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都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

吉田ろうそく店、和泉屋蒲鉾店、五十嵐提灯、文芸社印刷所 他

2025-03-09 | 台東区  


 左から、吉田ろうそく店、柳沢邸、和泉屋蒲鉾店、H邸(3F)、五十嵐提灯
 Photo 1995.6.17

所在地:台東区 根岸3-1-16、3-2-14
構造・階数:木・2
建設年代:吉田ろうそく店は明治末〜戦前
解体年代:吉田ろうそく店と柳沢邸は、2005〜08(平成17〜20)
備考  :跡地にはマンション・レガーレが2009(平成21)に完成

 金杉通り沿いの町屋の街並み。左端の吉田ろうそく店は一部銅板張りの出桁造りで、もしかすると震災後〜昭和戦前期のもの。戦後、1952年の火保図では吉田線香店。
 その右、改築・改修されていた柳沢邸は、かつては柳澤製袋所(紙袋や封筒を製作)でモルタル看板建築だったもの。


 左端から、吉田商店、柳沢邸、和泉屋、H邸(3F)、五十嵐提灯、文芸社印刷所
 Photo 2004.12.25


 左から、和泉屋、H邸(3F)、五十嵐提灯、文芸社印刷所
 Photo 2014.11.11

建設年:和泉屋蒲鉾店は明治末〜戦前、五十嵐提灯は1929(昭和4)、文芸社印刷所は1894(明治27)
解体年:和泉屋蒲鉾店〜文芸社印刷所は、2014(平成26).11
備考 :跡地にはルフォン根岸三丁目(RC・15F)が2016(平成28)に完成

 左端の和泉屋蒲鉾店は塗屋造りという東京では希少になった様式の町屋だった。1952年の火保図では「泉屋佃煮店」、1963年の「東京都全住宅案内図帳」では「和泉ヤ揚物」。
 中央右の五十嵐提灯は1876(明治9)創業。
 右端、文芸社印刷所の建物は1952年の火保図では「池田豆腐店」、1963年の「東京都全住宅案内図帳」では「文芸社印刷」、1999年の住宅地図ではT邸。屋根が3段重ねになっているやや珍しい建物。手前側か後方に増築したのだろうか。

 写真3枚目の和泉屋〜文芸社印刷の4棟は2014年11月から一括して解体され、その後マンションとなった。

参考『東京の町を読む』陣内秀信・板倉文雄 他、相模選書、1981
  『下町残照』村岡秀夫、朝日新聞社、1988

吉田ろうそく店、柳澤製袋所/根岸3丁目
和泉屋蒲鉾店/根岸3丁目
五十嵐提灯店、他/根岸3丁目
  - ぼくの近代建築コレクション

【×】ギャルリー根岸  【×】五十嵐提灯店
  - ずぼら堂懐古録

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 台東区  #街並み 台東区 
#出桁造り  #土蔵造り  #旧街道 
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松本屋

2025-03-06 | 台東区  
松本屋
所在地:台東区 根岸3-1-19
構造・階数:木・2
建設年:蔵は明治20年頃もしくは明治元年
    蔵以外の店舗は金杉通りの拡幅以後に完成
解体年:2000〜03(平成12〜15)
Photo 1995.6.17

 松本屋は金杉通り沿いにあった化粧品店(兼雑貨店)。下記『ぼくの近代建築コレクション』の記事中の写真には、資生堂とアルビオンの袖看板が写っている。ただ、同記事2枚目の店頭の写真には化粧品以外の雑多なものが写っており、雑貨店のようだったらしいことも判る。実際、戦後まもなくの1952年版の火保図では雑貨店、1963年発行の『東京都全住宅案内図帳』では化粧品店と記されており、古くから雑貨も扱う化粧品店だったらしい。

 右側の蔵は明治初期か中期のものだったそうだが、通り沿いの店は金杉通りの拡幅(明治40年頃)の後に建てられたものだった模様。金杉通りのこのあたりは関東大震災でも第二次大戦でも被災しなかったそうで、かつては土蔵造りや出桁造りの店舗が建ち並んでいた。しかし2000年頃以降はそれらも次第にマンションなどに建て替えられており、中高層マンションの間に古い建物が点在する状態になってきている。

 『ぼくの近代建築コレクション』の1989年撮影の写真では土蔵の前部分の屋根も瓦葺きだが、1995年撮影の上写真では老朽化したからかトタン葺きに替えられている。また、2000年の住宅地図には記載されているが、その後解体されたようで、跡地には2003年9月に松本屋レジデンスが完成している。

参考『東京の町を読む』陣内秀信・板倉文雄 他、相模選書、1981
  『下町残照』村岡秀夫、朝日新聞社、1988
松本屋/根岸3丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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#失われた建物 台東区  #土蔵造り  #倉庫・蔵  #旧街道 
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加藤家住宅

2024-11-06 | 埼玉県  
加藤家住宅
所在地:川越市 連雀町11-8
構造・階数:木・2
建設年:明治30年代(1897〜1906)
解体年:2023(令和5)
備考 :川越市有形文化財。上写真の時期は、小松屋和菓子店。
    右の家屋はこの頃には既に仕舞屋で、その後解体。
Photo 2001.2.15

 大和屋という金物商の店蔵として明治30年代に建てられたものと推定されている。正面側は土蔵造りで、他の外壁は大谷石をコの字形に巡らせており、川越の蔵造りの中でも特徴的な建物だったという。


 手打ちそば「連雀」だった頃  Photo 2009.7.19

 貸し店舗としていたようで、1990年代や2000年代半ばまでは和菓子店だったが、その後はそば屋になり、2010年代後半にはイタリア料理店になっていた。


 Pizzeria Wood Bakersとなった後の様子  Photo 2022.10.28

 外壁が両側にせり出しているのも特徴的。隣接地の仕舞屋が建て替えられて後退したため、この頃は側面の大谷石の外壁が良く見えていた。大正浪漫通りの中でも立派な建物のひとつだった。


 焼失後  Photo 2023.1.27

 2023.1.20の夜に火事が起こり全焼。翌週に川越に行く機会があったため訪れたところ、前面の土蔵造りの壁面や側面の壁は残っていたが屋根は落ちており、また後方は全て焼け落ちてしまっていた。
 その後、再建されるのだろうかと気になっていたが、再建にはやはり高額の費用が掛かるそうで、残念ながら解体されることになり、同年7月頃に解体された。跡地は2024年4月時点でもまだ更地。

川越市の近代建築
指定文化財の建物が全焼 埼玉・川越「大正浪漫夢通り」のレストラン [埼玉県]:朝日新聞デジタル
再建に億の費用…築120年、川越の蔵造りの文化財全焼 無念の解体 [埼玉県]:朝日新聞デジタル

日本国内の建物や街並み
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湯島天満宮社殿

2024-09-27 | 文京区  
湯島天満宮 社殿
所在地:文京区 湯島3-30-1
構造・階数:木・1
建設年:1885(明治18)
解体年:1994〜95(平成6〜7)
Photo 1994.11.26

 学問の神様、菅原道真を祀ることで知られる湯島天満宮。1500年以上前の458年に創建されたという古社だが、現在の社殿は1995年に総檜造りで新築されたもの。旧社殿が1885(明治18)年に建てられてから100年以上が経過して、老朽化が激しくなったため建て替えに至ったそうだ。

 上写真は、明治中期に建てられた旧社殿を建て替えの直前にたまたま撮ったもの。
 江戸時代、火事が頻繁に起こったため、幕府は防火対策として「焼け跡に建てる建物は全て塗屋造り・土蔵造りで瓦屋根にせよ」と指示していたという。旧社殿はその考えを引き継いで、塗屋造り(土蔵造りの一種)で建てられたものだったそうだ。軒下がはっきり写っていないので、塗屋造りの特徴は判然としないが、素木造りではなかった感じには見える。


 Photo 2014.10.21

 建て替え後の現在の社殿は純木造で屋根は銅板葺き。都心は多くの場所が防火地域で木造での新築は認められないが、防火対策を整えた結果、特別に認められたものという。

 権現造りの全体構成は変わっていないようだが、以前の拝殿は平入りで手前に千鳥破風があり、唐破風の向拝が付く形。しかし新しい拝殿はどうやら妻入りで、手前から奥に向かって棟が置かれ、大型の入母屋屋根の手前に唐破風の向拝が付いている。現社殿の後方両側に張り出して見えている屋根は、入母屋の大屋根上に設けられた千鳥破風。入母屋屋根と千鳥破風が組み合わせられていることには変わりがないが、前面の破風が大きいため以前より立派に見えている。

湯島天神総檜造りの社殿

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山岡家住宅

2024-07-09 | 港区   
山岡家住宅
所在地:港区 南麻布3-3-33
構造・階数:木・2
建設年:1860(安政7)
解体年:2020(令和2)
備考 :後方の母屋は1933(昭和8)築
    集合住宅「鶯啼居」に建て替え。旧建物の一部を保存復元。
Photo 2011.3.29

 仙台坂上交差点から南へ、薬園坂へと向かう道の途中にあった土蔵造りの家。屋根はトタン葺きだったが、いわゆる店蔵の構えで立派な建物だった。
 この撮影時は隣接地の建物が解体されて更地になっており、後方の建物も見えていた。その時点では奥の建物が通り沿いのものと関連があるのかどうかも知らなかったが、そちらも古そうな木造家屋だなと思っていた。

 正面から。2階には小さな窓が一つあるだけで、これも密閉できるもの。1階はガラス戸の引き戸などで、大きな開口部を持つが、両側の壁は厚い。この界隈では他に同様のものがなく珍しかった。

 南側から見ると、後方の建物は瓦屋根だが洋風下見板張りだったことが分かる。
 きれいに手入れされていたので残り続けることを期待していたのだが、残念ながら2020年に解体された。

 さて、Google Mapでこの場所を見ると、現在も「山岡家住宅」としてピンが建てられている。不思議に思って改めてネット検索したところ、下記の記事やサイトを見ることができた。

山岡嘉彌デザイン事務所
【商人の息づかいを残す】建築家・山岡嘉彌氏に聞く
  旧江戸御府内最古の店蔵保存再生への道 | 建設通信新聞Digital

ザ・AZABU > No.27(2014.3.18)、 No.58(2022.3.17)

 一連の記事によれば、これまで建物を所有して維持していたのは、上記サイトの建築家の方だそうだ。山岡家は近江から江戸に来て、近くにあった仙台藩下屋敷の出入り商人として、薬、米、炭、雑貨などを扱っていたという。かつてはこの道沿いには同様の店が建ち並んでいたというが、次第に減ってしまったそうだ。

 そのような経緯もあって、同氏はこの建物をずっと残して行きたいと考えていたそうだが、近年の台風などで傷みが激しくなって維持が困難になり、建て替えを決断したという。

 通り沿いの店蔵の建物は約160年前に建てられたもので。安政7(1860)年の墨書が残っていたそうだ。店蔵の建物としては、かつての江戸市中エリアに残る最古のものだったという。港区が解体前に行った調査では、部材の多くがもっと前の宝暦年間(1751~64)のものであることが分かったという。山岡家が近江から江戸に来てここに居を構えた時期の建物が、姿を変えてはいるのかもしれないが残されていたようだ。

 また、店蔵の後方の建物は居住棟で、こちらも90年近く前の1933(昭和8)年に建てられたものだったという。

 解体後の跡地には「鶯啼居」(おうていきょ)という5軒からなる集合住宅が建てられているが、上記のような経緯もあったことから、同氏は旧建物の部材などを保存し、新しい建物の1階に一部を復元したそうだ。現在は関係者以外は見ることができないが、かつての建物の部材や施工技術は、将来にも受け継がれていくことになったようだ。

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