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長崎の原爆、あの日は…

2011年08月09日 07時11分04秒 | Weblog
1945年8月9日(何曜日だったのだろう?)晴れ、この日気がついたら長崎・西山の川原に妹と二人でいました。5歳と3歳の二人です。水の少ない川の真ん中辺りでは馬方さんが一仕事終えた馬を洗ってやっていました。のんびりした光景でした。
ふと、1機の飛行機の爆音に気づくました。それもだんだん近く低く大きくなってくるように感じました。気味が悪くなって妹に「帰ろう」と手を引きました。川原から上の道に上がっても妹はまだ遊びたがって馬方さんの馬力クルマに上ったりしてなかなか前に進みません。なんだかいよいよ不安になってきて手を引いて急ぎました。道を急ぐ耳にその飛行機がすさまじい音とともに高く遠くに去っていくのも感じました(原爆が投下された!)。
我が家は道から10段ほど石段を下りたところが入り口。やっとこさで下りて「ただいま…」といった瞬間裏庭の草木がピカーッとまっ黄色に光ってガラガラビシャーンとカベやらふすまが倒れてきました。その直前に「あんたたち!こっちにきなさい!!」と叫ぶ母の声で襟首をつかまれて土間から引き上げられ、アタマから布団を掛けられていました。
夕方近く、みんなげんきかあ~と力のない声で父が帰ってきたように思います。その父は今から思えば原爆の落ちたその数時間あとの地を、てくてくと歩いて帰ってきたわけで、多分そのときの放射線でひと月近く地獄の苦しみの中で逝きました。
父のなきがらは家からすこし歩いたところの今の児童公園のような広場でトタンをかぶせて焼かれました。広場の四隅にはそれぞれ同じような煙がありました。
それにしてもあの川原で5歳の男の子にB29の爆音を誰が気づかせてくれたのか、それもだんだん大きく、低くなってきてることを…。遠くにいた父なのか、0歳の子に乳を含ませていた母なのか、それとも…。
平和になったはずのその後も、日本であった放射能事故のたびにあの頃のことが生々しくよみがえってきます。被害に会った人の苦しみはわが父とまったく同じです。その人たちのためにもできるだけ生きなければ、と念じています。

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