雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

遠州古代史 新・寺社古墳巡り 2 浜松市浜北区高畑の八雲神社 

2016年02月08日 17時47分01秒 | 遠州古代史
遠州古代史 新・寺社古墳巡り 2 浜松市浜北区高畑の八雲神社

 高畑の宝住院のすぐ東に接するのが八雲神社です。

 明治維新政府の「神仏分離(廃仏毀釈)」で独立したのでしょうか。ただし浜松では「廃仏」はせず、隣りあわせに「神様」と「仏様」が同居しているところは多いです。

 「八雲」ですから、名称からは出雲系統ですが。主神が誰かは分かりません。

 神社は、ほぼ南向き(計測器を持っていかなかったので)


 

 。
 

雨宮日記 2月7日(月) 桜は何の象徴か

2016年02月08日 16時40分34秒 | お知らせ
雨宮日記 2月7日(月) 桜は何の象徴か

 数日前、ネットのユーチューブで「桜チャンネル」というのをやっていました。ヘリ空母「かが」(命名は大日本帝国海軍の空母「加賀」から)の進水式をやってました。

 「守るも攻めるも黒金の…」が響き、まことに異様でした。

 ところで、その日の夜、『万葉集』を読んでいて、思いついたこと。日本人の頭の中に「特攻」というと「桜散る」がイメージングされて、焼き付いているのですが。
 
 はたして『万葉集』の「桜ちる:は死を歌っているのでしょうか。もし、そうであれば「桜咲く」は生まれることを歌っていなければなりません。

 もちろん、桜が咲くことを情景的に歌う歌も大飯ですが。少なくとも、桜が散る=人が死ぬ、というのは近代の、あるいは戦争中の無理矢理解釈なのではないでしょうか。

 少し調べてみます。まず万葉集や古今和歌集の桜の歌を全部読んでみます。何かわかったら、ここに書きます。

 そろそろ桃の花がほころび始めました。春はまだ遠いのですが、春の匂いがし始めました。


雨宮家の歴史 48 「父の自伝『落葉松』 第7部 Ⅱー45 うつ病」

2016年02月08日 15時45分43秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の歴史 48 「父の自伝『落葉松』 第7部 Ⅱー45 うつ病」

 私と家内とは従兄弟(いとこ)同士である。私の父と家内の母が兄妹であった。(「第四部 34 結婚」参照)。近親結婚は遺伝に良くないといわれていたが、山口県光市で生まれた長男、次男とも名古屋の大学に行き、長男はそのまま名古屋に居すわり、私にとっては曾孫まで二人いる。

 次男夫婦は私と同居していて、二人の娘がいる。長女は松城で生まれたが、今は近くの下石田町に嫁し、三人の子持ちである。子供三人、孫七人、曾孫二人皆病気一つせず健全である。私に信仰心はないが、神に感謝する次第である。

 ただ、心配は家内だけになってきた。家内は、前の町では踊りの会に入っていた。
 「踊りでもやっったらどうだ」
 「でも、どこでやっているのか、何もわからないわ」
 「じゃあ、編物はどうだ。俺のソックスも駄目になってしまって、穿けるものはないよ」

 編物は好きで、閑さえあればいつも編棒を動かしていた。私のセーターからソックスまで家内の手作りである。最初のうち、編棒と毛糸玉を炬燵の上に並べていたので、やる気になったのかと思っていたが、なかなか手がつかなかった。
 「どうした?」
 「うん、そのうちにやるわ」
 そのうちにやるわが、そのうちに編棒も毛糸玉も炬燵の上から消えてしまった。

 「編物はおしまいか」
 「ええ、やる気がしなくなってしまったわ。それに毛糸がないのよ」
 「毛糸はこの前あったじゃないか」
 毛糸玉はビニール袋に一ぱい入っていたが、しらぬ間に段ボール箱に押し込まれて、押入れに突っ込んであった。

 頭痛がするといって家内の病院通いが始まった。血圧が二〇〇近くあった。心電図で不整脈があり、心臓のエコー検査では軽い心肥大と言われ、検査をすれば悪い所がいくらでも出て来るような気がした。CT検査でも異常がなかったので、内科的ではなかろうと半年程で精神科へ廻された。

 精神科は午後の診察で、出かける日は、朝から落ち着けなくていやなものであった。精神科の最初の診察のあと、私はおそるおそる先生に伺った。

 先生は、押し殺すような低い声で「うつ病です」と言った。精神科というので、私は最悪の場合を考えていたが、医学書を引くと、「うつ病」とは「気分が憂鬱で、何もする気がなくなり、食欲もなくなり、死にたいなどと口走るようになる」と、あった。「何もする気がなくなる」は当っている。そう言えば、一時、死にたいとも言っていて、私は聞き流していたが、この頃は何も言わなくなっていた。半年程でまた内科へ戻った。

 頭痛の始まる前の年の一月のことであった。名古屋の長男の家へ、二人で一泊で出かけた帰りのことである。名古屋の長男は、大学を出るとそのまま名古屋に就職したので、もう浜松より名古屋の生活の方が長く、すっかり名古屋弁である。私は仕事をやめると、車も必要なかろうと免許更新をしなかったので、名古屋に行くのもJRの快速電車になった。

 四両編成の快速には、トイレが一つしかついてはいない。私は必ず乗る前に用を足すが、家内は「私はいいわ」とそのままの時が多い。混んでいる時など、トイレに行くのも大変である。その時は、ちょうど前の車両にあったので良かったが「トイレに行きたい」というので連れて行って、私はすぐ席に戻った。大府当たりだと思う。

 苅谷を過ぎ安城に近づきつつあったが、まだ戻って来ない・時間にして十分くらいだったか、少し遅いなと席を立ってトイレを見に行った。「空」になっていたので、開けてみたが無人である。おかしいな、どこへ行ってしまったんだろうと思って、その車両(一番前の車両である)を前まで歩いて探したが、家内は見当たらなかった。席に戻り、どうしたらよかろうかと思案していたところ、ちょうど車掌が通りかかったので事情を話してみた。
 「車内放送をして見ましょう。それでも見えられなかったら、駅に連絡しますので、ここで待っていて下さい」

 しばらくして、家内の名前を呼ぶ放送があった。家内が果たしてこの放送を聞いて分かるかどうか疑問だったが、家内は現われなかった。しばらくして車掌が来た。家内の戻っていないのを確認して「駅に連絡します」と戻っていった。あとの祭りであったが、私は家内がトイレから出てくるのを、そばで待っていてやるべきだった。車両が違っていたから戻る席が分からなくなって、停車駅で降りる人について降りてしまったとしか考えられなかった。

 この電車は快速で、大府・刈谷・安城・岡崎に停まる。とすれば、刈谷か安城の駅で降りた可能性が高かった。私の頭は混乱して、家内が迷子ならぬ迷婆さんで、どこかの駅でうろうろしているのだろうと胸がつまった。

 岡崎駅を発車した頃、車掌がやって来て「連絡しましたところ、刈谷駅のホームに奥さんがおられたそうです。次の快速電車に刈谷駅で奥さんを乗せますから、旦那さんは浜松駅のホームで待っていてやって下さい」
 「見つかりましたか。それはどうも御手数をかけて済みません。ありがとうございました」

 私の言葉は返事にならなかったかも知れない。家内は車内でコートを脱いでいたので、身一つで財布も切符も持っていない。この寒空にホームで震えているのではないかと、車掌の「刈谷駅で見つかりました」という言葉を聞いた瞬間、不覚にも熱いものがこみあげてきて、涙があふれた。

 浜松駅の電車の着くホームで待つこと一時間、次の快速電車が着いた。どの車両に乗っているのか分らないので、又見失ってはいけないと、私は階段の近くに立っていた。ちょうどそこへ止まった電車の車両のドアから、最後に家内が降りてきた。家内は私を見たきり、何も言わずにさっさと階段を降りかけて行った「よかったなあ」と背中に言ってやった。


 (次回、「Ⅱー46 一番はじめは」に続く)



雨宮家の歴史 祖父の高畑疎開日記 2 1945年6月25日

2016年02月08日 15時32分48秒 | 雨宮家の歴史
雨宮家の歴史  祖父の高畑疎開日記 2

「 六月二十五日 晴

 寿さんも手伝い、壕を掘り出し宮坂さん*1 まで運搬す。

寿さん、高井より自転車を借り来り大いに助力せらる。

照雄*2、往路自転車、帰りは小生自転車。母少々疲れ出る。

今日はおやつに配給の大豆粉とうどん粉の焼物、夜は同じ品のスイトン*1。」


   *1 宮坂さん:不明
   *2 父の弟(ボクからは叔父さん) 
   *3 スイトン:本来は小麦粉でつくったダンゴを汁に入れて煮たものだが、大豆やうどん粉で代用している