美容外科医の眼 《世相にメス》 日本と韓国、中国などの美容整形について

東洋経済日報に掲載されている 『 アジアン美容クリニック 院長 鄭憲 』 のコラムです。

放棄?悟り?の世代

2015-04-28 18:13:41 | Weblog

劇作家、評論家のバーナード・ショーは生前「若さというものを若い人に持たせておくことはもったいない」と言っています。情熱やエネルギーに溢れていても、経験や知識が伴っていない若者に対する皮肉と嫉妬が込められた言葉でしょう。しかし、最近 前の世代に比べ 物質的には豊かと考えられる国々で若い 彼、彼女らの生き方や意識に従来とは異なる変化が起きているようです。

数年前から韓国で今の若者を称して、「三放世代」という表現が使われています。三放とは、「三つを放棄すること」を意味し、その三つは「恋愛」「結婚」「出産」を指します。(さらに「五放世代」となると、これに「マイホーム」と「人間関係」が加わります!)戦後、日本植民地からの独立、朝鮮戦争を経て南北分断、韓国では軍事的独裁政権下での経済的復興、民主化といった激動の時代を生き抜いてきた祖父母や親世代。そして88年ソウルオリンピック開催を経て中進国から先進国の仲間入りをしようという時期での通貨危機も何とか乗り越えてきました。しかし、ここ数年は雇用なき経済成長といわれ、目に見えない社会の格差拡大の中で若者にとっては政治的、経済的困難を経験した親世代以上の停滞感や閉塞感を感じているようです。 ある程度の高等教育を受けても、それに見合う就職はできず、老いていく親の姿を眺めつつも一人立ちは儘ならない現実のなかで、恋愛し自分の家族を持つことを放棄せざるを得ない世代ということでしょうか。一方、日本の若者にたいしても最近は「さとり世代」という表現があります。これは、「高望みをせず、恋愛にも淡泊で、友人関係でも空気を読むような人が多い20代(「さとり世代――盗んだバイクで走り出さない若者たち」原田曜平)」を称したものです。社会学者の古市憲寿氏が著書『絶望の国の幸福な若者たち』でも述べる様に、親世代や第三者と比較してより豊かな生活をしようといった目標もなく、未来に明るい希望は見えないがそれなりに幸福で現状に満足している若者像が悟りといわれる所以のようです。

「放棄つまり諦めの次に来るものが悟りの境地」と考えてよいものかは私にはわかりません。血気盛んで諦めない老人と、静かで悟った若者の社会が現実の未来なら、まさに絶望の国です。

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植民地の人々

2015-04-07 17:03:02 | Weblog

このコラム掲載にあたって、毎回お世話になっている編集部の方からある演劇上演後のフリートークに参加してもらえないかとの話を頂きました。私の専門に関する講演や発表ならいざ知らず、人前でフリートークそれも演劇に関しての話など柄でもなく、場を盛り下げる?恐れもあり今から正直気が重いところです。一方 肝心の公演『追憶のアリラン』(劇団チョコレートケーキ、4月9日~19日、東京芸術劇場)は、戦前の植民地下の朝鮮で、統治実務者として存在した一人の日本人官僚を主人公に、今までほとんど取り上げられなかった植民地支配の実態や終戦時の引き揚げの悲劇を題材にした点、非常に興味深く楽しみです。

在朝日本人という言葉があります。日本が朝鮮の釜山を開港せしめた1878年から1945年の終戦までの期間、朝鮮に居住していた日本人の総称です。当初は54名に過ぎなかった在朝日本人は、1910年韓国併合し植民地支配が始まるや17万人に達し、日本敗戦の前年には71万人までになります。時代という大きな流れの中で、軍事的強国による他国の支配、統治という政策として朝鮮の植民地下の歴史は一部で研究され、論じられては来ました。反面、35年の間に数十万人の在朝日本人の生活、おこないには、全くといってよい程語られることはありませんでした。「1300万人の朝鮮民衆を同化することは一人政府の力だけでは出来ない。即ち我が30万人の在朝内地人の双肩にかかっている責任である」と当時の東京帝国大学教授 山田三郎が述べていたように、日本による朝鮮植民地政策は軍部によってのみおこなわれたものではなく、「草の根の侵略」「草の根の植民地支配」といわれるように、名もない一般の日本人の手によって支えられたものと考えられます。併合前後の初期に渡った日本人は、日本国内の生存競争ではみ出た出稼ぎや移民が多く、その後朝鮮統治確立とともに官僚や軍人、企業エリートや教員が主流になっていきます。彼らや彼らの家族たちは、どのような意識、使命感を持って赴き、どのような目で朝鮮という土地を眺めていたのか、そしてそんな彼らは朝鮮の民衆にはどのように映っていたのでしょうか。

「植民地朝鮮の日本人」(岩波新書)の著者 高崎宗司氏は、元在朝日本人が朝鮮時代を振り返るときの対し方には、自分たちの行動を立派なものだったと考えるタイプ、単純に懐かしむタイプ、自己批判するタイプに大別されるとしています。しかし、それは一つの分類ではあっても各々はまた複雑に絡み合うものがあり、植民地下の朝鮮の人々の気持ちもまた一様ではありません。この作品で表現しようとしているのも立場こそ様々でも最後は顔のみえる人間の心の問題であり、辛くともそこに焦点を当てずには本当の相互理解は有り得ないということだと思います。

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アジアの巨星

2015-04-07 16:57:39 | Weblog

シンガポールのリー・クアンユー氏が亡くなりました。建国の父という言葉が彼ほど当てはまる人物はいないかも知れません。マレーシア半島南部にあったマラッカ王国がポルトガㇽの侵攻を受け滅亡し、シンガポール島に逃げ込んだ王族や商人たちも虐殺され町は壊滅、シンガポールはその後300年歴史の表舞台から姿を消します。1819年、イギリス東インド会社の植民地建設者として就任したトーマス・ラッフルズが地政学上の重要性に着目し開港事業を手がけたことから今のシンガポールの歴史は始まります。太平洋戦争中、一時日本の植民地となりますが、終戦後再びイギリス領に、その後独立の気運が高まり1963年にマレーシア連邦が成立し、そこから1965年に追放される形で分離独立を成したのがシンガポールの人民行動党(PAP)を率いるリー・クアンユーでした。

後背地であるマレーシアを失ったシンガポールの為、彼は徹底した経済至上主義・能力主義の「生存のための政治」を目指します。政治システムや教育システムは全てシンガポールの経済発展のために整備されました。人民行動党と政府は一体となり,リー・クアンユーを頂点にエリート層が国家を率いるという権威主義体制、開発独裁体制が構築されました。未来のシンガポールを担う優秀な若者を早い段階から見出し,国家奨学金を与えて官僚への道を歩ませ、さらに実績を重ねた者は人民行動党の議員として迎え政治家としてシンガポールを率いるリーダーとなります。公務員の不正や汚職は厳しく取り締まるとともに、給与は非常に高く世界一の高給とも言われます。反面、野党の存在は、経済成長、ひいてはシンガポールの生存にとって害であると考え,政府は様々な妨害手段や管理手法を駆使して,人民行動党の批判勢力や対抗勢力を排除しました。外資を誘致するインフラ整備、国策会社中心の支援、英語の公用語化、スイスを目指した国防政策など、彼の天才的な手腕と強力なリーダーシップによりアジアの小さな島は僅か数十年で、世界で最も効率的で豊かな国の一つに変貌しました。

リー・クアンユーが生前アジアの三大指導者に挙げていたのは、朴槿恵大統領の父、朴正熙元大統領、吉田茂元首相、中国の小平でした。「政治面でアジアが一つにまとまるのは100年経っても不可能だろう。しかし、経済面で一つになる時間は数十年もかからないだろう」彼の国葬に集まった東アジアの指導者たちは、彼の残した業績と言葉をどう受け止めていくでしょうか。

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