美容外科医の眼 《世相にメス》 日本と韓国、中国などの美容整形について

東洋経済日報に掲載されている 『 アジアン美容クリニック 院長 鄭憲 』 のコラムです。

ドバイから新年に想うこと①

2014-02-25 18:26:12 | Weblog

 

正月休みを利用して訪れたドバイは、私にとって初めての中東地域でした。UAE(アラブ首長国連邦)はその名の通りアラビア半島 アラビア湾(ペルシア湾)に面した地域の7つの首長国からなる連邦国家で、ドバイ首長国はその中でも世界的な金融、観光都市として急速に発展した近代都市です。 新聞やテレビで目にする程度の知識しか持たず、ネットで航空券とホテルの手配だけ終え、本当に思い付きのドバイ訪問ですが、羽田から直行便(エミレーツ航空)で12時間、韓国、日本を含む33か国は30日以内の滞在ではビザ取得も不要で思いのほか手軽な渡航でした。

現地時間午前9時にドバイ空港に到着、日本との時差は5時間です。基本的にはドバイの街の雰囲気を肌で感じたいという旅ですが、初日だけはとやや離れた砂漠のホテルを予約しました。タクシーでホテルに向かいながら、パキスタンからの出稼ぎという運転手にドバイ事情を聞きました。一月の今の時期が、気候的にはもっとも過ごしやすいということから始まり、子供を残して妻と働きながら仕送りしていること、ドバイは働きやすいがインフレで年々物価が上昇していること、税金は一切かからないが、医療費や福祉に関しては2009年から新健康保険制度がスタートしたものの外国人には不便が多いことなどいろいろ話してくれました。人口約230万のドバイは、この運転手のような海外労働者が大部分で、自国民は二割にも至りません。しかし、徹底した自国民優遇策のなか、1970年以降 石油資源の枯渇を見越し、先見的に多角的産業政策を強力に推し進めてきた結果、一人当たりのGDPは日本とほぼ同レベルの上、GDPの内訳も97%が非石油セクターで占め、まさに中東において脱石油依存の成功した例です。反面、職場と報酬は与えられても、国籍の取得は困難であり、そこには高い越えられない壁があります。運転手も私が日本から来たと知ると、しきりに自分は以前から日本で働きたと考えているがどう思うかと尋ねられました。正直 彼の今の状況より良いと言えるか答えに迷いました。

夕方 果てしない砂漠の地平線に沈む太陽を眺めると、その美しさに暫し言葉を失います。しかし、この広大な自然の前に人間はいかに無力であり、ここに住む人間から多くのものを奪い、また与えもしたのでしょう。その一つが石油であり、知恵だったのかもしれません。

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グローバル化と右傾化

2014-02-25 18:25:18 | Weblog

 

‘グローバリゼーション’という言葉が頻繁に登場するようになったのはいつ頃からかは定かでありませんが、近年 現代人にとって当然持つべき価値観として暫し取り上げられます。しかし、一般的に日本人が考えるグローバル化、そしてその条件をあげると、欧米文化やシステムを理解し、英語を習得することが重要であると考えるのが自然です。勿論、世界共通語となった英語を習得する必要性は強調し過ぎることはありません。海外の学会に出ると、優秀な研究者が内容よりも英語能力の問題で実力が過小評価され、主張を十分に伝えきれない場面はあるからです。勿論、英語のスピーチコンテストでない以上、最終的には研究成果が重要であることは当然ですが、どうしても英語で捲し立てられた時のもどかしさ、そこに微妙な劣等感を感じないと言えば嘘になります。この感覚は多かれ少なかれアジア諸国共通のものでしょうが、日本人には特に強い部分ではないかと思います。

江戸末期、徳川幕府の弱体化で不安定な政情の中、黒船来航をきっかけに欧米の文化、科学力に衝撃を受けた日本は、維新以降の急激な欧化と西洋文化崇拝へと駆り立てました。当時 明治政府の目標は、「西洋と対等に外交関係を結べる文明国」であり、庶民も競って英語塾に殺到する所謂初の英語ブームが起きます。やがてこのような欧化思想が、西洋人を人間個人としても優等民族と考える人種論に発展し、西洋人と結婚し民族を改良しようという理論まで生まれました。その一つが「日本人種改良論」高橋義雄 1884年出版)であり、この本の序文を書いたのは福沢諭吉です。こうした西欧コンプレックスは、同時に国粋思想とともに、他のアジア諸国への優越感、蔑視にもつながっていきます。一方、同時代の朝鮮半島は朝鮮王朝末期、高宗の実父 大院君のもと欧米列強の圧力に対して強硬な鎖国、攘夷政策をとり続け、結果的に近代化に乗り遅れ清国と日本の間で翻弄される運命をたどります。

日本を訪れた外国人が、日本のテレビや雑誌の広告に登場する欧米人やハーフの多さを不思議に感じることはあると思います。この点ももしかすると、維新以降、そして戦後の欧米に対する憧れの意識も影響しているかもしれません。その国を知るのに歴史を学ぶことは、決して過去にこだわる為ではなく、現在と未来を理解するための手段の一つであり、停滞している東アジア関係の解決のヒントも見つかるかもしれません。

2013年も残すところ半月余りとなりました。この時期になると誰もが一年を振り返り、今年あった様々な出来事を思い浮かべ、時の流れの速さを実感するところです。私も5年前に本紙にコラム掲載をスタートし、よく三日坊主がここまで続いたという記念?に厚かましくも今年一冊の本を出しました。専門書や論文は別として、随筆の本など出版するとは本当に不思議な縁だと考えます。自分のことさえ予想がつかないのが人生ですが、日韓をはじめ、世界の多くの人々に予想以上の良い出来事が起きることを願い、今年最後のコラムを終えたいと思います。

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楽器の価値

2014-02-25 18:24:03 | Weblog

今年夏ごろ、二年半ぶりにロンドンで盗難された韓国人演奏家所有のバイオリンが無地発見されたというニュースがありました。何故たかが一楽器の発見が世界中の話題になったかといえば、このバイオリンが何を隠そう名器「ストラディバリウス」だからです。16世紀か17世紀らにかけて活躍したイタリアの名工 アントニオ・ストラディバリウスは、93歳という当時としては長命の生涯で 約1100挺の弦楽器を制作、現存するのは600挺ほどとでオークションに出れば数億から十数億の値段がつきます。このように多くの音楽家が憧れ、楽器制作者、研究者はその音の謎を探るべく最新の技術まで駆使し分析していますが、未だに明確な答えはでていません。

陳昌鉉(チン・チャンヒョン)さんは1943年、14歳で日本に渡り、教師を目指して苦学の末、明治大学英文科を卒業するも韓国人ということでその夢は挫折します。失意の中で聞いた講演の中で「名器ストラディバリウスの再現は不可能」という言葉が彼の一生を変えました。その時から独学で、バイオリン制作に心血を注ぎ、ついに1976年アメリカで開催された「国際バイオリン・ビオラ・セロ製作者コンクール」で、6部門中5部門で金メダルを獲得、さらに1984年、アメリカバイオリン製作者協会より、「無鑑査バイオリン製作家」として認定され、「マスターメーカー」の称号を授与され名工とし、「東洋のストラディバリウス」と称されるまでになりました。昨年82歳の生涯を閉じられましたが、もしストラディバリウスほどの時間が与えられたらさらに素晴らしい作品を残されたかと惜しまれます。

生演奏が聴けるお洒落なバー。アルコールがほど良く入ったあたりで徐に立ち上がり、置かれたピアノに向かい好きなジャズでも弾き始める・・・まさに映画のワンシーンによくある場面です。この年になると、何で子供の頃、バイオリンとは言わずとも、親に通わされたピアノでも嫌がらずに続けなかったかと後悔します。勿論、続けたところで天性の‘絶対無音感’の私ですから、ストラディバリウス音を聴き分けるどころか、ドレミも‘どれ見?’でしょうが・・・

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じゃんけんと軍艦

2014-02-25 18:09:13 | Weblog

前日に地方で講演会を済まし、朝の飛行機で羽田に戻りました。ほっとした気持ちでクリニックに向かう電車の中、前の席に30代くらいの母親と隣で小学生低学年のお兄さんと幼稚園ぐらいの妹がじゃんけんをしているのが目に入ります。昼前で車内は比較的空いているため子供たちの元気な声が良く響きます。「グンカン、グンカン、チョーセン! チョーセン、チョーセン、ハワイ! ハーワイ、ハーワイ、グーンカン!」ほとんどの乗客が全く気に留めない様子ですが、隣に座っていた中年の男性は少しびっくりしたような表情で子供たちを見詰めていました。私も正直、一瞬その空間だけ時間が遡ったような感覚になりました。子供たちも、30代前半のお母さんも多分じゃんけん言葉の意味を知らないと思いますが、「軍艦、朝鮮、ハワイ」の所謂 「軍艦じゃんけん、戦争じゃんけん」です。

戦時中、子供たちの間でおこなわれた戦争ごっこの一つが、この軍艦じゃんけんですが、私の子供時代は勿論、今でも子供たちの間には脈々と受け継がれているようです。軍艦じゃんけんは、時に「軍艦、沈没、ハワイ」または「軍艦、沈没、破裂」とも表現され伝わっています。日露、日清、太平洋戦争での日本海軍の戦闘と、占領地、攻撃地をさす名称であることは、いうまでもありませんが、戦後時が経つに従い遊びは残っても、その意味を深く考える子供も親もいなくなりました。一部には、軍艦じゃんけんを禁止しようという声もあるようですが、むしろ遊びの歴史、意味について皆で考える機会になってくれた方が私は良いと思います。過去に拘る拘らないではなく、事実は事実として教え、判断することが国を知り、愛することにつながると考えます。

じゃんけんは子供にとっては、世界共通遊戯、どのように伝わるかは別として、不思議なことに多くの国で昔から遊ばれ、そのやり方も似ています。韓国のじゃんけんは「カウィ(はさみ)、ぱうぃ(岩)、ボー(布)!」ですが、昔 父親とやった記憶では、カウィ(はさみ)を出すとき、親指と人差し指を広げていたのが不思議に記憶に残っています。

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