「最も意地悪な罰は、女性を部屋に閉じ込めて綺麗な服、アクセサリー、宝石を与え、かつ鏡を与えないこと」だとか。鏡の歴史は人類が自己認識するきっかけになったと言われるほど古く、始まりは水面鏡です。ギリシャ神話に出てくるナルキッソスは水面に映った己の姿に恋をし、自分であることを理解できぬまま叶わぬ愛に憔悴して息絶えます。ご存じナルシストの語源です。その後、石や金属を磨くことで鏡はより正確に物を映すようになりますが、人々はその不思議さ、神秘性に魅せられて古代では実用というより宗教儀式に用いられました。佐賀県唐津市に在る宇木汲田遺跡と福岡市の早良平野に在る吉武高木遺跡では弥生時代中期初頭の墓から鏡、青銅器の武器、ヒスイ製の玉類が出土していますが、所謂この‘三種の神器’の筆頭である鏡は朝鮮半島に起源を持つ多紐細文鏡と呼ばれる鏡です。古代人は鏡の中に移る姿の中に心の奥、さらに神に通じる何かを見たのかも知れません。
鏡に映った世界は単純なようで奥が深く、例えば「鏡に映った自分の姿は左右反対になるのに上下は逆転しないのか?」私たちが当たり前と気にもしない事象ですが、哲学や心理学、さらに物理学の観点でも興味深い問題で、古くはプラトン、そして哲学者のカントも考察し、近年ではノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎、ファインマンなどの科学者も説明を試みるも上手くいきませんでした。確かに鏡の前で右手を挙げると、鏡の中の自分は左手を挙げているようにみえます。今度は、鏡の前で右ひじを付いて寝そべってみると、鏡の中の自分は左肘を付いて寝そべっているようです。ならば上下も逆転したと言えるでしょうか?光学的に解釈すると、鏡の中の像は左右が反転しているのではなく、奥行きが逆転して映るという話のようです。左右が逆転するならば鏡に右からそっと顔を出せば、鏡の左から登場することになりますがそのようなことはありません。人間が重力の中、上下を特定している環境にいるうえ、人の体が縦軸を中心にほぼ対称であることから左右のみ逆転と錯覚して捉えていると解釈できますが、より哲学的説明も存在します(鏡の中の左利き―鏡像反転の謎 2004/5