雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「第2部 戦後編 47 入院」

2016年02月14日 15時59分20秒 | お知らせ
雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』「第2部 戦後編 47 入院」


 そのうちに家内は徘徊を始めるようになり、一時も目が離せなくなった。玄関に施錠し、窓は鍵を閉めて、家内につきっきりでいなくてはならなくなった。錠を外して出て行かぬとも限らないからである。

 しかし、閉じ込めておくだけでは解決できないので、一緒に散歩に出るが、歩きながら
 「ここは、主人と前に来たことがある」と、私を他人のように言う。

 帰って来ると、私の家ではないと入ろうとしない。馬鹿力があって、いくら引っ張ってもびくともしない。
 「じゃあ、お前の家に帰るから、着物を替えて行こう」と言うと、おとなしく家へ入る。

 夜、ふと目をさますと家内がいない。玄関の方でガタガタ音がしている。「しまった」。

 ちょうど息子の車が玄関の出口をふさぐように停めてあったので、家内は出られずうろうろしていた。外は雨が降っていた。出られれば雨に濡れてでも飛び出していってしまうのであろうか。ある時は、夜半真暗な食堂の戸棚の陰にじっと、突っ立っていたこともあった。私もだんだんいらだって来て眠れず、酒の量が増えてきた。

 次男の嫁さんが世話をして、介護のデイ・サービスや、ショート・ステイに行くようになったが、家内は、迎えのマイクロ・バスに乗る時、次男の嫁さんに向って「私を騙したわね」と言っていた。

 まだ正気な状態を見せる時もあり、自分の病気の悪いところは、「頭だ」とちゃんと指摘することを思うと、私もどうなっているんだろうと分からなくなってしまう。

 平成七年の二月、聖隷住吉病院でM・R・I(磁気画像診断)を受診した。

 両側大脳に若干量の梗塞巣が見られ、また、若干の萎縮が見られるから、血管性痴呆が発症している可能性は指摘できるが、梗塞巣はそれ程著しいものではないので、アルツハイマー病でも差し支えない。甚だ、はっきりしない診断であるが、血管性にせよ、アルツハイマーにせよ痴呆には変わりはない。

 次男の嫁さんの在宅介護も、保育園の園長の仕事の合間を見てのことで、三月に入ると卒園式など手が抜けなくなる。園児の母親で某病院の婦長をしている方の紹介で、家の近くの天王町の天王病院に入院することが出来た。

 平成七年の三月十五日であった。平成十六年の三月で十年目になる。日数では三千三百日余である。途中大腿骨骨折などがあって、手術して寝たきりになってしまった。食事も自分では食べられず、流動食である。平成十年は金婚式であったが、式をあげることが出来ず、痛恨の一言に尽きる。

 ( Ⅱー48 巣鴨拘置所」に続く )

雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』 Ⅱ 戦後編 46 一番はじめは

2016年02月14日 15時42分37秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の歴史 父の自伝『落葉松』 Ⅱ 戦後編 46 一番はじめは


 「ねえ、あしたは家へ帰りませんか?」
 寝ていた家内が、突然むっくり起きあがって布団の上にかしこまって言った。
 「家へ帰る?」

 「ええ、私の家よ。ここは借りてるんでしょ?」
 「借りてる?ここは俺たちの家だよ」
 「誰が建てたのよ」
 「俺に決まっているじゃないか」
 「そんなこと、わたし一度も聞いたことないわ」
 「地鎮祭から建前、みんなお前と一緒に来たじゃないか」
 「わたし、何も知らないわ。わたしに黙ってやったのね、わたしは騙されたのかしら。新築にしては古いわね、中古を買ったのかしら」

 私は二の句がつげなかった。この夜更けに家内と言い争っても仕方ない。
 「うん、よしよし、あした帰ろうね。送っていってあげるから、今夜はもう寝よう」
 「あした送っていってくれますか。それはどうも済みません」

 あした帰るという言葉に安心したか、家内は寝床に入って眠ってしまうが、朝起きれば、昨夜のことは何もなかったような顔をしている。家内が帰りたいという言葉は、前に住んでいた松城町の家のことである。新しく引越してきた家に馴染めず、三十年以上住んでいた前の家が忘れられないのであろう。

 「ねえ、今夜帰れないかしら。わたし電話をかけてみるわ。主人が心配して待ってるかも知れないから」
 「電話?番号はわかるのか」
 「ええ、五二局の八九三九番よ」
 前の家の電話番号をちゃんと覚えているのには驚いた。しかし、今の新しい番号はわからない。私は居間へ行って、電話をかけたようなふりをして戻った。

 「いくら電話をかけても出ないよ」
 「どうしたのかしら、どこへ行ってしまったのかしら・・・・」
 心配して待っているという相手は、家内の夫、即ち私のことである。
 「お前の旦那はこの俺だよ」
 「うそ言ってー」
 「じゃあ、この俺は誰なのだ。敏雄は元気かな。この前の法事の時、一晩厄介になったが松雄、京子、昭子みんなお前の弟妹は元気だろうか」
 「え?敏雄をご存じなんですか?どうして私の弟や妹を知ってらっしゃるのですか?」
 「知らない筈はないじゃないか。俺はお前の旦那だよ。俺とお前は夫婦じゃないか」
 家内は不思議そうに私を見つめていたが、「分からない」と寂しそうにひとことつぶやいた。
 私は私であって、私でない奇妙なことになってしまった。



 玄関を出ると、隣のブロック塀越しに金木犀がよい匂いを放って、秋も深まってきた。電話で予約しておいた医療センターでの診察の日である。地方の予約治療で有名な、K先生の診断を受けるためである。医療センターは四〇年前、私の母の最後を家内が看取った病院である。その家内を連れて、私と次男の嫁の三人でタクシーで出かけた。

 頭部のC・T検査のあと、別室でカウンセラーと机をはさんで、質問検査があった。私と次男の嫁は、補助椅子にかけてその模様を眺めていた。

 最初に名前を訊かれた。白い紙に自分の名前を書いたが、斜めになっていてはっきりと読めなかった。
 「あなたはどこで生まれましたか?」
 「東京です」
 「東京、東京のどちらですか?」

 家内は考えていたが、すぐには出てこず、しばらくして「菊坂」と言いかけたので、私が「本郷の菊坂です」と助け舟を出して、アッ、いけなかったかと後悔した。
 「ここの病院の名前はわかりますか?」
 「分りません」
 「お家の方に聞いてきませんでしたか?」

 私は、医療センターに行く予定と家内に教えておいたが、余り警戒心を持たせてはいけないと思って、何度も言わなかった。
 「ここは何県何市ですか?」
 浜松市は分ったが、静岡県は分らなかった。
 「あなたの具合の悪いところは?」
 家内は、瞬発的に、間を置かずに
 「頭です」と言った。

 瞬間、私は胸に冷たい刃物を突きさされたようにドキリとした。家内はなんら変わりなく、平静な顔をしていた。
 なんだ、ちゃんと分かっているじゃないか。それなのにどうして私をあわてさせるようなことを言うのだろう。
 最後にK先生の診断があった。先生は、お手玉二つを家内に渡して「お手玉はやったことがあるでしょう、ちょっとやってみてごらん」と言った。
 お手玉は夏休みに孫娘とやっていたが、先生の前では緊張したのかうまくできなかった。

 総合結果は八点で、十点以下は重度の
痴呆で、もう後期に入っていて、施設への入居を考えた方がよいという。私はまだそんなに進んでいるとは思ってもいなかったのでショックであった。三才ぐらいの知能程度であるという。

 その日の夜は、疲れていたがなかなか寝つかれなかった。家内も、うとうとしているようであったが、何か口の中でモグモグ、お経のようなものを口ずさんでいるようであった。私は聞こえる左耳をそばだてて聞いてみると、それはお手玉遊びの「数え唄」であった。昼間の診察の時、K先生より渡されたお手玉がうまく出来なかったのを気に病んでいるに違いなかった。

  一番はじめは 一の宮
二は     日光東照宮
三は     佐倉の宗五郎
四はまた   信濃の善光寺
五つは    出雲の大社
六つ     村々鎮守様
七つ     成田の不動さん
八つ     八幡の八幡宮
九つ     高野の高野山
十で     処(ところ)の氏神さん・・

 最後の方は、もう聞こえなかった。

 ( 「Ⅱー47 入院」に続く )