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雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮智彦哲学経済学メモリー 19 20200314 哲学の学習 12 「質」とは何なんでしょうか

2020年03月14日 21時58分56秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 19 20200314 哲学の学習 12 「質」とは何なんでしょうか


「哲学の学習12 「質」とは何なんでしょうか
2010年03月13日 04時36分18秒 | 人間・生命・宇宙

 「質」とは何かというと、たとえば森宏一さん編著『哲学辞典 第4版』(青木書店、q1971年初版、1987年第4版)では、「質とは性質のことであり、事物はすべてなんらかの性質をもって存在し、これによって一物は他から区別される」(p181)とあります。

 つまり、たとえば「本」と「パンフレット」の違い。どっちも「出版物」には違いないけど。

 同じ質の「人間」でも、「男」と「女」とは違うとか。

 日野原さんの著書『いのちと生きがい』青春出版社、では、こう書かれています。

 「命を救うとは、ただ命を長く延ばせばいいわけではなく、質が問われます。
 「ただ生きることでなく、よく生きることこそ、何よりも大切にしなければならない」これは、ソクラテスの言葉です。(『プラトン全集 クリトン』)」

 日野原さんとソクラテスさんに、共感します。」


雨宮智彦哲学経済学メモリー 18 20200310 本と映像の森 13 A・C・クラーク『2010年宇宙の旅』ハヤカワ文庫、早川書房

2020年03月11日 15時14分43秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 18 20200310 本と映像の森 13 A・C・クラーク『2010年宇宙の旅』ハヤカワ文庫、早川書房 


「本と映像の森13 A・C・クラーク『2010年宇宙の旅』ハヤカワ文庫、早川書房 2010年03月11日 04時25分47秒 | 本と映像の森

 「宇宙1」の続きです。
 今年は、ガリレオ・ガリレイさんが、望遠鏡で、木星の4大衛星を発見して、ちょうど400年の年です。

 その木星周辺を舞台にして、私の大好きなSF作家・クラークさんが書いた、『2001年宇宙の旅』の9年後の続編です。

 数日前に、ちょっと時間の空いたときに行く、家の近くのイケヤ高林店で、見つけて衝動買いしました。
 なにしろ、帯に「ついに2010年到来! 巨匠クラークが描いた未来に人類は到達できたのか?」です。

 映画にもなっています。
 私は、どっちかというと、一般的に言って,映画の方が情報量が少なくて、文字による小説版の方が、情報量も・解釈の余地も多くて好きですね。
 たとえば、マイケル・クライトンさんの「ジュラシック・パーク」でも、そう思いました。

 謎の石「モノリス」は、1対4対9の石碑です(もちろん材質は石ではないです)。

 モノリスは、謎の宇宙文明が、地球を監視し制御するために残したものです。
 そのモノリスの1個目は、地球のアフリカの人類発祥の地にあって、2個目は、月のチコ・クレーターにあって、3個目は木星の衛星軌道上にあります。

 その宇宙文明は、物質的な形を持たない、純粋生命体で、というクラークさんの想像の描画は、クラークさんの代表作である『都市と星』の最終章で描かれた銀河系文明が生み出した失敗作「狂った精神」と成功作「ヴァナモンド」に描かれ、もう1つの代表作『幼年期の終わり』で地球人の子どもたちの行く末として描かれています。
 
 この作品も、地球文明と、宇宙文明の、接触のかたちの、いろんな物語の一つになると思います。
 幸福な接触、不幸な接触。
 
 象徴的な話は、原題が「スペース オディッセイ」ということです。
 ホメロスの歌う「オデッセイ」伝説は、ギリシャと異文明の接触と変容の物語だと思いますが、宇宙のオデッセイ物語は、地球文明と異質な宇宙文明の接触と変容が、はたして、可能か、幸福か、崩壊か、という話だと思います。

 2つ目は、人間とコンピューターの相克です。ハル9000ですね。
 ハルの運命に、救いを感じました。
 人間とコンピューターは、信頼しあえると思います。
 
 3つめは、地球人類と太陽系内の他の惑星・衛星の生命との接触の可能性です。
 木星の衛星、たとえばエウロパは、氷の表面の惑星ですが、氷の下に海があることは確実になっています。
 このエウロパの氷の下の海で進化した生命を1980年代に描いたのが、この作品です。

 ぼくの生きているうちに、エウロパの海の下に潜る「深海探査」が実現するといいな。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 17 20200309 宇宙 1 今年はガリレオさんが木星衛星を発見して400年 20100310

2020年03月09日 19時13分16秒 | 過去現在のメモノート


雨宮智彦哲学経済学メモリー 17 20200309 宇宙 1 今年はガリレオさんが木星衛星を発見して400年 20100310


宇宙 1 今年はガリレオさんが木星衛星を発見して400年
2010年03月10日 04時15分35秒 | 人間・生命・宇宙

 今年は2010年です、と大声で言うほどのことでもないかな?
 もちろん西暦です。
 今年は、平成22年、と言われても、なんの地球的意味もないですから。もちろん、日本的伝統を軽蔑するつもりはありません。
 地球的・宇宙的意味と、日本的伝統は、対立するものではなく、相補的なものだと思います。
 
 深海生物学者の長沼毅さんが書いた『生命の星・エウロパ』(NHKブックス)の冒頭の「第1章 エウロパの海」に、書かれているエピソードです。

 400年前の1610年1月7日、イタリア北東部の都市パドヴァで、夜空に輝く木星に、望遠鏡をむけたガリレオ・ガリレイさんは、木星の回りに、小さな、小さな、4つの星を発見しました。

 これが、惑星(プラネット)の周りを回る衛星(サテライト)の発見の最初です。

 ガリレオ・ガリレイさんは、木星の周りをまわる4つの衛星は、太陽を回る地球、地球を回る月の、ミニチュアモデルであると理解したのです。

 ここから始まって、ルネッサンスの崩壊していく時期に、ガリレオ・ガリレイさんは、コペルニクスさんの「地動説(太陽中心説)」に同調し、当時の権威であるローマ法王庁の「天動説(地球中心説)」に反対したために、宗教裁判にかけられてしまいました。

 400年前って、すごいですね。

 ガリレオ・ガリレイさんにすれば「そんな400年後のことは、ぼくは知らないよ。想像もできない。ぼくは、とにかく、今を必死に生きているんだから」ということでしょうか。

 今年2010年の400年後は、2410年です。

 ローマ・カトリック教会が、公式にガリレオ・ガリレイさんの「地動説」を認めたのは、いつかと言うと、なんと、1992年で、わずか18年前です。

 ぼくは小さい頃から天文マニアだったので、高校では地学部天文班でした。

 たぶん、中学生頃かな、小さな望遠鏡で、初めて、楕円形の輝く木星の周囲に、4つの小さな衛星を見たときの感動を思い出します。

 4つの衛星、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストのことはまた書きます。



雨宮智彦哲学経済学メモリー 16 20200307 哲学の学習 11  「量」と「質」を考えます、その2 どっちが先 20100310

2020年03月07日 22時13分48秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 16 20200307 哲学の学習 11  「量」と「質」を考えます、その2 どっちが先 20100310


「哲学の学習 11  「量」と「質」を考えます、その2 どっちが先
2010年03月10日 04時03分50秒 | 人間・生命・宇宙

 量と質、あるいは質と量は、相補的な概念として考えられています。

 (相対立する概念という言い方・考え方もあるかもしれませんが、私はそういう「対立物」ではなく「相補物」として考えたいと思います。)

 では、人類の認識の歴史では、量と質、質と量、どちらが、先に認識されたのでしょうか。

 量とは、たとえば、1つ、2つ、というように、「数詞」=「言語」なしには、とらえられません。

 分離量であれ、連続量であれ、「数える」ことなしには、認識できません。
 
 でも、質は、たとえば「涼しい」「暑い」「でかい」「小さい」「丸」「四角」「植物」というように、言葉なしのイメージとして認識できるのではないでしょうか。

 あるいは、「なんかいやだ」「逃げないと」「心地よい」「好きだ」「嫌いだ」という感情。

 言語をもつ段階以前の人類、あるいは神経と脳のある動物たちは、みんな、「質感」を言葉としては表現できなくても、感覚しているのではないでしょうか。

 ですから、量よりも,質の方が人類の認識史から考えても先ではないでしょうか。」


雨宮智彦哲学経済学メモリー 15 20200306  哲学の学習 10 「量」と「質」を考えます、その1 20100302

2020年03月06日 15時51分49秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 15 20200306  哲学の学習 10 「量」と「質」を考えます、その1 20100302


「哲学の学習 10 「量」と「質」を考えます、その1
2010年03月02日 04時14分02秒 | 人間・生命・宇宙

 ある「教科書」(87年度ですから23年前でかなり古いですけど、全面改定したという話も聞かないので、もし、今はかなり違っていたら許してください)に、次のように書かれています。

 「世界におけるすべての事物は、質の側面と同時に量の側面をもっており、そして、この質の側面と量の側面には切りはなすことのできない密接な関係があります。」
 この叙述は賛成です。
 
 次に「「それはどんなものか」という問いに対応する事物の側面、それが質です。つまり、質とは、ある事物を他の事物から区別する特徴・性質の総体のことをさします。」書いています。これも、まあいいかな。

 叙述は、質の具体的例として、「資本主義」と「社会主義」の質の違い、別の例として、液体状態にある「水」と気体状態にある「水蒸気」の違いをあげています。

 1987年なので、まだソ連のいつわり「社会主義」崩壊の前で、まだ日本共産党の認識が、ソ連社会主義は社会主義ではなく、歪んだ別の種類の社会である、というところには到達していない段階ですから、仕方ないですね。

 では、量とはなんでしょうか。

 同書では「量とは、長さ、広さ、重さ、温度、速度、人数など、「どれだけか」という問いに対応する事物の側面、つまりなんらかの単位で測定できる事物の側面のことです。10万人のデモ隊、40度の湯、1日1時間の学習などという時、問題にされているのが量の側面です。」と明確に書かれています。

 つまり「量」とは「単位で測定できる事物の側面」だと主張しています。でも、ここでちょっと立ち止まって考えてみました。

 たとえば温度、現代では温度計で、どんな温度でも測ることができますが、それは温度計ができてからの話です。

 それまでは「今日は暑いね」「今日は寒いね」という感覚で会話がされています。
 
 「熱い」「冷たい」「暑い」「寒い」「大きい」「小さい」「速い」「遅い」などのけいようしをすべて「量」であると強弁するなら別だけど、事物の同じ側面を「量」として表現すると同時に「質」として表現することができるのではないでしょうか。

 つまり「事物の側面」の中には、同時に「量」であり「質」であるような側面がある。

 「事物の側面」の中には、「優しい」「きれい」「美人」のような質的にだけ表現ができて、量的表現ができない側面もあるのかな。

 だれか「美人」という質を量に変える「美人指数」を発明できれば、すごいですね。

 なんだか、本題から逸れてきたような気もしますが。量と質を考える第1回目とします。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 14 20200304 哲学の学習 9 「安定」「固定」と「変化」「発展」の関係 20100225

2020年03月04日 13時38分18秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 14 20200304 哲学の学習 9 「安定」「固定」と「変化」「発展」の関係 20100225


「哲学の学習 9 「安定」「固定」と「変化」「発展」の関係
2010年02月25日 04時33分37秒 | 人間・生命・宇宙

 「ものごとはすべて変化・発展する」かどうか、という学習の続きです。

 「変化」とは何かということですが、「ある物あるいはある物事」の「要因」「要素」「属性」の一部の量あるいは質が変化することではないかと思います。
 ただし、「ある物あるいはある物事」の統一性というか、「ある物がある物である量と質」「ある物事がある物事である量と質」は保っているので、連続性はあるわけです。

 たとえば「ある物A」の属性「a、b、c、d・・・・」とするとき、属性aがa1からa2に変化しても「A」が「A」であることに変わりありません。
 
 連続性とは何かというと、たとえば、カフカさんの小説「変身」で、主人公が毒虫(さそり?)に変身するのに、周囲の人が「この毒虫はお兄ちゃんの青年グレーゴル・ザムザが変身した姿である」という妹グレーテの認識がなければ「お兄ちゃんがいなくなって、嫌な毒虫が現われた」ということになります。
 
 あるいはガラスのコップが壊れれば、コップは「変化・発展した」わけではなくて、たんに「コップでなくなった」、ガラスの破片になっただけです。
 コップが「ガラスの破片」に変化したと強弁できなくもないですが、すでにコップでないことには変わりありません。
 
 基本はこうだと思います。ものやものごとは、
 ① 変化せずに安定している場合
 ② 「そのもの」を保持しながら、変化・展開・発展していく場合
 ③ 「そのもの」や「そのものごと」の統一性を保持できなくて崩壊・分解する場合
 つまり「ものごとはすべて変化・発展する」というのは「安定期」を無視し、「崩壊・分解の可能性を軽視していて、正しくありません。

 ①と②との関係では「物あるいは物事」が安定して存在するためには、周囲の環境・条件も長期にわたって安定していないといけません。

 ですから、「変化・発展」の時期と、「固定・安定」の時期は「物あるいは物事」を構成する2つの両面で、「変化・発展」の方が本質的で大事だとか、「固定・安定」の方は表面的で軽視できる話と言うことは正しくありません。

 地球生命の進化でも、長期の安定的地質条件と、矛盾が爆発する短期間の危機とが混在しています。

 人類の歴史でも、たとえば300年にわたる江戸時代の長期の安定期は、戦国時代の転換期と、明治維新の転換期にはさまれています。」




雨宮智彦哲学経済学メモリー 13 20200302 資本論の学習 3 商品の属性と要因、要素としての商品

2020年03月02日 20時15分29秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 13 20200302 資本論の学習 3 商品の属性と要因、要素としての商品


「資本論の学習 3 商品の属性と要因、要素としての商品
2010年02月18日 22時01分16秒 | 人間・生命・宇宙

 「第1章第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値」の第3回目です。

 まず哲学の学習で書いたことを繰り返しますが、本文は第1行目で「商品は、なによりもまず、その諸属性によってなんらかの種類の人間的欲求を満たす1つの物、1つの外的対象、である」としています。
 また「このような物はどれも、多くの属性からなる1つの全体であり、それゆえ、さまざまな面から有用でありうる。」
 
 この「属性」について、山本広太郎さんは『差異とマルクス ー疎外・物象化・物神性ー』(青木書店、1985年)で、以下のように述べています。

 「属性 Eigenschaft とは物 Ding の属性であり、物のうちで自立性を喪失し、観念化され、したがって「互いに分離して」いないものだからである。分離しておれば、属性ではなく、要因 Faktor (因数分解の因数はこれ)である。」(p173)

 商品の属性とは、たとえばコップが① ガラスでできている、② 透明である、とか、③ 上から見ると円形である、④ 横から見れば長方形である、⑤ 液体を入れておくことができる、などのことです。
 
 それに対して商品の要因の1つである「使用価値」とは「鉄、小麦、ダイヤモンドのような商品体そのものが、使用価値または財である」と述べているように「商品体」そのものを指しています。

 そして、商品が、価値と使用価値という2つの要因に分解できるからこそ、その独立した要因同士のからみあう運動によって、新たな「貨幣」という現象が生まれてくるのだと思います。
 『資本論』では、そのような、見た目には1つのプロセスが、それぞれの要因で、二重の意味をもって二重な結果をもたらすという「二重性」が大事だと思います。

 第1行目に戻りますが「資本主義的生産様式が支配する諸社会の富は、「商品の巨大な集まり」として現われ、個々の商品はその富の要素形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる。」とあります。

 ですから、「個々の商品」「諸社会の富」「の要素形態(独 Elementarform)」であり、要素である「個々の商品」が、また、2つの要因(独 Faktren)に分かれるということです。

 この「要素」と「要因」はマルクスは使い分けていますが、同じものなのか、違うものなのか、私にはまだわかりません。学習していきたいと思います。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 12 20200301 資本論の学習 2 商品の「使用価値」とは何か 20100210

2020年03月01日 20時32分54秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 12 20200301 資本論の学習 2 商品の「使用価値」とは何か 20100210


「資本論の学習2 商品の「使用価値」とは何か
2010年02月10日 04時14分49秒 | 人間・生命・宇宙

 「第1編第1章第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値」の続きです。

 テーマは「商品の使用価値」とは何か、です。

 よくある誤解は「使用価値」とは、その語感から言っても、「使用することの価値」なのだから、その商品を使用するときの「効用」あるいは「満足感」とか、主観的なものではないかという誤解です。

 マルクスさんは、こう書いています。

 「ある物の有用性は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体の諸属性によって制約されており、商品体なしには実存しない。それゆえ、鉄、小麦、ダイヤモンドなどのような商品体そのものが、使用価値ままたは財である。」(新日本新書版①p60ー61)

 つまり、ある商品の「使用価値」とは、固いその商品体そのもののことです。

 だからこそ、ある商品の使用価値は「見える」のです。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 11 20200227 「資本論」学習 1 商品の要因、見える使用価値と見えない価値 20100207

2020年02月27日 19時53分34秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 11 20200227 「資本論」学習 1 商品の要因、見える使用価値と見えない価値 20100207


「資本論」学習 1 商品の要因、見える使用価値と見えない価値
2010年02月07日 22時30分26秒 | 人間・生命・宇宙


 何年か前まで「資本論」の第1巻の全行読みを仲間をつのってやりました。
 月2回、2時間くらい、全行を読んで、疑問・開設を出し合う作業でした。
 その収穫も含めて、雨宮智彦の読んだ「資本論」を少し書いていきます。
 
 なお、マルクスさんの書いたドイツ語の原題は「DAS KAPATAL」で「資本」です。「論」は含まれていません。
 原題通りなら、「資本論」ではなく「資本」というタイトルになります。
 
 推奨するテキストは、新日本出版社の新書版13巻本か、第1巻から第3巻までそれぞれ1~2冊にまとめたものです。

 「第1部 資本の生産過程」(これが、いわゆる第1巻です)のいちばん最初は、「第1編 商品と貨幣」の「第1章 消費」の「第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値(価値の実態、価値の大きさ)」です。

 この「使用価値と価値」のうち、「使用価値は見える」けど「価値は見えない」というのが「資本論」の出発点になると思います。

 「見える使用価値」と「見えない価値」という2つの要因がからみあって、商品から貨幣へ展開していきます。

 以下、後述。


雨宮智彦哲学経済学メモリー 10 20200224 哲学の学習8 形式論理的事物と弁証法論理的事物 20100202

2020年02月24日 20時12分03秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 10 20200224 哲学の学習8 形式論理的事物と弁証法論理的事物 20100202


「哲学の学習8 形式論理的事物と弁証法論理的事物
2010年02月02日 22時55分22秒 | 人間・生命・宇宙

 「変化・発展」の稿の続きも含む内容です。

 世の中のすべてを「弁証法論理学」で「矛盾」と「発展」で分析できるように書いてあるテキストもありますが、どうでしょうか。

 たとえば、あなたが家を建てるとすると、その家は弁証法論理ではなく、形式論理学のバランスと安定の論理によって設計図が描かれ、その通りに建てられます。
 もし我が家が「弁証法的発展」によって「変化」「発展」していっては非常に困るわけです。
 ですから、家は発展しないように、AはAであり、Bではないという形式論理で建てられ、寿命が来ればそれは破壊され取り壊されます。
 つまり、家や都市など人間が作った物は、すべて形式論理学に従っています。

 それにたいして、例えば地球環境は進化・激変もしますが。一定の期間は相対的安定の時期で、一定の環境の下では、生物も安定して、産卵、成長、生殖の安定した循環を繰りかえすことができます。
 「カエルの子はカエル」で「ナマズの孫ではない」のです、
 
 生物が進化する時期は、たとえば地球誕生の初期に藍藻類の大繁殖で酸素が大気に放出され、それまで無酸素で栄養とエネルギーを得ていた「嫌気的生物」が生存の危機に陥った時期です。
 あるいは、地球全体が凍結した時期です。
 あるいは中生代末期の有名な「隕石衝突」(または地球内部からの大激変)です。
 
 このような環境の激変と生存の危機に対して、生き物たちは生き残るためには、自らが進化することを強制されます。別の言い方を言えば、そのような劇的な進化を遂げて新しい生き物に変身した種類だけが生き残れたのだと。

 要約して言うと、世の中は、変化・発展しないものと、変化・発展するものでも、のべつまくなしに変化しているわけではなく、安定する時期は長く、変化・発展する時期には短時間で激変が起こると、いうことでしょうか。

 (参考文献) 井尻正二『ヘーゲル「大論理学」に学ぶ』築地書館、1980年初版」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 9 20200221 哲学の学習7 対立物の統一と相補物の統一 20100128

2020年02月21日 16時18分15秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 9 20200221 哲学の学習7 対立物の統一と相補物の統一 20100128


「哲学の学習7 対立物の統一と相補物の統一
2010年01月28日 04時54分51秒 | 人間・生命・宇宙

 32年前に発行された書籍に、次のように書かれています。

 「弁証法は事物の変化、発展の原動力を事物の内部にもとめ、この原動力になるのは。すべての事物の内部にある矛盾であることをあきらかにしています。」(同署p198)

 どう「あきらかにしてい」るのかは、そこには叙述が何もないので、私にはわかりません。どなたか、「あきらかに」わかる方がいれば、教えてください。

 そのあとには、こう書かれています。

 「事物の内部の矛盾とは、一つの事物のなかにたがいに対立する側面があって、それがたがいに結びついていることをいいます。

 たとえば、すべての生物は、外界から栄養をとる同化作用をおこなうのと同時に、これを体内でエネルギーとして消費し、老廃物を外界へ排出する異化作用をおこなっています。このどちらもが停止しても、生物は生きることができません。

 資本主義社会には、労働者階級と資本家階級という対立する二つの階級が存在します。
 一つの事物のなかの対立した二つの側面はたがいにむすびつき、一つの側面は他の側面なしにはありえないというように統一しています。たとえば、同化は異化なしにはありえないし、資本家階級はかれらの搾取する労働者階級なしには存在しえません。このような関係を対立物の統一といいます。」

 同化と異化が「対立物の統一」「矛盾」であるというのは。どうなのでしょうか。

 生命における物質代謝の両側面である、同化と異化は、なんら対立しているわけではなくて、お互いに相互に支えあっているのではないでしょうか。

 環境の安定なしには、恐竜類や裸子植物の大繁栄もなかったのではないでしょうか。

 地球に落ちた大隕石か、それとも、もっと他の要因かは、わかりませんが。
 
 生命のほんとうの矛盾は、生命内にではなくて、生命と環境のあいだの相互作用にあるのではないでしょうか。

 文明である人間社会は、環境の影響を脱して、自立的な矛盾をもっていると思います。しかし、歴史を溯るほど、環境とシンクロ(同調)する生き物の姿が、わき上がってくるものと思います。
 
 

雨宮智彦哲学経済学メモリー 8 20200220 哲学の学習6 変化・運動・発展の原動力 20100122

2020年02月20日 14時23分03秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 8 20200220 哲学の学習6 変化・運動・発展の原動力 20100122


哲学の学習6 変化・運動・発展の原動力
2010年01月22日 04時16分45秒 | 人間・生命・宇宙

 自分の頭で考える「学習」シリーズです。

 他人の頭で考えることのできるヒトは絶対いませんが。他人の頭にたよろうとするヒトはたくさんいます。自分の感覚や判断ではなく、「世間の基準」や「他人の評判」や「他人の規範」にたよろうとすると自分の正直な心・魂・人格を殺すことになります。
 私は、自分の心・魂・人格が死んだゾンビー状態で生きたくはありません。

 通説では、事物の変化・運動・発展の原動力は、事物の内部に存在する矛盾あるいは対立によるということのようです。
 なぜ通説なのか、誰が決めたのかは、ボクに聞かないでください。なぜ通説なのか、誰が決めたのかわからないのが通説であり、常識なのです。

 これは詳しく証明したのではないですけど(時間があれば詳しく証明したいと思いますが)、具体的な1つの変化・運動・発展という「ベクトル」の矢印の長さを規定するのは、「事物の内部に存在する矛盾あるいは対立」ではなく、事物に内在する「エネルギー」ではないでしょうか。

 「事物の内部に存在する矛盾あるいは対立」が規定するのは、「変化・運動・発展」のベクトルの長さではなく、その方向を規定すると思います。

 つまり、原動力であるエネルギーが「変化・運動・発展」を起こすが、その方向性を決めるのは「事物の内部に存在する矛盾あるいは対立」であるということです。

 この世界は、① 物質 ② エネルギー ③ 情報、という3つの要素で成り立っていると思いますが、エネルギーが「変化・運動・発展」のベクトルの長さを規定し。情報がその方向性を規定するということだと思います。

 生物の日々の動的平衡や成長を支えているエネルギーは、ミトコンドリアで生産されるATPですが、そのエネルギーがどう使われて、生物がどのように成長していくかは、生物の細胞の核にある「遺伝情報(DNA)」に規定されています。

 社会の発展のエネルギーは「生産力」ですが、その社会の発展方向は、その社会の成員の情報伝達の総意によって規定されています。

 いまの北朝鮮やスターリンソ連、毛沢東中国、ヒトラー独裁のナチスドイツ、戦前の絶対主義的天皇制日本のような独裁社会では、社会の総意ではなく、どの独裁者によって「変化・運動・発展」ベクトルの方向が規定されていると言えるでしょう。

 もっと感じて、考えて、学習していきます。



過去現在未来のメモリーノート 76 哲学思想ノート 1 『資本論』 2 労働者の意識を無視していいのか? 20200219

2020年02月19日 09時25分06秒 | 過去現在のメモノート


過去現在未来のメモリーノート 76 哲学思想ノート 1 『資本論』 2 労働者の意識を無視していいのか? 20200219


「生産当時者」は誰か?  雨宮智彦  20200215

     1

 マルクスは『資本論 第3部』冒頭の「第1編、第1章 費用価格と利潤」の最初、まとめ的文章の末尾で、こう書いています。

 「したがって、われわれがこの第3部で展開するような資本の諸姿容は、それらが社会の表面で、さまざまな資本の相互の行動である競争のなかに、また生産当事者たち自身の日常の意識のなか現われる形態に、一歩一歩、近づく。」
 (引用は新日本出版社上製版、『Ⅲa』p46。原書p。上製版は新書版とほとんど同じ訳だがページ数はすこし違います。)

 この「生産当事者」とは誰のことでしょうか。「生産者」のことで同義語なのでしょうか、それとも違った概念なのでしょうか。

 ボクはこれから『資本論』のなかを「生産当事者」と「生産者」の用語を探索し推理していきたいと思います。これは途中経過報告です。

    2

 ひとつだけ、この「生産当事者」と「生産者」の概念をこれから学習していくうえで事前に触れておかなければならないと思う指摘があります。

 それは不破哲三さんが『『資本論』全三部を読む 第五冊』(新日本出版社、2004年)で強調している点です。223ページから224ページにかけて不破哲三さんは次のように述べています。

「ここは、非常に大事なところです。マルクスの説明を少し立ち入った形で考えましょう。マルクスがここでいう「生産当事者」とは、主として資本家のことです。
 もちろん、労働者も地主も、資本主義社会における「当事者」であることは間違いありませんが、第3部で問題になる「具体的諸形態」との関連でいうと、研究の対象としていちばん大きな比重を占める「生産当事者」は、資本家たちです。
 つまり、第3部で研究する資本の運動の「具体的諸形態」は、資本家がふだん持っている意識(「日常の意識」)のなかに現れる形態に、いよいよ近づいてゆく、そのことが指摘されているのです。これは、これからの研究を理解する上で、要をなす問題の1つです。」

 所論のため不破哲三さんの文章を次のように分けてみます。

「【 1A 】ここは、非常に大事なところです。マルクスの説明を少し立ち入った形で考えましょう。【 1B 】マルクスがここでいう「生産当事者」とは、主として資本家のことです。
 【 2A 】もちろん、労働者も地主も、資本主義社会における「当事者」であることは間違いありませんが、【 2B 】第3部で問題になる「具体的諸形態」との関連でいうと、研究の対象としていちばん大きな比重を占める「生産当事者」は、資本家たちです。
 【 3A 】つまり、第3部で研究する資本の運動の「具体的諸形態」は、【 3B 】資本家がふだん持っている意識(「日常の意識」)のなかに現れる形態に、いよいよ近づいてゆく、【 3C 】そのことが指摘されているのです。これは、これからの研究を理解する上で、要をなす問題の1つです。」

【 1A 】【 2A 】【 3A 】【 3C 】は、マルクスが言っていることで、ボクもそのとおりと思います。しかし【 1B 】【 2B 】【 3B 】は少し違和感がありました。

 不破哲三さんは「マルクスがここでいう「生産当事者」とは、主として資本家のことです。」【 1B 】と述べ、その理由として「第3部で問題になる「具体的諸形態」との関連でいうと、研究の対象としていちばん大きな比重を占める「生産当事者」は、資本家たちです。」【 2B 】と述べています。

 なぜ「生産当事者」を資本家に限定するのでしょうか。「生産当事者」は「資本家と労働者」ではいけないのでしょうか。

 もし不破哲三さんの説が正しいとすると、『資本論 第3部』は「生産当事者」である労働者の意識をまったく無視して論述を進めていることになります。

 それは『資本論』に重大な不備があるというに等しい指摘で、マルクス主義者であるボクとしては、従えない指摘です。

 なにか不破哲三さんは勘違い・思いこみがあるのではないでしょうか。不破哲三さんの文章には証拠が書いていないので研究のしようがありませんが。

     3

 全体として『資本論』には「資本家」についての指摘が大半です。それはあたりまえのことではないでしょうか。資本主義社会の直接の「生産当事者」である「資本家」と「労働者」を比べれば資本家が「主体」であり、労働者は資本家に動かされる「客体」です。

 それだけではなく「資本家」自体が「資本の人格化」であり、資本主義社会での真の主体は「資本」であるということはマルクスが『資本論』でいっているとおりだと思います。

 つまり二重の意味で、主体移転が「労働者 ⇒ 資本家 ⇒ 資本」とおきて労働者と国民は二重の意味で主体でなくなっているのだと思います。

 そういう資本主義社会の基本について触れずに、マルクスが資本家の叙述だけに集中していると理解するから、すこし変なのだと思います。

 「第3部、第1編、第2章 利潤率」で「主体と客体との転倒のいっそうの発展」(上製版Ⅲa p75、原書p55)もそういう意味で理解したい。




 「第2編 利潤の平均利潤への転化、第12章 補遺、第3節」では「この諸関係の担い手たちおよび当事者たちがこの諸関係を明らかにしようと試みる諸観念」(p354、原書p219)とある。

 ここでいう「この諸関係の担い手たちおよび当事者たち」には資本家と労働者が基本的に入るのではないかと思う。

 そnすぐあとで「資本家たち」と書いているのは客体である労働者を具体的に叙述していないのは主体である資本家を描いているだけで、マルクスは資本家だけを研究しているわけではないと思う。

 『資本論』とくに第3部で論述している「意識」は「資本家の意識」だけとは思えない。「労働者の意識」も含めた「全国民的意識」だと思う。

 もっと『資本論』全巻と関連用語を調べていこうと思う。

 未完。2020年2月15日。


雨宮智彦哲学経済学メモリー 7 20200218 数学の学習1 素数と俳句・短歌 20100106

2020年02月18日 19時39分23秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 7 20200218 数学の学習1 素数と俳句・短歌 20100106


「数学の学習1 素数と俳句・短歌
2010年01月06日 04時16分40秒 | 人間・生命・宇宙

 たぶん、数学関係者にも文学関係者にも「なんじゃこれ」という、奇想天外なタイトルだろうと思います。
 
 ある本で指摘を受けて、調べた結果です。いま、その「ある本」の「何ページ」かを探していますので、見つかり次第、アップします。

 「素数」とは定義で、たとえば「整数p>1が、1とpのみで割り切れれるとき、pを素数という。」
 素数を小さい順に並べると、2,3,5,7,11,13,17,19,23,31、…となります。

 妻のN子さんが最近、俳句をやっているので、考えたことです。

 俳句は、たとえば、一茶の俳句
 「がりがりと(5) 竹かじりきり(7) きりぎりす(5)」
 のように、5-7ー5です。5と7は素数です。5と7と5を足すと17文字で、これも素数です。

 短歌はどうかというと、5-7-5-7ー7 です。

 たとえば、俵万智さんの『サラダ記念日』(河出文庫)で「万智(まち)ちゃんが(5) ほしいと言われ(7) 心だけ(5) ついていきたい(7) 花いちもんめ(7)」(p57)。

 つまり、俳句の構成部分と合計は 5+7+5=17で、すべて素数。
 短歌の構成部分と合計は、5+7+5+7+7=31で、すべて素数。
 これはなぜなんでしょうか。
 
 考えたのは、素数は、2以外は、すべて奇数です(2以外の偶数は素数ではない)ですから、素数であるということより、奇数であるということが俳句・短歌と関係があるのではないかと。

 日本語の特徴なのか、言語学をきちんと勉強していないので。わかりませんが、日本語の名詞に「4文字」言葉が多いことも、「名詞+接尾辞」で「5文字」が必要な理由かもしれません。

 575ではない「古歌」もあるという記憶もあるので、研究していきたいと思います。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 6 20200217 哲学の学習5 要因と属性 20100105

2020年02月17日 21時10分48秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 6 20200217 哲学の学習5 要因と属性 20100105


 補足。問題は要因と属性について、マルクスは『資本論』で、山本さんが言うような使い方をしているかということです。

 以下は、実際に調べて見つかったところ。いまのところ、まだ何とも言えません。

 使ったのは新日本出版社の上製版(5巻本)です。小さい数字はドイツ語版原書ページ。

◇属性 資上Ⅰa p5949・6150・7961
  商品体の諸属性     資上Ⅰa p6150
  労働生産物という属性  資上Ⅰa p6452
◎要因 資上Ⅰa p315199
  人的要因 資上Ⅰa p315199
  対象的要因 資上Ⅰa p315199

 まだ調べます。


「哲学の学習5 要因と属性
2010年01月05日 05時49分52秒 | 人間・生命・宇宙

 これは哲学というより、経済学かも知れませんが、そういう区別は意味がないので、そのままにします。

 『資本論』の「第1巻」の「第1編 商品と貨幣」の「第1章 商品」の第1節は「商品の2つの要因ー使用価値と価値」というタイトルです。
 
 この「要因」とは何でしょうか。
 本文は第1行目で「商品は、なによりもまず、その諸属性によってなんらかの種類の人間的欲求を満たす1つの物、1つの外的対象、である」としています。
 本文で言う「属性」とはなんでしょうか。

 この問題について、山本広太郎さんの『差異とマルクス ー疎外・物象化・物神性ー』(青木書店、1985年)が参考になります。
 山本さんは以下のように述べています。

 「属性 Eigenschaft とは物 Ding の属性であり、物のうちで自立性を喪失し、観念化され、したがって「互いに分離して」いないものだからである。分離しておれば、属性ではなく、要因 Faktor (因数分解の因数はこれ)である。」(p173)

 商品が、価値と使用価値という要因に分解できるからこそ、その独立した要因の運動で、新たな「貨幣:という現象が膿まれてくるのだと思います。

 『資本論』では、そのような、見た目には1つのプロセスが、それぞれの要因で、二重の意味をもって二重な結果をもたらすという「二重性」が大事だと思います。
 
 物の「属性」となっていれば、それは単純明快で、「青い」とか「ガラス」とか「丸い」とか、そこには二重性はないということでしょうか。

 思いついたのは「組織の民主主義」の場合で、形式的には、その組織が「民主的」と言っていても、一人ひとりの構成員(人間)が、その組織の独立の要因ではなく、組織の属性になっていたら、民主的組織とは言えないな、ということです。」