「戦後編 第7部 老人性痴呆 48 48 巣鴨拘置所」
名古屋の長男夫婦が、入院直後に見舞いに来たときは、まだ家内の記憶ははっきりしていて、喋ることも出来た。
「わたし、刑務所におったときねえー」
と、突然長男に話しかけた。
「おい、おい、どうなってんだ」
と長男はびっくりして私に聞いた。長男の大声に家内はそのまま口をつぐんでしまって、あとは何も言わなかったので、何を言おうとしていたのかは分からない。
「アッハッハッハッ、それは刑務所ではない。差入屋のことだろう」
家内の言った刑務所とは、地元の人たちが「巣鴨の刑務所」と呼んでいた東京拘置所のことである。明治初年に建てられた赤煉瓦造りの巣鴨の拘置所は、昭和十二年に改築されて、鉄筋コンクリート造りとなった。独房は三帖の広さで、水洗便所付きであた。窓が低く広かったが、それだけ冬は寒気が厳しく、夏は日射しが暑かった。池袋に近かったのに「巣鴨」と呼ばれたのは、地番が豊島区西巣鴨一ー三二七七だったからである。
戦後、占領軍に接収されて、戦犯が収容される「巣鴨プリズン」と変わり、「巣鴨」といえばその代名詞となった。東京裁判が終わり返還された後、昭和四十六年に解体されて、三十五年の歴史の幕を閉じた。昭和五十三年、その跡地に六十階建ての「サンシャインビル」が建設され、今の池袋の繁栄をもたらした。
拘置所の未決囚は、食物や日用品、衣類などの自弁が認められていた。ペンや鉛筆に石筆と石版は使えた。本は官本が借りられ、自分の読みたい本も許可があれば差入れが許された。封筒や便箋は使えないが、葉書は使え、週一回程度発信出来た。それらの品を家族たちの依頼によって、収監者に届けることを業としていたのが差入屋で、拘置所や刑務所には付きものであった。また、獄中で不用になったものを家族に返す(宅下げ)ことも仲介していた。両者は不即不離の関係にあった。
家内は、この巣鴨拘置所の差入屋に勤めていた。家内が言った刑務所とは差入屋のことである。
戦時中、徴用令というものがあった。徴兵の赤紙に対し白紙といわれた。不要不急の仕事に就いている者や、定職のない者が対象になった。殊に家事見習いといわれた嫁入り前の娘たちは恐慌をきたした。軍需工場などは、これら徴用された人々が過半数を占めていた。
家内は、東京本郷の菊坂(樋口一葉が明治時代に住んでいた)に生まれたが、弟妹たちは西巣鴨一ー二七六二など拘置所の近くで印刷屋を手がけていた父の家で生まれている。徴用を避けるために、近くでもあるし、伝手があったのうであろう、差入屋に勤め始めたのである。非国民といわれても仕方のない時代であったが、国民は、如何に徴兵や徴用を逃れるを真剣に考えた時代であった。
差入屋に出入りしていた人の中に、作家の宮本百合子女史がいた。夫の顕治が留置されていて裁判中だった。戦争末期の暗黒時代の裁判であるから、出廷人も裁判官、検察官の他は被告の顕治と傍聴人の百合子ぐらいであった。裁判のない日は、週一回ぐらい面会に来ていた。教養のある恰幅の良い色白の立派な姿をした婦人であるから、同じように留置されている、窃盗や闇商売の被告人の家族から慕われて、差入れの手続きや、人生相談のようなことを頼まれていた。彼等の身嗜は皆見すぼらしかった。女子の細かいところに気のつく面倒見のよい性質が、持って生まれた気質と相俟って、自然とそうなった。
家内は女子から帯止めをもらい、記念にしまってある。
第四部にも書いたが、その宮本顕治の故郷の山口県光市に、戦後私たちは住むようになって、百合子の著作物に親しむことになるとは、何か因縁を感ぜずにはいられない。
「昭和二十年六月十六日午後、私は巣鴨の東京拘置所の正門から、網走刑務所から私の身柄を受け取りに来た看守三人につれられて、池袋の駅へ歩き始めた。五月に上告審が棄却になって、無期懲役が確定して、私は空襲で周囲がすっかり焼けてしまった拘置所の監房で、懲役囚として荷札づくりの作業をやっていたが、いよいよ網走送りとなったのである」
顕治の著作の中の一部であるが、空襲ですっかり焼けてしまったという空襲は、二十年四月十三日の夜であった。三月十日の江東地区の東京大空襲に匹敵するこの空襲は、午後一一時ごろから約三時間、B29、三百三十機が豊島・王子・小石川など東京‥城北地区を襲った(六月十八日の浜松空襲は百三十機である)。その空襲を,顕治は拘置所の独房の中から見ていた。出るに出られなかったのである。
「四月にアメリカ空軍の大空襲があった。夜だった。非常措置として看守は、どんどん監房の本錠を仮錠として、すぐ扉を開けて逃げられるようにしていったが、私の監房は本錠のままだった。(この一つを見ても。戦前の国の非人間性の政策がはっきりとわかる)。爆弾は病監の一部に落ちたが、一般の建物にはそれ以上燃えひろがらなかった。しかし監房の空は、周囲の燃えひろがる火事のために、赤々と窓越しに燃えていた」
米軍は、戦後のことも考えて拘置所を残したのか、焼かれずに残ったが周りはすっかり焼けてしまった。池袋は今でこそ新宿並の繁華街となったが、戦前賑やかだったのは、駅前の映画館や呑み屋などが並ぶ一部(カフェー通りといった)のみで、そこを抜ければ、夜など歩くのもどうかと思われる程の場末の町と変わりなかった。
光子の実家の安藤家は当時、池袋にあった。空襲警報のサイレンが鳴り始めたのは、焼夷弾が落ちて燃え始めてからである。いつでも逃げられるように着のみ着のままであったが、次弟は頭に怪我をした。夜が明けてから救護所で傷の手当てを受け、にぎり飯を貰って日暮里まで歩き、避難列車で疎開先の土浦に辿り着いた。
焼ける前のことであるが、ある日、鳥打ち帽をかぶり大きな風呂敷包みを背負った和服姿の男が家内の家に入って来た。嫁入り前の娘が三人もいるから呉服屋かと思い母親が応対に出た。男が目くばせするのでよくよく見れば、家に下宿している刑務所看守のQ氏ではないか(家内の差入屋就職は、このQ氏の口利きだったのかも知れない)。事情を聞くと、逃亡者が出たので探しに行くところだという。そのための変装である。
戦争も末期になると、受刑者も工場などに動員されていた。三月十日の東京大空襲の時には、百四十名の受刑者によって死体処理作業班が結成されて、警官・軍隊・警防団と共に死体処理作業に従事した程である。受刑者も外へ出て働くことが多くなったので、逃亡し易い環境になっていた。
Q氏は、戦後浜松刑務所に転属となり、私たちが昭和二十三年五月に、孝男叔父夫婦の媒酌により、八幡宮で式を挙げた時、家内は両親と共に、そのQ氏の官舎に厄介になったという因縁もある。
先日、その結婚式の写真を家内に見せたところ、花嫁衣装の自分自身は「わたし」と頷いたが、羽織袴姿の私については「誰だか知らない」と言った。
( 「戦後編 49 ガンの発覚(第8部 前立腺ガン)」に続く )
名古屋の長男夫婦が、入院直後に見舞いに来たときは、まだ家内の記憶ははっきりしていて、喋ることも出来た。
「わたし、刑務所におったときねえー」
と、突然長男に話しかけた。
「おい、おい、どうなってんだ」
と長男はびっくりして私に聞いた。長男の大声に家内はそのまま口をつぐんでしまって、あとは何も言わなかったので、何を言おうとしていたのかは分からない。
「アッハッハッハッ、それは刑務所ではない。差入屋のことだろう」
家内の言った刑務所とは、地元の人たちが「巣鴨の刑務所」と呼んでいた東京拘置所のことである。明治初年に建てられた赤煉瓦造りの巣鴨の拘置所は、昭和十二年に改築されて、鉄筋コンクリート造りとなった。独房は三帖の広さで、水洗便所付きであた。窓が低く広かったが、それだけ冬は寒気が厳しく、夏は日射しが暑かった。池袋に近かったのに「巣鴨」と呼ばれたのは、地番が豊島区西巣鴨一ー三二七七だったからである。
戦後、占領軍に接収されて、戦犯が収容される「巣鴨プリズン」と変わり、「巣鴨」といえばその代名詞となった。東京裁判が終わり返還された後、昭和四十六年に解体されて、三十五年の歴史の幕を閉じた。昭和五十三年、その跡地に六十階建ての「サンシャインビル」が建設され、今の池袋の繁栄をもたらした。
拘置所の未決囚は、食物や日用品、衣類などの自弁が認められていた。ペンや鉛筆に石筆と石版は使えた。本は官本が借りられ、自分の読みたい本も許可があれば差入れが許された。封筒や便箋は使えないが、葉書は使え、週一回程度発信出来た。それらの品を家族たちの依頼によって、収監者に届けることを業としていたのが差入屋で、拘置所や刑務所には付きものであった。また、獄中で不用になったものを家族に返す(宅下げ)ことも仲介していた。両者は不即不離の関係にあった。
家内は、この巣鴨拘置所の差入屋に勤めていた。家内が言った刑務所とは差入屋のことである。
戦時中、徴用令というものがあった。徴兵の赤紙に対し白紙といわれた。不要不急の仕事に就いている者や、定職のない者が対象になった。殊に家事見習いといわれた嫁入り前の娘たちは恐慌をきたした。軍需工場などは、これら徴用された人々が過半数を占めていた。
家内は、東京本郷の菊坂(樋口一葉が明治時代に住んでいた)に生まれたが、弟妹たちは西巣鴨一ー二七六二など拘置所の近くで印刷屋を手がけていた父の家で生まれている。徴用を避けるために、近くでもあるし、伝手があったのうであろう、差入屋に勤め始めたのである。非国民といわれても仕方のない時代であったが、国民は、如何に徴兵や徴用を逃れるを真剣に考えた時代であった。
差入屋に出入りしていた人の中に、作家の宮本百合子女史がいた。夫の顕治が留置されていて裁判中だった。戦争末期の暗黒時代の裁判であるから、出廷人も裁判官、検察官の他は被告の顕治と傍聴人の百合子ぐらいであった。裁判のない日は、週一回ぐらい面会に来ていた。教養のある恰幅の良い色白の立派な姿をした婦人であるから、同じように留置されている、窃盗や闇商売の被告人の家族から慕われて、差入れの手続きや、人生相談のようなことを頼まれていた。彼等の身嗜は皆見すぼらしかった。女子の細かいところに気のつく面倒見のよい性質が、持って生まれた気質と相俟って、自然とそうなった。
家内は女子から帯止めをもらい、記念にしまってある。
第四部にも書いたが、その宮本顕治の故郷の山口県光市に、戦後私たちは住むようになって、百合子の著作物に親しむことになるとは、何か因縁を感ぜずにはいられない。
「昭和二十年六月十六日午後、私は巣鴨の東京拘置所の正門から、網走刑務所から私の身柄を受け取りに来た看守三人につれられて、池袋の駅へ歩き始めた。五月に上告審が棄却になって、無期懲役が確定して、私は空襲で周囲がすっかり焼けてしまった拘置所の監房で、懲役囚として荷札づくりの作業をやっていたが、いよいよ網走送りとなったのである」
顕治の著作の中の一部であるが、空襲ですっかり焼けてしまったという空襲は、二十年四月十三日の夜であった。三月十日の江東地区の東京大空襲に匹敵するこの空襲は、午後一一時ごろから約三時間、B29、三百三十機が豊島・王子・小石川など東京‥城北地区を襲った(六月十八日の浜松空襲は百三十機である)。その空襲を,顕治は拘置所の独房の中から見ていた。出るに出られなかったのである。
「四月にアメリカ空軍の大空襲があった。夜だった。非常措置として看守は、どんどん監房の本錠を仮錠として、すぐ扉を開けて逃げられるようにしていったが、私の監房は本錠のままだった。(この一つを見ても。戦前の国の非人間性の政策がはっきりとわかる)。爆弾は病監の一部に落ちたが、一般の建物にはそれ以上燃えひろがらなかった。しかし監房の空は、周囲の燃えひろがる火事のために、赤々と窓越しに燃えていた」
米軍は、戦後のことも考えて拘置所を残したのか、焼かれずに残ったが周りはすっかり焼けてしまった。池袋は今でこそ新宿並の繁華街となったが、戦前賑やかだったのは、駅前の映画館や呑み屋などが並ぶ一部(カフェー通りといった)のみで、そこを抜ければ、夜など歩くのもどうかと思われる程の場末の町と変わりなかった。
光子の実家の安藤家は当時、池袋にあった。空襲警報のサイレンが鳴り始めたのは、焼夷弾が落ちて燃え始めてからである。いつでも逃げられるように着のみ着のままであったが、次弟は頭に怪我をした。夜が明けてから救護所で傷の手当てを受け、にぎり飯を貰って日暮里まで歩き、避難列車で疎開先の土浦に辿り着いた。
焼ける前のことであるが、ある日、鳥打ち帽をかぶり大きな風呂敷包みを背負った和服姿の男が家内の家に入って来た。嫁入り前の娘が三人もいるから呉服屋かと思い母親が応対に出た。男が目くばせするのでよくよく見れば、家に下宿している刑務所看守のQ氏ではないか(家内の差入屋就職は、このQ氏の口利きだったのかも知れない)。事情を聞くと、逃亡者が出たので探しに行くところだという。そのための変装である。
戦争も末期になると、受刑者も工場などに動員されていた。三月十日の東京大空襲の時には、百四十名の受刑者によって死体処理作業班が結成されて、警官・軍隊・警防団と共に死体処理作業に従事した程である。受刑者も外へ出て働くことが多くなったので、逃亡し易い環境になっていた。
Q氏は、戦後浜松刑務所に転属となり、私たちが昭和二十三年五月に、孝男叔父夫婦の媒酌により、八幡宮で式を挙げた時、家内は両親と共に、そのQ氏の官舎に厄介になったという因縁もある。
先日、その結婚式の写真を家内に見せたところ、花嫁衣装の自分自身は「わたし」と頷いたが、羽織袴姿の私については「誰だか知らない」と言った。
( 「戦後編 49 ガンの発覚(第8部 前立腺ガン)」に続く )