雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「第2部 戦後編 47 入院」
そのうちに家内は徘徊を始めるようになり、一時も目が離せなくなった。玄関に施錠し、窓は鍵を閉めて、家内につきっきりでいなくてはならなくなった。錠を外して出て行かぬとも限らないからである。
しかし、閉じ込めておくだけでは解決できないので、一緒に散歩に出るが、歩きながら
「ここは、主人と前に来たことがある」と、私を他人のように言う。
帰って来ると、私の家ではないと入ろうとしない。馬鹿力があって、いくら引っ張ってもびくともしない。
「じゃあ、お前の家に帰るから、着物を替えて行こう」と言うと、おとなしく家へ入る。
夜、ふと目をさますと家内がいない。玄関の方でガタガタ音がしている。「しまった」。
ちょうど息子の車が玄関の出口をふさぐように停めてあったので、家内は出られずうろうろしていた。外は雨が降っていた。出られれば雨に濡れてでも飛び出していってしまうのであろうか。ある時は、夜半真暗な食堂の戸棚の陰にじっと、突っ立っていたこともあった。私もだんだんいらだって来て眠れず、酒の量が増えてきた。
次男の嫁さんが世話をして、介護のデイ・サービスや、ショート・ステイに行くようになったが、家内は、迎えのマイクロ・バスに乗る時、次男の嫁さんに向って「私を騙したわね」と言っていた。
まだ正気な状態を見せる時もあり、自分の病気の悪いところは、「頭だ」とちゃんと指摘することを思うと、私もどうなっているんだろうと分からなくなってしまう。
平成七年の二月、聖隷住吉病院でM・R・I(磁気画像診断)を受診した。
両側大脳に若干量の梗塞巣が見られ、また、若干の萎縮が見られるから、血管性痴呆が発症している可能性は指摘できるが、梗塞巣はそれ程著しいものではないので、アルツハイマー病でも差し支えない。甚だ、はっきりしない診断であるが、血管性にせよ、アルツハイマーにせよ痴呆には変わりはない。
次男の嫁さんの在宅介護も、保育園の園長の仕事の合間を見てのことで、三月に入ると卒園式など手が抜けなくなる。園児の母親で某病院の婦長をしている方の紹介で、家の近くの天王町の天王病院に入院することが出来た。
平成七年の三月十五日であった。平成十六年の三月で十年目になる。日数では三千三百日余である。途中大腿骨骨折などがあって、手術して寝たきりになってしまった。食事も自分では食べられず、流動食である。平成十年は金婚式であったが、式をあげることが出来ず、痛恨の一言に尽きる。
( Ⅱー48 巣鴨拘置所」に続く )
そのうちに家内は徘徊を始めるようになり、一時も目が離せなくなった。玄関に施錠し、窓は鍵を閉めて、家内につきっきりでいなくてはならなくなった。錠を外して出て行かぬとも限らないからである。
しかし、閉じ込めておくだけでは解決できないので、一緒に散歩に出るが、歩きながら
「ここは、主人と前に来たことがある」と、私を他人のように言う。
帰って来ると、私の家ではないと入ろうとしない。馬鹿力があって、いくら引っ張ってもびくともしない。
「じゃあ、お前の家に帰るから、着物を替えて行こう」と言うと、おとなしく家へ入る。
夜、ふと目をさますと家内がいない。玄関の方でガタガタ音がしている。「しまった」。
ちょうど息子の車が玄関の出口をふさぐように停めてあったので、家内は出られずうろうろしていた。外は雨が降っていた。出られれば雨に濡れてでも飛び出していってしまうのであろうか。ある時は、夜半真暗な食堂の戸棚の陰にじっと、突っ立っていたこともあった。私もだんだんいらだって来て眠れず、酒の量が増えてきた。
次男の嫁さんが世話をして、介護のデイ・サービスや、ショート・ステイに行くようになったが、家内は、迎えのマイクロ・バスに乗る時、次男の嫁さんに向って「私を騙したわね」と言っていた。
まだ正気な状態を見せる時もあり、自分の病気の悪いところは、「頭だ」とちゃんと指摘することを思うと、私もどうなっているんだろうと分からなくなってしまう。
平成七年の二月、聖隷住吉病院でM・R・I(磁気画像診断)を受診した。
両側大脳に若干量の梗塞巣が見られ、また、若干の萎縮が見られるから、血管性痴呆が発症している可能性は指摘できるが、梗塞巣はそれ程著しいものではないので、アルツハイマー病でも差し支えない。甚だ、はっきりしない診断であるが、血管性にせよ、アルツハイマーにせよ痴呆には変わりはない。
次男の嫁さんの在宅介護も、保育園の園長の仕事の合間を見てのことで、三月に入ると卒園式など手が抜けなくなる。園児の母親で某病院の婦長をしている方の紹介で、家の近くの天王町の天王病院に入院することが出来た。
平成七年の三月十五日であった。平成十六年の三月で十年目になる。日数では三千三百日余である。途中大腿骨骨折などがあって、手術して寝たきりになってしまった。食事も自分では食べられず、流動食である。平成十年は金婚式であったが、式をあげることが出来ず、痛恨の一言に尽きる。
( Ⅱー48 巣鴨拘置所」に続く )