アマスポホームページ http://www.amsp.1583.com

アマスポは大阪堺市の町のスポーツのベンチャー的活動です。スポーツ経験のない人や楽しみでスポーツしたい人も参加できます。

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バレー、バスケのナイター練習会はつづけます

2011年08月29日 18時56分47秒 | Weblog
アマスポ活動のうち、夜のバレーやバスケの練習会は赤字の筆頭格なのです。夜は中学校などの体育館が一般に利用が開放されているので、それをほぼ無料で使えるためにわざわざお金を出してアマスポの練習会に来る人はないからです。
しかしそれでもアマスポのそれしか練習に参加できないという人たちもいて、まさに太っ腹で現在も続けています。でもやはり赤字はいけないので、なんとかしなければ…と考えたらどうしても回数を減らしたりやめたらどうなの?という誘惑に駆られます。
そんなわけで心を鬼にして「9月から夜のバレーの練習会はやめます!」と仲間に宣言したのですが、案の定、9月からはどこに行こうかなあ、やはりなくなるのですかあ?困ったなあ…。
こんな声にはホントに弱くて「だつたら体育館が空いてるか調べてごらん」となって「あいてます、どうしますか?」となって「ほんとにつかうのか?」「はい、やります」となって「じゃやるか!」で、9月からもバレーは続けます。しかもバスケとは独立して美原BGでバレーはフルコートです。
内心の計画では、まずバレーの夜の練習は美原のそれをやめて臨海スポーツだけにして、その次は美原のバスケもやめて、そして来年は臨海スポーツのそれもやめて、そしたらお金も時間もうんと楽になれて、そうしたらあちらこちらに遊びにもいけて…というはずでした。ああ、それなのにそれなのに、ふたを開けたら以前にも増してきびしい道に進むことになってしまいました。
バレーもバスケもそれぞれフルコートで使えます。その日来たメンバーを組み分けして試合をして楽しみましょう。きっときっときてくださいね!
練習日程はアマスポのホームページをご覧下さい。簡単にリンクさせられるのですよ、と教えてもらいましたがでもできません。ごめんどうですが入力してください。
http://www.sakai.zaq.ne.jp/duarr309

この夏、花は咲かず。でもこれから…

2011年08月25日 07時03分25秒 | Weblog
この夏は、狭い我が家の庭にはサルスベリやネムの木、タマスダレにハナミョウガが夏中咲き誇るはずでした。昨冬からかなり手入れをしたつもりでしたから…。ところが梅雨が明けてもどなたも花を付ける気配がなく、これは覆いかぶさるビワの木のせいだと判断してビワの木もベランダの高さでばっさり伐りました。…なのにダメ。
期待していた赤の百日紅は一番先に芽を出しながら途中で枯れてしまい、それでもだめでもともとと、鉢植えにしていたら枝の途中から芽を吹き出して感激しました。ところがその芽もやがて枯れてしまい、引っこ抜こうかと思っていたら今度は根元から芽が出てきました。それよりも毎年花がついてはうどん粉病でしおれていた古参の百日紅が、ことしは何を思ったのかひっそりと咲き続けました。白のサルスベリだけは期待通りにたくさん花をつけています。ねむの木もひょろひょろと伸びた枝を切り詰めてみたら葉のワキからつぼみらしいのが出てきたので「ひょっとしたら…」です。
期待していたことは不発に終わり、気にもかけていないのが花を付け、しかし不機嫌だった花々もあきらめずに期待をかけ続けていたらそれなりに芽が出てくる…。なんだかこれまでのアマスポ活動を思い起こさせてくれているようで暗示的で、そして希望が感じられます。
アマスポの練習会で楽しそうに語らってる皆さんをみていると、よかったなあ、と思う半面、こんなことだけでよかったのだろうか…、もっとほかに…と思うことも多いですが、そこに「さあ、これから帰って晩ご飯を作って、それからっと…」という声にはっとわれに返って、こちらは「さあこれから帰って明日の行事の用意をして…」です。
ネムが花をつけてくれたらこの夏、バンザイです。


きのうのアマスポ・6人制バレーはにぎやかでした

2011年08月21日 18時30分05秒 | Weblog
昨日の6人制オープン大会は楽しいものでした。どなたかがPRしてくださったのでしょう、豊中市とかの遠いところの若者も参加して、ミックスの部はわずか4チームなのにずいぶんかさ高い感じでBG体育館は狭い狭い。時間が半日だったこともあって変則的な総当りリーグでしたがまずまずの雰囲気でほっとしました。ちなみにネットは2メートル24でしました。(男子諸君もやっと24センチのネットでていこうなくするようになったのですね。これまでは43センチなんて高すぎましたから。反面女性はとなりの女性の部を気にしながら「ネットは何センチなのですか?」)。
6人制ともなると、年齢的に若い人たちのバレーで、しかも当方はもう長い間6人制からは遠ざかっているので若い人たちに受け入れてもらえるのかどうか、大いに不安なのです。いまさら「オレも若いころは…」なんていったら笑いものですから、ひたすら彼らの表情を観察して、楽しそうか、足りているか、リピートしてもらえるか、を見ておりました。体育館の守衛さんが「きょうは人数は少ないのにクルマが多いのでびっくりしました」。若い人たちの行動パターンはこうなのですね。
一方、もう一面のコートでは女性の部の6人制だったのですが、こちらもアマスポレディース4人バレーに来ている若いお母さんたちを中心に大いに盛り上がっていました。日頃は4人バレーの狭いコートでしているので、そこで磨いたプレーが9メートルコートでもできるかどうかが今の課題なのですが、だいじょうぶ!これから大いに楽しめます。
途中から見学に来た人が「わあ、○チャンがあんなに上手になってる!」「△ちゃんもやってる!いつのまにあんなにうまくなったの!」とおどろいていましたが、ほんとにそうなんです、4人バレーの上達効果は抜群です。4人バレーのうまさが9人や6人バレーにも通じるとしたらビギナーバレー(リハビリバレーにも?)としての活用も大いに期待できるので、バレーの日常活動として定着できるのではないか、そんな期待のもてる一日でした。
次はいま9人バレーをしている人たちのトレーニングとしても効果的かどうかのテストをします。バレーボールの人数的な難しさ、コートの広さ的なハードルの高さ、密度の低いボールにふれる回数、などを4人バレーは解決してくれるので楽しみです。
4人バレーとはアマスポの造語で、ソフトバレー(バドミントンコートの大きさ)をボールだけ4号球でする、というものです。

アマスポシンブン、復活させたいなあ…

2011年08月16日 21時09分26秒 | Weblog
ことしも孫の男の子たち5人とともに徳島県の竹ノ島というところにいってきました。もう「行ってきた」ではなく「連れて行ってもらった」というべきですが、総勢11人のドライブでした。徳島県といってももうすぐとなりが高知県、外海に面した美しい海でした。
いつもの年のように朝は早く起きて漁村のあちらこちらを散歩したのですが、老人に出会ったらあいさつをしてそれから潮の流れや生き物の様子などを教えてもらい、今日一日孫たちの泳ぐところを決めます。ことしは2週間ほど前にあの迷走台風が直撃した影響で「やっと浪が収まってきたところや」ということでした。
その老人から自分は聞けなかったのですが、あとからきたわが女性たちにはその漁村のむかしの話を語ってくれたそうです。きれいな熱帯性の魚がいたが、それが高く売れると知ってどこからか人がやってきてとりつくしてしまったとか、冬はプランクトンが少ないからもっと水がきれいだとか…。
遊覧船が日に何回か出て行くのですが、大型のマグロ船の基地にもなっているが、いまは1艘も見えないから遠洋にマグロを追って出ているのでしょう。ところでどのあたりまでいくと思いますか?南の海には赤道が通っていますがそこのミクロネシアというところまで行くのです。1年ほども帰ってこない船もあります、とはガイドさんの話を三べん聞いて覚えました。
かつて毎年いっていた城之崎の田久日(たくい)という漁村の漁師さんも「若いころはむこうのソ連のすぐ近くまでいったもんや」と話してくれましたが、このような人や、その話しは知らない土地の人たちだけでなく、私たちのすぐそばにいる人たちにもたくさんあるはずです。アマスポ活動が「名もない私たちが固有名詞で呼ばれ活躍できるところ」としたら、スポーツをしない、できない、ひとたちにも登場できるもうひとつのアマスポ活動があってもいいなあ、そんな活動もつくりたいなあ、思います。
かつてはアマスポ新聞というのがあって、名前の知らない町のヒーロー、ヒロインが紙面に数多く登場されていました。そのシンブンはいまは制作技術を絶やさないように形ばかりのものは作っていますが、これをそろそろ復活させるときではないだろうか、とスタッフで話し合っています。時間や労力、それに資金繰りを思い起こすと意気込みが萎えそうになりますが、ひとつやってみようか!とカラ元気です。
前にも書きましたが「これがうちのおばあちゃんで~す。いまはもうベッドの中ですが、若いときはそれはそれはよくはたらいたんですよ。この写真がその頃のおばあちゃんです。きれいでしょ!」といったようなお話がたくさん載ってるシンブン、どうでしょうか?
シンブンクラブというのを作って参加したい人を募って、それから…それから…?、どこからはじめたらいいのでしょうね。
でもやりたいなあ、と話しています。

昨日はアマスポ・レディースバドミントン大会でした

2011年08月10日 06時49分58秒 | Weblog
昨日はアマスポのレディースバドミントン大会、体育館は暑い暑い臨海スポーツセンターです。それ以前に「8月はおやすみネ」といってられ方が多かったので「果たして8月は参加があるのか…」と心配していたのです。案の定、前日になっても申し込みはパラパラ、やっぱりダメか、申し込んできた人にお断りをするタイミングはいつがいいか、なんてことをアレコレ考えながら大会の準備にかかっていたのですが、結果的に13チームの参加、ここ3ヶ月は10チームぐらいだったので驚きでした。
いつものように10試合リーグをしました。1セットゲームを2ゲームで1試合、それを10試合するので4人参加のチームでもひとり10セットはします。3人チームの人は15セット平均、「8月に3人で参加はやっぱりきつい…」といいながらも試合が終わるたびに着替えに走って楽しむ風でした。
アマスポバドミントンは大会とはいっても、皆さんからは「ゲームの練習ができる大会」と位置づけられていて参加目的も年令や体力、仕事・生活環境に合わせてさまざまです。昨日はゲームの合間に「アマスポ大会はもう何年になるんですか?」という話もありました。最初は1988年6月、泉北タウンのKさんのアドバイスを受けながらのスタートでした。5,6年経過した頃臨海スポーツが改修工事で2年間閉まった後、参加人数は減りましたが「ビジターに優しく、ベテランにはライフワーク的な大会」へと変化しつつあります。
この日ももう中堅レベルになった若い女性から「ワタシ、すこしはマシになったでしょ」とニコニコと話しかけられて「あのころはとても続けられる人には見えなかったのになあ…」とうれしくなりました。
10時過ぎにゲーム開始、午前中の5試合の成績で午後から成績だけはA、Bブロックにわけてつづきの5試合をし、それぞれの1,2位を表彰して3時半に終了しました。お昼前から参加した人、お昼過ぎに「もうこどもが帰ってくるので…」と急いで帰る人、それぞれの自分に合わせての参加でした。
この日は「シャトルは(高いので)第3メーカーのものでもいいのでは?」と提案がありました。老舗メーカーには聞き捨てならない禁句ですが、「シャトルは○○メーカーの△△でないと…」というこれまでの反応と違って「安いのでもいいのはあるからねえ」ということでした。いわゆる練習球もいいのでは?という意見でした。ばらつくといけないから商品名で決めてほしい、という意見もありましたが、ネット購入などさまざまな方法があるようなので商品名子弟は出来ないまでも、その方向で決めたいと考えています。
アマスポレディースバドミントンは、進行時間や体力などに合わせて1セットゲームを沢山します。「これから」の人にはゲーム経験を積むのに最適です。ベテランの皆さんはライフワークとして若い人たちのリーダーをかねて参加されています。登録して参加するレギュラー参加と、そうでないビジター参加も出来ます。参加をお待ちしています。

長崎の原爆、あの日は…

2011年08月09日 07時11分04秒 | Weblog
1945年8月9日(何曜日だったのだろう?)晴れ、この日気がついたら長崎・西山の川原に妹と二人でいました。5歳と3歳の二人です。水の少ない川の真ん中辺りでは馬方さんが一仕事終えた馬を洗ってやっていました。のんびりした光景でした。
ふと、1機の飛行機の爆音に気づくました。それもだんだん近く低く大きくなってくるように感じました。気味が悪くなって妹に「帰ろう」と手を引きました。川原から上の道に上がっても妹はまだ遊びたがって馬方さんの馬力クルマに上ったりしてなかなか前に進みません。なんだかいよいよ不安になってきて手を引いて急ぎました。道を急ぐ耳にその飛行機がすさまじい音とともに高く遠くに去っていくのも感じました(原爆が投下された!)。
我が家は道から10段ほど石段を下りたところが入り口。やっとこさで下りて「ただいま…」といった瞬間裏庭の草木がピカーッとまっ黄色に光ってガラガラビシャーンとカベやらふすまが倒れてきました。その直前に「あんたたち!こっちにきなさい!!」と叫ぶ母の声で襟首をつかまれて土間から引き上げられ、アタマから布団を掛けられていました。
夕方近く、みんなげんきかあ~と力のない声で父が帰ってきたように思います。その父は今から思えば原爆の落ちたその数時間あとの地を、てくてくと歩いて帰ってきたわけで、多分そのときの放射線でひと月近く地獄の苦しみの中で逝きました。
父のなきがらは家からすこし歩いたところの今の児童公園のような広場でトタンをかぶせて焼かれました。広場の四隅にはそれぞれ同じような煙がありました。
それにしてもあの川原で5歳の男の子にB29の爆音を誰が気づかせてくれたのか、それもだんだん大きく、低くなってきてることを…。遠くにいた父なのか、0歳の子に乳を含ませていた母なのか、それとも…。
平和になったはずのその後も、日本であった放射能事故のたびにあの頃のことが生々しくよみがえってきます。被害に会った人の苦しみはわが父とまったく同じです。その人たちのためにもできるだけ生きなければ、と念じています。