上に父親の溺愛ぶりが何とも言えません。

女の子の父親は、柔道家、格闘家として日本で活躍した在日4世の秋山成勲(チュ・ソンフン)さん、母親は日本人モデルのSHIHOさんです。格闘家としての活動の傍ら、韓国でも知名度を高めてきた秋山さんですが、愛娘の誕生、そして人気モデルとして多忙な奥さんに代わって娘さんの面倒見ているうちに育児の楽しさに嵌り、テレビにまで出演となったのでしょう。筋骨隆々のいかついカラダに似合わず家事や料理を器用にこなす彼と、お父さんの溢れる愛情によく食べ、よく笑い天真爛漫に愛嬌一杯ふりまくサランちゃんのやり取りには高視聴率も納得です。この番組、他にも双子、三つ子など幾つかの過程でアボジたちが子育てに取り組み、悪戦苦闘しながらも懸命に愛情を降り注ぐ姿が共感を呼んでいるようです。番組の背景には、超高齢化社会である日本以上のスピードで少子化が進む韓国の社会問題に対する男性意識の変革を求めたところもありそうです。女性の80%以上が大学に進学する世界一の高学歴人材を抱えているにも関わらず、男性稼ぎ主型の社会規範が残る韓国での雇用面での男女不平等、家庭か仕事かの二者択一は、未婚や晩婚さらに未出産を助長しています。様々な子育て支援政策は進められていますが、男性の育児意識を育てることはそれとは別に重要であるのは間違いないでしょう。

娘に韓国語で愛を意味するサランという名前を付けた理由を、事情から日本に帰化した自分を理解し尊重してくれた父親への感謝の想いであるとインタビューで答えています。9月には2年半ぶりの格闘技戦にも勝利を収めた秋山選手。まさにサラン(愛)の力とはこのことです。

 

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新聞が伝えるもの

2014-11-10 14:47:59 | Weblog

ここ最近、朝日新聞の過去の報道に関して他のメディアや新聞社からの批判が集中砲火のごとく続いています。OECD(経済協力開発機構)レポートよると先進国を中心に発行部数は年々現象傾向にはあるといえ、信頼し得る情報源としての新聞の役割は決して小さなものではありません。ましてや多くのメディアの中で新聞に対する評価が際立って高い日本(総務省調査)において、その信頼性を揺るがす問題として取り上げられるのは当然かも知れません。しかし、他のライバル社にとって最大手の一つである朝日を叩いておく機会との思惑であったり、他人事として自分に火の粉が降りかかることのみを恐れ、大衆迎合的に一時的な騒動として問題の本質をうやむやにするなら最終的に国内外の信頼を失うのは新聞そのものかも知れません。

かわら版に始まり、日本人の識字率の高さから新聞は急速に人々の生活に溶け込みました。日本新聞協会によると100人当たりの新聞発行部数もルクセンブルク、スイスにつぎ世界三位です。さらに日本が世界一の新聞王国といわれる所以が全国紙数社による寡占率の高さにあります。世界新聞・ニュース発行者協会(VAN‐IFRA)によると2011年度の世界新聞発行部数トップ10のうちダントツの1,2位である読売(約1000万部)、朝日(750万部)含めて日本の新聞社5社がランクインしています。ニューヨークタイムズ(米、約100万部)ワシントンポスト(米、78万部)ザ・タイムズ(英、73万部)ガーディアン(英、39万部)フィガロ(仏、38万部)ル・モンド(仏、37万部)など有名紙と比べても特出しています。日本の新聞社がこのように巨大化したのは、価格再販制と月極の宅配購読制度などの新聞販売制度のため、新規参入しにくく大手が有利となり地方紙が統廃合されていった結果とされていますが、やはり人々の新聞に対する信頼度の高さがその根底にあってのものです。

どのような報道に対しても検証を怠ることで全体の本質や信頼まで失う危険性を朝日新聞は肝に銘じるべきです。一方 権力者に対しては常に監視者であることが新聞の基本的な役割であり、読者の数が多くなる程その使命を果たせなくなった時の悲劇は歴史が示している通りです。 

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ハワイの光と影

2014-11-10 14:46:35 | Weblog

遅い夏休暇で数日過ごしたオアフ島ですが、普段はアウトドアどころか診療室に閉じこもりの生活をしていた私には青い海とさらっとした空気は新鮮で開放感一杯ではありましたが、容赦なく降り注ぐワイキキビーチの陽射しは予想以上に強烈だったようです。中途半端な日焼け顔は自分でもしっくりせず、職員や患者さんにも普段から紫外線予防を指導している身上 罪悪感?とまでいかなくとも後ろめたい気持ちになります。(わざわざハワイに行って言うことではないですが・・・)

滞在していたホノルルのホテルで流れていた曲は日本でもよく耳にする代表的なハワイアン『Aloha Oe(アロハオエ)』。ハワイ王国第8代の女王にして最後のハワイ王リリウオカラニ(Queen Liliuokalani/1838-1917)が作詞したとされています。1779年、イギリスの探検家ジェームズ・クック(Captain James Cook)船長がハワイ島のケアラケクア湾に到着した当時、ハワイ諸島はポリネシア系住民が3つの国に分かれて住んでいました。クック一行の上陸に対し、原住民は歓待しますが、結果的にはアフリカや南米、カリブ海諸国同様に欧米諸国による浸食の始まりだったともいえます。部族間抗争の絶えなかった島が、西欧の武器と戦略を携えたカメハメハによって統一されたのがその二十数年後の1795年、カメハメハ1世が即位によりハワイ王国が誕生します。王国はその後独立を守りながらも欧米文化、資本の影響を徐々に受け、次第に白人支配層が台頭していきます。特に白人経営者によるサトウキビやパイナップルのプランテーション農園が拡大され、労働力不足から中国人、フィリピン人、日本人、朝鮮人などの移民政策が進められました。 移民者たちはいずれも低賃金で過酷な労働を強いられ、主にポルトガル人の農場監督によって監視され時には容赦なく鞭もふるわれ、まさに農奴のような扱いを受けたといいます。現在アメリカには約 180万人の在米コリアンたちが住んでいますが、1903年1月13日ハワイに到着した102名がその始まりでした。

政治、経済供にアメリカ人支配が強まり、ハワイ人の人口減少とともに伝統文化が廃れていく中、兄のカラカウア王の死後後を引き継いだリリウオカラニ女王は王政復古を目指し王党派の反乱を起こしますが、白人系の議会により糾弾され退位に追い込まれハワイ王国は終焉を迎えます。彼女が作った愛する人との別れを惜しむ「アロハオエ」は祖国を失った女王の悲痛な嘆きの歌になりました。「さようなら貴方 さようなら貴方 木陰にたたずむ素敵な人 別れの前に優しい抱擁を また会えるその時まで」

 

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ある韓国映画とドイツ移民の話

2014-11-10 14:45:03 | Weblog

たまには劇場で映画でも観ようと、スマートフォンでレビュー評価の高い作品を検索すると「怪しい彼女」(原題 Miss granny)という韓国映画が一位でした。近年の韓日関係もあってか、メディアでは韓流という言葉もすっかり聞かれなくなるこの頃、ネット上とは言えここまで高評価ならばと、面倒がる家内を引っ張って出かけました。新宿駅近くの映画館に入ると遅い時間に関わらず満席、ネットや口コミの威力は無視できません無視できません。あらすじは、若くして夫を亡くし、女手一つで幼い子を育てるため、時には人に後ろ指も刺されながらも必死で生きてきた70代の女性がある日突然20歳の姿となり、叶わなかった自由な人生と夢に向かって再スタートするというものです。荒唐無稽な内容ながら、外見は20歳、中身は老人という難しい役を演じきった女優の天才的といえる演技力の為か自然に受け入れて観ました。先進諸国をはじめ多くの国が高齢化を迎える中、同様の問題を抱える韓国、そして韓国社会ならではの事情や価値観などが脚本、音楽などのバランスの中で笑いと涙で絶妙に表現され、久しぶりに良い余韻に浸りつつ映画館を後にしました。

この映画で主人公の夫は、ドイツに出稼ぎに行きそのまま帰らぬ人となるのですが、1960年代の韓国移民史を知らない人には何でドイツまでと思うところです。当時のドイツは急速な経済発展と労働力需給の不均衡により、 外国人労働者を輸入し始め、韓国の高い失業率とあいまって、大量の労働力輸出と韓国移民史が始まりました。 1963年12月、第一陣として、247名の坑夫志願者が就業のためにドイツへ渡り、 第二陣として1964年10月に429名、三・四陣として1965年に540名がドイツ中部の炭坑地帯である ルール工業地帯の鉱山に就業します。彼らは当時、高い飛行機代のため船で渡航しました。そして鉱夫の次には移民として韓国の看護士たちがドイツに渡ります。坑夫として仕事をしにやってきた人たちの多くは韓国では高学歴所持者でしたが、貧困な韓国の現実を逃れ、輸入された労勧者として慣れぬドイツ鉱山の地下1000mで 労働をするようになったのです。看護士たちも、韓国の病院勤務とは異なりドイツでの仕事は言語の問題と差別的待遇から単純労働まで強いられ、肉体的にも精神的にも多くの苦労を経験します。そんな異国の地で若い看護士と坑夫たちが結ばれることもある意味自然の流れであり、実際に結婚するケースも珍しくありませんでした。映画とは異なり、帰国を待つ恋人との別れは様々な形があったかも知れません。

謎の写真館で記念写真を撮ったことで若返ったおばあさん。美容外科医としては喉から手が出るほどの欲しい夢のカメラですが、歳を重ね外見的な若さは失っても、懸命に生きてきた証としてそれ以上に価値があるものを手にしていることを映画のラストでは教えてくれます。気になる方は映画館へ・・・

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