‘口は災いのもと’と類似したことわざで、韓国では‘舌の中に斧が入った’という言葉があります。不用意に喋ったことで、痛い目に合うということですが、いかにも直接的で、韓国らしい?表現です。イギリスの思想家、トーマス・カーライルの「雄弁は銀、沈黙は金」というのもよく引用されますが、古今東西自分の意図したことや、真意を言葉によって相手に伝えることの難しさは、誰もが感じてきたところです。
今回の経産相の辞任劇も、口は災い・・とも言えるかも知れません。しかし、「死の町・・」は別として、「放射能つけちゃう・・」の方は、一記者に対してのおふざけ半分の言動のようで、大臣に任命されたことの緊張のまま被災地視察に臨み、東京に戻った途端、ほっとしてか、はしゃぎ過ぎてしまったというレベルの様で、少し気の毒とも思う反面、震災復興にたいする「さあこれから!」という国民の期待の中、処分は止むを得ないところでしょう。自分の言動が相手にはどのように受け止められるかを冷静に判断することは容易いことではありませんが、政治家に限らず人前にたつ立場になった場合、この素質は専門的な能力と同様、或いはそれ以上に不可欠なものだと言えます。そして、このような能力は、天分もある反面、多くの境遇の人と接し、話し合い、時には衝突もしながら身に着けていくものではないかと考えます。
先日、ハーバード大学、東京大学、上海大学の学生が、あるテーマに関してテレビ討論を行うという番組を観ました。お互いの発言は同時通訳されていましたから、語学力はハンディにはならず、自由な討論がなされたわけです。東洋と比べ、積極的な参加式授業スタイルで、アメリカ教育の頂点にいるハーバードの学生ですから、当然強い自己主張で討論をリードしていくのかと思いきや、他の学生の発言を聞き、その内容と自分の意見とのバランスを取ろうとしている事が、意外でした。むしろ東大の学生に、とにかく何か主張しなければという気負いを感じたものです。討論は、相手を言い負かし、持論を押し通すためではなく、様々な意見、考えを持った人を前にして、己を映してみることができる鏡の役割をしてくれるのでしょう。一昔前の宣伝で「男は黙って〇〇ビール。」というのがありましたが、日本でも最近は会話が上手くなければ、女性にモテず、また海外に出れば、黙っていては無視されかねません。雄弁は多弁に非ず、寡黙は無口に非ずです。