雨宮家の歴史 24 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-22 入隊」
朝鮮第四十四部隊は平壌駅近くの東町にあり、平壌医学専門学校も近くにあった。この医専の教授だった坂田氏が親戚に当たり、一晩厄介になり、家庭の味を感じたことがある。孝男叔父の親戚というくらいで深くは知らなかったが、戦後に奥さんが孝男叔父の娘婿の姉であることを知った(「第二部 11孝男叔父」参照)。
その奥さんと部長が入隊を見送ってくれた。部隊の営門通りに出て驚いた。二月に入り、寒さのピークにもかかわらず、祝入営の幟が幾流もたなびいていて、周囲は熱気に包まれていたことだ。内地では禁止されていて、見られなくなった入隊風景である。
日本政府は昭和一七年五月八日、朝鮮籍の者に対する徴兵制実施を閣議決定した。これには朝鮮総督府は驚いた。徴兵適例者で日本語の分かる者が約三割に過ぎず、日本語のしゃべれない皇軍兵士の生まれる可能性があったからである。
朝鮮では、既に昭和13年に志願兵制度があって、在隊していた。昭和十八年秋、学徒出陣の時、法的不備により朝鮮籍学生には適用できなかった。そのため志願による徴兵ということにしたが、笛吹けど踊らずで半強制的となった。
昭和十九年一月の入隊日には、官民一体のお祭りさわぎで盛り上げた。それは昭和十九年四月の第一回徴兵検査や、入隊を円滑に行うためである。私が入隊日の朝、出会った風景は、これら第一回徴兵検査で合格して入隊する壮丁を見送るためのものであった。当局は派手にするることを奨励したのである。この日入隊した私たち衛生兵教育要員の三十一名のみが内地籍で、他の入隊者は全員朝鮮籍であった。
朝鮮第四十四部隊は、歩兵第七十七連隊の留守部隊で、原隊は第三十師団に属し、師団司令部と共に連隊本部・第一大隊は、ミンダナオ島に駐留していたが、第二・第三大隊はレイテ島に派遣されて全滅した(五千三百余名のうち、生還者は二百七十名のみであった)。
留守部隊の兵舎はペチカの煙突が見える赤煉瓦造りの大陸風の建物で、衛生兵教育者全員、近藤隊第五班に編入された。燃料不足でペチカは朝晩しか使えなかったが、室内は余り寒さを感じなかった。というより感じている閑などなかった。うわさに聞く内務班生活であったが、衛生兵全員が同じ班となり、戦友もなく、古兵殿も炊事・衛兵・ラッパ手などの勤務兵だったので、思ったほどの私的制裁はなかった。特に同時に入隊した朝鮮の初年兵たちの逃亡を防ぐために、各中隊とも中隊長命令で私的制裁を禁止したことにもある。夕刻の雪の降る営庭での彼等の軍歌演習を聞いていると、たどたどしい日本語で幼稚園児並みであった。総督府が心配したことは事実であった。
作家の武田麟太郎は『わが懐かしき兵営生活』で次のように書いているという(カン徳相著『朝鮮人学徒出陣』)
「驚いたことには、北鮮の涯てから来た「同胞」(朝鮮の初年兵のこと)は、ほとんどニッポン語がわからないのである。これでは訓練もできない。各中隊では、あわてて班内に「アイウエオ」を書いた紙をはり、ニッポン語の教育である。ニッポン語もろくろくにしゃべれず、毎日ビンタばかり食わされているうちに、望郷の念にかられ、妻子の顔見たさに、ぞくぞくと逃亡し始めた。脱走は無論夜である。「ベンジョ、イッテキマス」などと、不寝番をゴマかして襦袢袴下の寝巻姿のまま、ドロンであった。毎晩、どこかの中隊で非常呼集のラッパの鳴らぬ夜はなかった」
私の転属した野戦部隊でも、南鮮へ出動前に逃亡が起きた。そのことは次章「23 南鮮へ」で書く。
衛生兵教育は、部隊の西に隣接する平壌第二陸軍病院で行われた。病院の玄関前の芝生に座っての、軍医による講義が主であった。病院付の現役衛生兵も同席して聴いた。
しかし教育期間中、半分は病院の防空壕掘りの使役に駆り出され、衛生兵として基礎的な注射の打ち方とか、薬剤の使用方法などの実務教育は一度もなかった。衛生兵がヨーチン(切傷などに塗る沃度丁幾(ようどちんき)のこと)といわれる所以も、むべなるかなと思った。輜重兵のことを「蝶々トンボも鳥のうち」と言われたのと同じである。
しかし「人のいやがる軍隊へ、志願で出てくる馬鹿もいる」と嗤われる軍隊へ入って、私は却ってホッとした。奇異に感じるだろうが本当である。入隊する前の工場での生活は、生産に直接関係する仕事ではなく、寮と工場とを夜空の星を仰いで往復するのみの、五月病のような状態であった。その私を救ってくれたのは、一枚の召集令状であった。最初は身の不運を嘆いたが。しばらくするうちに起床ラッパは七時であり、工場のように五時に起きなくてもよく、最初の一週間の術科教練も、学校教練で習得済みなので苦もなく、陸軍病院での軍医の講義も芝生の上の話であり、内務班も規制はなく楽であった。
寒い冬が過ぎて、少し温かいなと感じた夜半に、舎前の窓越しに雨の音を聞いた。明くる朝、さんさんと降りそそぐ朝日のもと、営庭の芝生は,一夜で緑色に変わっていた。大陸の春は、一晩で冬枯れの芝生を追い払っていった。
暖かくなり、衛生兵教育も終わりに近ずいた四月末のある日、病院の満開の桜の樹の下で(北鮮は四月末に桜が満開になる)、軍医が「今日は諸君にすばらしいニュースを送る」と一呼吸おいてから「アメリカの大統領ルーズベルトが死んだ」と誇らし気に言った。私たちは軍医と共に万歳を三唱したが、大統領が死んだだけで、アメリカには何の変化もなかった。
既に沖縄が決戦場になり、内地もB29の空襲にさらされていた。次の米軍の上陸を予想される南鮮に二ヶ師団が増設され、急増衛生兵が配属されたのである。
私が転属したのは、第百六十師団歩兵第四百六十四連隊第二大隊本部であった。師団には四六一から四六四まで歩兵が四ヶ連隊あり、いずれも二大隊編成の小師団であった。百六十師団は通称を護鮮部隊といい、もう一つの百五十師団は護朝部隊といった。両方で朝鮮を護る意味であった。朝鮮海峡の済州島には三ヶ師団約六万名の兵士が駐留した。部隊の編成は平壌の原隊で行われ、二大隊は武道場に起居した。衛生兵は医務室に集まって、医療器具・薬品の整備に当った。
兵隊は一銭五厘のはがきで、質はともかく数は揃うが、武器や医薬品は絶対数が不足していた。不足を補うため、四中隊の松本衛生兵と二人で、公用腕章をつけて街に出た。市電に乗って大同江東岸の船橋里(せんきようり)の試験場まで行ったが、めぼしい物はゴム管ぐらいだった。しかし、止血に使えるので先任下士官の木村曹長は大変喜んだ。ある日、街の写真館で記念にと、交替で帯剣を付けて写真を撮った。今残っている写真を見ると、若かったなと戦時中を思い出す。
今思っても、二等兵の私たちにたびたび公用腕章を出してくれた木村衛生曹長が不思議な人だった。出動準備で忙しくてかまっておれなかったのかも知れない。私一人の時など,途中で憲兵や私服警官に呼び止められはしないかと心配したものである。朝鮮籍の逃亡兵が出ていたからである。
ある時、ふと思い出して公衆電話で工場へ電話してみた。朝鮮の主な都市は、既に電話はダイヤル式に自動化されており、工場へも軍の配慮から、特別に平壌のダイヤル番号が一本入っていた。部長は突然のことに驚いたようだったが、次の日曜日に出張所で会うことにした。
その日。私は親戚の坂田さんの家で部長よりの連絡を待った。部長が出張所へ着いたら電話をくれる手筈であった。ちょっと手違いがあったが、出張所で食事をしながら師弟の別れを惜しみ、部長は工場へ私は部隊へ戻った。幸い最後の別れとはならず、戦後、部長と私は浜松で再会することが出来た。
( 「 Ⅰ-23 南鮮へ」に続く )