荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

国分城の変遷と唐子山

2024年06月25日 | 散文

桜井平野の真ん中に独立した山が在ります。多くの数と多くの種類の古墳が在ることから、古くから人々がよって立つ山だったのでしょう。あそこに城を造ったのは豊臣秀吉の家臣「福島正則」です。麓に「お屋敷」の地名と堀の遺構が残っています。

国分寺の隣に「春日神社」が在ります。

由緒書きの末尾に、「唐子山の福島神社を合祀した」との記述が有ります。

ここに福島神社が合祀されています。

福島正則が国分城に造った神社です。

ここから四国八十八ヶ所五十九番札所である国分寺の屋根が見えます。

そして、山道の方向に国分山(現在の唐子山)が在ります。

さて、「脇屋義助の墓」の真裏です。

「国分城城主小川土佐守祐忠夫妻尊霊」の墓石が有ります。この人物をよく知らないのですが、福島正則の後に国分城に入った人物です。彼は関ヶ原の戦いで西軍に付きました。

「家来墓」も有ります。関ヶ原での敗戦後、小川裕忠夫妻と一緒に自決したのでしょうか?

徳川家康に付いた藤堂高虎が伊予半国20万石を領した際に、彼は国分城を廃棄しました。その資材を使って、伊予半国経営の為の新たな城を造りました。今治城です。

藤堂高虎が名付けた「唐子山」の呼称が今も使われています。そんな歴史を持つ山です。

 

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吉野朝忠臣 従三位 脇屋義助公廟

2024年06月25日 | 散文

国分寺のすぐ傍です。でも、ここでお遍路さんに逢ったことはありません。せっかくの歩き遍路なのに、ここを素通りしたら勿体ないと思います。

石段を上ります。

上がった所に拝殿が在ります。

右手に説明書が有ります。(説明板表示内容)
「脇屋義助公廟堂の由来 
延元元年(1336)五月、楠正成、新田義貞らの連合軍を摂津の国湊川に打ち破った足利軍は、戦勝の余勢をかって、京都に攻め入った。
同年六月、京都の東寺に入った尊氏は、持明院党の公明天皇を皇位につけて政権の合法化をはかり、後醍醐天皇を洛中の花山院に幽閉して、北朝中心の体制をかためた。

そこで、天皇は密かに花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。
そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。
ここに尊氏が樹立した京都の北朝(公明天皇)と吉野の南朝(後醍醐天皇)両皇統が並び立ち、諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な抗争が各地で展開された。
しかし戦況は南朝方に不利に展開、新田義貞、北畠顕家などの有力武士が相次いで討死、後醍醐天皇も崩御されたので、南朝方の勢力は急速に衰えていった。
そこで、後村上天皇は失った勢力を西国で回復すべく、新田義貞の弟脇屋義助を南軍の総帥として伊予にくだした。

興国三年(1342)五月、義助の一行は、塩飽水軍(佐々木信胤)の船団に護送されて、今張(筆者注:今治の語源で「いまはる」と読みます)の浦に到着した。
しかし義助は不運にも、その直後に病に斃れ、国分寺に急逝した。享年は三十八歳であった。



この報を受けた阿波の守護細川頼春は儀助の死を好機とみて、総勢七千の大軍を率いて伊予に侵入、南朝方が最後の砦とたのむ世田・笠松城を七方から包囲した。
熾烈な攻防四十有余日。南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら十七士は山中で壮烈な自刃を遂げた。


現在の義助公の廟堂は寛文九年(1669)今治藩士町野政貞らが再建したものである。
また廟堂の脇には、今治藩の儒学者佐伯惟忠が建てた表忠碑があり、貝原益軒の讃文を刻んでいる。
今治市教育委員会」

ここが墓です。拝殿の真裏です。

こんなのが墓前に供えられていました。大河ドラマか何かで、脇屋義助を演じた役者だと思います。

手を合わせます。遠く鎌倉時代末期の人です。

 

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