雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

過去現在未来のメモリーノート 79 死者を数えてみたら…  20200426

2020年04月26日 20時02分04秒 | 過去現在のメモノート

過去現在未来のメモリーノート 79 死者を数えてみたら…  20200426


 新型コロナウイルス危機で、日本人の感染者数13182人(前日より+353人)、死者348人(前日より+14人)でした。

 全世界では感染者300万人、死者20万人です。

 いま1年間の日本人の誕生者数は90万人弱、1年間の日本人の死亡者数は130万人くらい。死に神の方が優位です。

 2018年にガンで死亡した人は37万3584人です。1日で1023人前後です。

 2019年のインフルエンザ感染者は1000万人以上、死者は3000人以上、関連死はもっと多い。死亡者/感染者×100=0.03% かな。

 この数について、いろいろ説はありますが今日は触れません。

 ただ1年間で130万人、1日で130万人÷365=3562人のヒトがあたりまえに死んでいくことは、それぞれが感じてみる価値があるでしょう。

 ぼくらもいずれ、そのうちのひとりになるのだと。



雨宮智彦哲学経済学メモリー 31 20200415 人間・心・集団の学習 5 何が正しいかは魂(人格)が判断する 20100429

2020年04月15日 15時05分04秒 | 過去現在のメモノート
 
雨宮智彦哲学経済学メモリー 31 20200415 人間・心・集団の学習 5 何が正しいかは魂(人格)が判断する 20100429


「人間・心・集団の学習 5 何が正しいかは魂(人格)が判断する
2010年04月29日 05時51分39秒 | 人間・生命・宇宙

 うわ!「何が正しいかは魂(人格)が判断する」とタイトルで書いてしまいました。
 どうしよう。

 「何が正しいかは、組織で判断するんだ!個人で判断するのは個人主義だ!」と怒る人、
 「魂だ、人格だなんて、おまえは観念論者か!」と詰問する人、
 「小さな子どもは親が導くし、何も知らない大衆は○○○が導くんだ!」と断言する人。
 そういう人に、どう説明しましょうか。

 人格=魂というのは雨宮理論ですが、そもそも、人格の絶対性は、科学的社会主義の始祖のマルクスさんとエンゲルスさんの基本概念なのを知らない人がいるのは困りますね。 
 知らないのは自由ですけど、知らないのは証拠にはなりません。

 で、4月24日付け「本と映像の森31 安冨歩・本條『ハラスメントは連鎖する』」で書きました。再録します。
 
 「私の理解した範囲でまとめると、ハラスメントとは、

 ① Aという個人が他人に、「これをしろ」あるいは「これをするな」と押しつけ・強要・強制をすること。

 ② ①のことは、AがBに、教育として・助言として・先輩として・親としておこなう善意の行為だから、拒否するな、拒否するならAがBを罰するというさらなる押しつけ。

 ③ ①や②を拒否するBに、受け入れるまで①②を押しつける強制、さらに暴力(言論も含め)をふるうこと。

 つまり、たんなるいじめ・暴力ではなくて、「これはおまえを愛するがゆえの」とか「上司としての指導・教育だ」とか、入ってくるんですね。」

 民主主義の本質は、何が正しいか、一人ひとり、内面の基準で決めていいよということだと思います。

 それを否定して、他人の基準・集団の基準・社会の基準で「決めなさい」ということを押しつける・強要するということが、ハラスメントの本質であるということです。

 ボクは、みんなに「だいじょうぶだよ、他人に聞かずに、自分で決めていいんだよ」と言い続けたいと思います。

 妻のN子さんが決断して○○○するときも、保母をやめるときも、いつも「自分で決めたらいいよ」と言ってきました。

 もちろん、みんなのことはみんなで決めましょう。
 雨宮家の全体のことは、雨宮家の全体で決めます。

 そういう基本原則をはっきりさせながら、支配・押しつけ・強要・従属・いいなり・共依存・固定化・孤立化・いじめ・暴力・ハラスメントなどがない集団・社会を創りたいです。

 この項は、さらに思考中。」



過去現在未来のメモリーノート 78 ウイルス恐慌 ② 『資本論』第3巻第6章から 20200408

2020年04月08日 06時06分37秒 | 過去現在のメモノート

過去現在未来のメモリーノート 78 ウイルス恐慌 ② 『資本論』第3巻第6章から 20200408

 前回「過去現在未来のメモリーノート 77 社会の相(フェイズ)が変わった」で「今回の新型コロナウイルス危機は誰が見ても世界的危機です。これにたちむかうことは世界人類一人ひとりのそれぞれの通常の業務を中断できる人は中断してたちむかうべき重大事なのだと思います。」と書いた。

 ボクは「社会の相(フェイズ)」について書いた。それは物理学で言う物質の「相(フェイズ)」の概念を借用した。あとでウイルス医療にはウイルスの流行で「相(フェイズ)」の概念を使っていたのを思い出した。

 今回、そのウイルス流行「フェイズ」の概念がほとんど使われていないのはなぜか、わからない。誰かわかる人がいたら教えて欲しい。

 それは「専門家」が教えてくれると思っているなら、「民主主義社会」の終わりだと思う

    ☆

 今日の主な考察は社会的危機の考察に『資本論』とくに第3巻の恐慌の考察が役にたつかも知れないということです。

 たとえば『資本論 第3巻』の「第1編 剰余価値の利潤への転化および剰余価値率の利潤率への転化、第6章 価格変動の影響」でマルクスは書いています。

 「原料価格騰貴の時期には、産業資本家たちは共同して組合をつくり、生産を調整する。……競争の一般原理が、すなわち、競争の原理がふたたび絶対権をもって支配するやいなや、供給を調整することは、ふたたび「価格」にゆだねられる。
 原料の生産にたいする共同の、全面的なかつ予見的な管理 ー 管理は、一般に資本主義的生産の署法則とまったく両立しえないものであり、それゆえつねにかなわぬ願いにとどまるか、または大きな直接の危険および窮地の瞬間における例外的性格の共同措置に限られる ー にかんするすべての考えは、需要と供給が互いに調整されるという信念に席を譲る。」
 (新日本出版社・上製版p205、ドイツ語版原書p130)

 マルクスは『資本論』で何度も「管理」「統制」とお金による「需要供給」とは両立しえないことを語っています。

 「「ウイルス」ショック、2020.3.14」とここへ書き込んでいます。まだ「ウイルス恐慌」というボクの概念は生まれていませんが、この書き込みのあとかなり早く生まれたと思います。

 ニュースでは原料争奪・食料争奪も始まるかも知れません。

 新聞にも「恐慌」の文字が見え始めました。事態を正面から直視することは、政府やマスコミの推薦する「専門家たち」の特定の意見に盲従することではありません。

 『資本論』および『資本論草稿集』まで含めた全体の恐慌概念を学習すること。久留間鮫造さんの『資本論レキシコン 恐慌Ⅰ』『資本論レキシコン 恐慌Ⅱ』(大月書店)を熟読することが求められると思う。

雨宮智彦哲学経済学メモリー 29 20200405 本と映像の森 26 川端裕人さん著『算数宇宙の冒険 アリスメトリック!』実業之日本社、2009年 20100403

2020年04月05日 20時21分35秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 29 20200405 本と映像の森 26 川端裕人さん著『算数宇宙の冒険 アリスメトリック!』実業之日本社、2009年 20100403


「2010年04月03日 23時21分16秒 | 本と映像の森
本と映像の森26 川端裕人さん著『算数宇宙の冒険 アリスメトリック!』実業之日本社、2009年11月25日初版、定価1500円+


 昨年12月頃かな、高林のイケヤ書店に寄ってぶらぶら「本見」をしていたら、この本の表紙が「私を読んで!私はあなたが読む意味のある本ですよ!」と言っていたので、つい,手にとって買いました。

 「算数宇宙」と書いてありますが「数学宇宙」です。

 物語が始まるのは、東京23区の端の「都心の田舎」,桃山町です。
 主人公の語り手は、小学6年生の千葉空良(そら)で、数学よりも数学によって成り立つ音楽が好きで,歌がすてきな男の子。
 空良の幼なじみの数学好きの女の子、河邑ユーキ、バイオリンを習っている男の子紺野アラン、そして転校生の女の子那由(なゆ)、この4人が桃山町から始まって、数学宇宙に入り込み、この宇宙を成り立たせている数を守るために奮闘します。

 那由が空良にいいます。
 「宇宙は数で出来ている。数をめぐる真理は、どこにいっても真理。きっとあなたはそう思っている」「地球上でもアンドロメダ星雲の中でも1+1=2。素数のうちの最初の5つは、2、3、5、7、11。あなたはそう思っている。」(p92)

 那由の連れてきたウサギ「うさよし」が語ります。
 「宇宙と宇宙の戦争なの。より正確にいうと、別の数的実在同士の存亡をかけた戦い。」
 (p94)
  
 むずかしい公式もありますが、空良が言われるように数式を眺めて,イメージとして鑑賞するのも、入り口としてはいいのです。

 副題の「アリスメトリック!」は、もちろん「不思議の国のアリス」の少女アリスのイメージです。

 「数学の国のアリスたち」、アリスはもちろんユーキさんです。アリス役ののユーキさんの彼氏として空良くん、不思議な科学少年アランくん、そして謎の転校生少女・那由さん。
 
 やはり19世紀ではアリスの単独行動なんですが、20世紀末では「集団主人公」あるいは「主人公たち」でないと、小説が成り立たない時代ではないでしょうか。

 英語では「数論」は「arithmetoric(アリスメトリック)」、不思議の国のアリスは「Alice」で、英語ではスペルも発音も違いますが、日本語のカタカナにすると同じになるので、だじゃれ的にはすてきですね、いいですよ。

 「算数宇宙の冒険」の話なのに、算数や数学の話がまったく出てこない書評でごめんなさい。

 最終の到達点は「リーマン予想」ですが、ゼータ関数や量子カオス、ハミルトニアン行列などなど、雨宮ももっと数学を学習したいなと、おもしろく読めた小説です。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 28 20200402 人間・心・集団の学習 4 人間性と人格と労働・交通能力 20100403

2020年04月02日 09時42分55秒 | 過去現在のメモノート


雨宮智彦哲学経済学メモリー 28 20200402 人間・心・集団の学習 4 人間性と人格と労働・交通能力 20100403


「人間・心・集団の学習 4 人間性と人格と労働・交通能力
2010年04月03日 16時54分56秒 | 人間・生命・宇宙

 「人間・心・集団の学習」の続きです。
 「3」で森繁久弥さんが人間を「芸+人」でとらえるようになった話を書きました。
 
 人間の中核、人間性の中心には人格(パーソナリティ)があると思うのですが、それが森繁さんのいう「人」です。
 森繁さんのいう「芸」は人間が母親の体内で誕生(精子と卵子の結合)してから、身につけて習得していく能力をさします。
 もちろん生まれながらの能力もあると思います。

 この能力は、通常、大人では「労働力(労働能力)」として扱われ、いま地球上で生きている人間の大人の多くは、この労働力を月きめ、日ぎめで契約して会社に雇われて支払われた給料で商品を買って生きています。
 そうでない、自分で生産した農産物で生きている人もいますし、自分で生産した商品を売っていきてく自営業種もいます。
 
 問題は、この労働力と人格との関係です。

 たとえば、芝田進午さん著『人間性と人格の理論』(青木書店、1961年、1990年第39刷)では、こう書かれています。

 「この人間性の具体的現実存在、すなわちこれらの諸能力のにない手が,本来の「人格」(パーソナリティ)にほかならない。マルクスはいう。
 「われわれが労働力または労働能力というのは、人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存して かれがなんらかの種類の使用価値を生産するたびに運用する、肉体的および精神的諸能力の総計のことである。」」(第6章 人間性と人格の形成、129ページ)

 そこから芝田さんは、「人格、あるいは労働能力」と、人格と労働能力を同一視します。
しかし、これはマルクスさんの労働力の定義の読み誤りではないでしょうか。

 マルクスさんは「労働力」が「人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存」すると言っているのであって、労働力は人格のことであると言っているのではありません。

 たとえばマルクスさんは同じ『資本論』のもっと前の「第1章 商品」で、こう書いています。

 「たとえば、1クォータ-の小麦=aツェントナーの鉄」「この等式はなにを意味するか?同じ大きさの1つの共通物が二つの異なった物のなかに、すなわち1クォータ-の小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも,実存するということである」(Ⅰa、63ページ、原書51ページ)。

 つまり、マルクスさんは小麦と鉄「のなかに」、小麦や鉄とは異なった別のものが「実存する」と述べています。
 すこしあとで、それは「価値ー商品価値」であると述べています。
 
 もう一度,マルクスさんの文章を読みます。

 「われわれが労働力または労働能力というのは、人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存して かれがなんらかの種類の使用価値を生産するたびに運用する、肉体的および精神的諸能力の総計のことである。」
 つまり「労働力または労働能力というのは、人間の身体すなわち生きた人格のうちに実存し」ている。

 マルクスさんが労働力は人格ではないと述べていることは明白であると思います。
 ただし、「生きた人格」という用語は、単純に「人格」そのものではないようにも思います。また学習します。

 労働力は人格ではないということは、マルクスさんが労働者は労働力を限定的に契約で売るのであり、自分を丸ごと売るのではないという意味を『資本論』でも述べていることでも明らかであると思います。
 
 私は人間を2つの部分に分け、人格(魂)と能力は別のもので、人格が人間の司令塔・判断能力をつかさどる重要部分であると思います。」


過去現在未来のメモリーノート 77 社会の相(フェイズ)が変わった

2020年03月31日 10時58分02秒 | 過去現在のメモノート

過去現在未来のメモリーノート 77 社会の相(フェイズ)が変わった

 日本では2020年3月に「社会の相(フェイズ)が変わった」とボクは思う。

 「社会の相(フェイズ)」とは「歴史的発展段階」や「時代」とは違って社会的バランスを断ち切って起こるような、たとえば大規模火山噴火とか中世ヨーロッパのペストなどの疫病流行とか大災害をいう。

 「3.11」も日本にとっては大災害だったが世界的な大災害ではなかった。

 今回の新型コロナウイルス危機は誰が見ても世界的危機です。

 これにたちむかうことは世界人類一人ひとりのそれぞれの通常の業務を中断できる人は中断してたちむかうべき重大事なのだと思います。


雨宮智彦哲学経済学メモリー 27 20200328 資本論の学習 7 「共通な社会的実体の結晶として」の「価値」 20100325

2020年03月28日 19時46分01秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 27 20200328 資本論の学習 7 「共通な社会的実体の結晶として」の「価値」 20100325


「資本論の学習 7 「共通な社会的実体の結晶として」の「価値」
2010年03月25日 04時46分18秒 | 人間・生命・宇宙

 1ページを何回も「学習」する、カタツムリのような遅い歩みですみません。

 カタツムリで思い出して,脱線しますが、最近、デンデンムシムシカタツムリを見なくなっていませんか?これは、大気汚染による酸性雨の影響で、カルシウムの殻をもつカタツムリが減っているのではないかという記事を数年前に見ました。
 ほんとうにそうかもしれません。

 子どもたちが「でんでんむし、むし、かたつむり、おまえの頭はどこにある」という歌を知らないなら、さびしい日本列島だなと思います。

 前回、引用した原文です。
 「そこでこれらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態【雨宮注 労働の具体的形態のこと】にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。」(新日本新書①p65、原書p52)

 この続きで、マルクスさんは、こう書いています。

 「これらの物が表わしているのは、もはやただ、それらの生産に人間的労働力が支出されており、人間的労働が堆積(たいせき)されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値ー商品価値である。」

 第1点は、注意深く読むと、新日本新書版は「もの」と「物」を訳し分けています。このことは「表わす」と「現わす」も同じだと思います。

 第2点は、マルクスさんは、価値とは、抽象的人間労働の直接の結晶であるとはしていないことです。

 抽象的人間労働の「それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値ー商品価値である。」

 このことの意味は、また後で述べたいと思いますが、マルクスさんは、そう言っているということを確認して、この項目を終えます。」


雨宮智彦哲学経済学メモリー 26 20200326 資本論の学習 6 使用価値と労働の有用性を抽象すると

2020年03月26日 21時05分13秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 26 20200326 資本論の学習 6 使用価値と労働の有用性を抽象すると


資本論の学習 6 使用価値と労働の有用性を抽象すると 
2010年03月25日 04時22分13秒 | 人間・生命・宇宙

 前々回の「資本論の学習4」で以下の文章を引用しました。

 「そこで、諸商品の使用価値を度外視すれば、諸商品にまだ残っているのは、1つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。」(新日本新書①p64、原書p52)

 その続きの学習です。

 マルクスさんは、こう言います。
 「それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的形状はすべて消し去られている。」

 そして、労働による生産物の具体的形状が消し去られたということは、その元の「労働の有用的性格も消え失せ」る、と。

 マルクスさんは、このような「労働のさまざまな具体的形態も消え失せ、これらの労働は、もはやお互いに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間的労働」に「還元され」と分析し、このような労働をここで「抽象的人間労働」と定義しています。

 この問題は、次の節「第1章第2節 商品に表わされる労働の二重性」で詳しく分析されるので、ここではこれまでにしておきます。

 ただ1点だけ、次のパラグラフを考えます。
 「そこでこれらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性以外のなにものでもなく、区別のない人間的労働の、すなわちその支出の形態【雨宮注 労働の具体的形態のこと】にはかかわりのない人間的労働力の支出の、単なる凝固体以外のなにものでもない。」(新日本新書①p65、原書p52)

 問題は「まぼろしのような対象性」という用語です。
 「対象性」は、文章で明らかなように「凝固体」と同じ意味だと同じだと思います。
 
 つまり、具体的有用労働は、使用価値という、目に見える「まぼろしのよう」ではない対象性に「凝固」するのですが、具体性を抽象した抽象的人間労働は、その使用価値の中の価値という「まぼろしのような対象性」「凝固体」になるのだと思います。

 図式としては,以下のようになります。
 
 ① 具体的有用労働 → 凝固 → 目に見える使用価値
 ② 抽象的人間労働 → 凝固 → まぼろしのような対象性

 こういうことかな?」


雨宮智彦哲学経済学メモリー 25 20200325 哲学の学習 15 量 その2 分離と連続、外延と内包

2020年03月25日 21時15分50秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 25 20200325 哲学の学習 15 量 その2 分離と連続、外延と内包


「哲学の学習 15 量 その2 分離と連続、外延と内包
2010年03月23日 04時14分13秒 | 人間・生命・宇宙

 遠山啓さんの本の続きです。

 遠山さんは、量を、まず分離量と連続量に分けます。
 そして連続量を、外延量と内包量に分けます。

 「物体もしくは物質に対するもっとも基本的な操作は合併である。
 たとえば、2つのバケツのなかにはいっている水をあわせて1つにするような操作が、この合併という操作である。

 この合併に対して加法的なのが外延量であり、そうでないのが内包量である。

 たとえば、2つのバケツのなかにはいっている水の体積がそれぞれ3リットルと5リットルだとすれば、あわせた水の体積は3リットル+5リットル=8リットルになる」
 「体積・重さ・値段などは問題なく加法的である。」(p107)
 
 「これに対して、合併が加法を意味しないような量も存在する。密度・濃度・温度・速度・単価などがそうである。20度の水と30度の水をあわせてかきまぜても50度にはならないで、20度と30度とのあいだのある値をとるだろう。つまり合併から加法がでてこないのである。」(p107~108)

 「べつのいい方でいえば外延量は“大きさ”もしくは“広がり”の量であり、内包量は“強さ”の量である」(p108)
 
 遠山さんは言います「このような内包量をくらべるのには計算という手段を必要とせず、感覚の助けによって判定することができる」

 つまり「熱い」「冷たい」「暑い」「涼しい」などの感覚で判定することができるということです。

 これは量?質? どっちなんでしょうか。」

哲雨宮智彦哲学経済学メモリー 24 20200324 学の学習 14 量について その1

2020年03月24日 13時47分23秒 | 過去現在のメモノート
哲雨宮智彦哲学経済学メモリー 24 20200324 学の学習 14 量について その1


「哲学の学習 14 量について その1
2010年03月22日 23時23分22秒 | 雨宮日誌

 数学から学ぶということですが、量とは何でしょうか。

 たとえば「お皿のなかに果物がいくつありますか」という場合で、「7個あります」というのは量です。

 数学的にいうと「お皿」の中に果物の「集合」があり、たとえばミカン3個とリンゴ4個の「集合」があります。
 
 量というのは、遠山啓さんによれば「3メートルの棒、高さ3メートルの家は、物体もしくは物質として存在するが、3メートルそのものは存在しない。つまり、量の背後にはじゃばらず物体もしくは物質が存在しているのである。」
 (『遠山啓著作集 数学教育論シリーズ5 量とは何かⅠ』太郎次郎社、1984年新装版、p107)

 そして量とは、集合の要素が等質であるときに量となる。つまり、ミカン3個の集合、リンゴ4個の集合、あるいは果物7個の集合。

 そして、量よりさらに抽象的なものが数となります。たとえばミカン3個とリンゴ3個は量としては異なったものですが、数としては同じものです。

 つまり、集合 → 量 → 数、という概念の発展系列が考えられます。(遠山さんの同書、p82~83)
 
 量についての学習は次回に続きます。

 この遠山さんの本は、25年前に買ったので、今はどういう形で出ているのかは調べてありませんが、「水道教育」の著者として著名なので何らかの形で出版されているだろうと思います。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 24 20200324 資本論の学習 5 「実存する」とは何でしょうか?

2020年03月23日 21時18分54秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 24 20200324 資本論の学習 5 「実存する」とは何でしょうか?

「資本論の学習 5 「実存する」とは何でしょうか?
2010年03月20日 04時15分49秒 | 人間・生命・宇宙

 前回第4回に『資本論』第1章第1節から以下のような引用をしました。ページは新日本新書版第1巻です。
 
 「さらに、2つの商品、たとえば」300リットルの小麦=akgの鉄「この等式は何を意味するか?
 同じ大きさの1つの共通物が、2つの異なった物のなかに、すなわち」300リットルの小麦のなかにも、akg「の鉄のなかにも、実存するということである。」
 「したがって、両者は,それ自体としては、一方でもなければ、他方でもないある第3のものに等しい。」(p63)
 「この共通なもの【第3のもの】は、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではありえない。・・使用価値としては、諸商品は、なによりもまず相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、1原子の使用価値も含まない。」(p64)

 注)原文の「ブッシェル」では現代の私たちにはぴんとこないし、イメージできないので「300リットルの小麦」という表現をしてみました。

 ここで問題なのは「実存する」というマルクスさんの表現です。

 ドイツ語原文では「existireren」で、その直前の「交換価値は、一般にただ、それとは区別されうるある内実の表現様式、「現象形態」でしかない。」(p62)という「現象形態(Ersheinungsform)」とは明らかに用語が異なっています。

 マルクスさんの用語が異なっていれば、概念も違うというのが特別の理由がない限りは妥当な話だと思います。

 脱線して考えると、たぶん、ここでいう「実存」はフランスのサルトルさんの「実存主義」とは何の関係もないと思います。
 もし関係があったら、ごめんなさい。

 第4回では省略した文章はこうです。

 「両者はどちらも、それが交換価値である限り、この第3のものに還元されうるものでなければならない。簡単な幾何学上の1例がこのことを明らかにするであろう。およそ直線形の面積をはかり、比較するためには、それをいくつかの三角形に分解する。三角形そのものは、その目に見える形とはまったく異なる表現ー 底辺×高さ÷2 ーに還元される。これと同じように、諸商品の交換価値もある共通物に還元されて」(p63)

 つまり、「二つの異なった物のなかに」「実存する」「同じ大きさの1つの共通物」は「その目に見える形【交換価値】とはまったく異なる表現に還元され」ます。

 あとの第3章第1節では、こう述べられています。

 「鉄、リンネル、小麦などの価値は、目には見えないけれども、これらの物そのもののうちに実存する」(p162、原書p110)

 とにかく「実存」という概念と「現象」という概念が違うということを今日は学習しました。

 「実存」という概念は、ヘーゲルさんから来ているので、またそっちも含めて縦横斜め、学習を続けます。


< 補足 20200323 >


 『資本論』における「実存」という用語は、全巻のなかに多出します。それに「存在」とは微妙に違うようです。

 いまは「実存」という概念は「目には見えない」ということと関わっていて、とくに「転倒」という意識・観念の現象とかかわりがあるようです。

 ところが2019年から出ている新日本出版社の『新訳 資本論』では、これまでの新日本出版社の訳が変わってしまって、どうも「実存」ではなく「存在」になってしまったようです。

 ドイツ語版原書 p51 上製版Ⅰa p63   新訳 p69
p64 p86 p92
         p100      p143     p151
         p110 p160 p169

しかし、その1行あとに旧新日本出版社版では、「存在」がすでにあるのです。

 旧訳 「この関係のなかでは、上着は、価値の実存形態として、価値物として、通用する。なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現われてくる。」
 ( 上製版、Ⅰa85~86ページ、原書64ページ )

 新訳 「この関係のなかでは、上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する。なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現われてくる。」
 ( 新訳、①92ページ、原書64ページ )

とすると旧訳で「実存」「存在」という2つの表現を、新訳は「存在」という表現にまとめてしまったことになります。これが妥当な訳といえるかどうかです。

そして残りの問題はドイツ語原語がどうなっているかですね。ドイツ語原書は持っているので時間があるときに調べてみます。

 違うことばを同じ日本語に訳してもいいのです。大事なのはマルクスがそのことばを使った文意です。

 逆に同じ用語を2つに訳し分ける場合もありうると思います。

 なにかわかったら書きます。



雨宮智彦哲学経済学メモリー 23 20200323 人間・心・集団 3 森繁久弥さんの「人間は、芸+人」 20100319

2020年03月22日 20時53分25秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 23 20200323 人間・心・集団 3 森繁久弥さんの「人間は、芸+人」 20100319


人間・心・集団3 森繁久弥さんの「人間は、芸+人」
2010年03月19日 04時30分42秒 | 人間・生命・宇宙

 今年、森繁久弥さんが亡くなったあと、NHKラジオで深夜に、追悼放送があり、以前の森繁さんの録音が流れていました。

 その中で、森繁さんが「以前は、芸人というのは、芸のある人だと思っていたが、いまは、芸人というのは、芸+人だ、芸も、人もどっちもだいじだと思う」という意味のことを語っていたのが印象的でした。

 芸というのは、能力のことだと思います。
 それに対して「人」というのは、人間のなかで、ふつう「人格」とか「魂」とかいわれるもので、これが一人ひとりの人間の中心、司令塔なのだと思います。

 私のイメージでは、1人の人間の中心には「魂」「人格」とか呼ばれるものがあり、その周囲に、周りの人間や自然とコミュニケーションする「能力」が発達していきます。
 それを「労働力」「労働能力」と呼んでもいいでしょうね。

 「芸」という「能力」が発達しても、それは必ずしも「人格」「魂」の発達とはならず、その変質や後退になる場合もある、ということを森繁久弥さんは言っているのだと思いました。

 自分の能力が発達したことを、自分の「人格」「魂」そのものが発達して,他人より上に立ったように誤解してしまう人もいるのではないでしょうか。
 

雨宮智彦哲学経済学メモリー 22 20100318 哲学の学習 13 微細な質・質の微細な変化を感じられるか 20100318

2020年03月19日 19時32分29秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 22 20100318 哲学の学習 13 微細な質・質の微細な変化を感じられるか 20100318


「哲学の学習 13 微細な質・質の微細な変化を感じられるか
2010年03月18日 04時17分57秒 | 人間・生命・宇宙

 ふつう、哲学の学習と、一人ひとりの人間の「感覚」とは無関係なのですが。
 
 いろいろ考えてきたら、そもそも一番大事なのは、「質」の定義や概念ではなく、具体的なリアルな微細な質や、質の微細な変化を、ぼくが感じ取れるかどうか、ではないかと。

 たとえば「色 カラー」の微妙な変化を日本人は、感じ取ることができるといいますね。
 萌葱色(もえぎいろ)とか。
 浅黄色(あさぎいろ)とか。
 
 妻のN子さんの介護の仕事で「入居者の心の内を感じて仕事をしなければ」という時も、グループホームの入居者のお年寄りの、表情や言葉の揺らぎを感じ取って仕事ができますかということだと思います。
 
 ぼくは、そういう微細な質、微細なゆらぎを大事にしていきたいと思います。

 現実は、無神経で、職員の意向を押しつけることが多いのだと思いますが。

 哲学の学習と、人間・心・集団の学習とは、本来、別の物ではないと思います。表裏一体、表と裏と追求していきたいと思います。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 21 20200317 資本論の学習 4 商品の交換価値(現象形態)と価値 2010315

2020年03月17日 19時31分17秒 | 過去現在のメモノート

雨宮智彦哲学経済学メモリー 21 20200317 資本論の学習 4 商品の交換価値(現象形態)と価値 20100315


「資本論の学習 4 商品の交換価値(現象形態)と価値
2010年03月15日 04時08分26秒 | 人間・生命・宇宙

 「第1章第1節 商品の2つの要因ー使用価値と価値」の第4回目です。
 今回から価値とその「現象形態」である「交換価値」の考察に入ります。

 マルクスさんは言います。
 「交換価値は、さしあたり、1つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち、比率として現われる。それは、時と所とともに絶えず変動する関係である。」(新日本新書①p62)
 
 そして「ある特定の商品、たとえば」300リットルの「小麦は、X量の靴墨、Y量の絹、Z量の金などと、要するにきわめてさまざまな比率で他の商品と交換される。」
 「それゆえ、こういうことになる。
 第1に、同じ商品の妥当な諸交換価値は1つの等しいものを表現する。
 しかし、第2に、交換価値は、一般にただ、それ【交換価値】とは区別されるある内実の表現様式「現象形態」でしかありえない。」(p63)

 「さらに、2つの商品、たとえば」300リットルの小麦=akgの鉄「この等式は何を意味するか?
 同じ大きさの1つの共通物が、2つの異なった物のなかに、すなわち」300リットルの小麦のなかにも、akg「の鉄のなかにも、実存するということである。したがって、両者は,それ自体としては、一方でもなければ、他方でもないある第3のものに等しい。」(p63)
 注)原文の「ブッシェル」では現代の私たちにはぴんとこないし、イメージできないので「300リットルの小麦」という表現をしてみました。

 「この共通なもの【第3のもの】は、商品の幾何学的、物理学的、化学的、またはその他の自然的属性ではありえない。・・使用価値としては、諸商品は、なによりもまず相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、1原子の使用価値も含まない。」(p64)

 正確に雨宮流に翻訳して「使用価値としては、諸商品は、なによりもまず相異なる質であり、相異なる量かあるいは同じ量であるが、交換価値としては、なによりもまずまったく同じ質であり、相異なる量である」という風になりますか。
 
 つまり 使用価値は 異なる質 異なる量か同じ量
     交換価値は 同じ質  異なる量か同じ量

 交換価値で「同じ質、異なる量」と私が規定するのは、等号「=」で結んだ等式「300リットルの小麦=akgの鉄」という場合には、小麦の交換価値と鉄の交換価値は、等式の左右で同じ量でなければならないからです。

 この交換価値の「質」をマルクスさんは、次のパラグラフでこう解説しています。

 「そこで、諸商品の使用価値を度外視すれば、諸商品にまだ残っているのは、1つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。」(p64)

 やっと、労働生産物という、商品を生産する労働の問題が出てきました。以下、続きます。

(お知らせ)一度投稿した原稿を後で見直して修正している場合があります。そういう場合は明示してありませんのでご注意ください。」



雨宮智彦哲学経済学メモリー 20 20200316 人間・心・集団 2 自尊心と自負心 20100314

2020年03月16日 16時34分32秒 | 過去現在のメモノート
雨宮智彦哲学経済学メモリー 20 20200316 人間・心・集団 2 自尊心と自負心 20100314


「人間・心・集団 2 自尊心と自負心
2010年03月14日 22時49分35秒 | 人間・生命・宇宙

 妻のN子さんとの会話から考えました。
 N子さんの知り合いに、自分もプライドの高い人で、自分の夫は他人より出世して偉い人だという感じの人がいるそうです。
 
 英和辞典を引いて「「プライド」って優越感とか自負心とか、ほとんど悪い意味なのね」「よく子供の自尊心を育てなさいというけど」と言うのでぼくは考えて答えました。

 「自尊心は大事だけど、それが変質して自負心、他人に負けないというマイナスの精神になるんじゃない?大事なのは、正常な自尊心がどうして曲げられて自負心や優越感になるかっていうことだと思う。そういう変質のプロセスを学習すれば、そうならないのじゃない?」
 
 「正しい自尊心が変質していくのは、正常ではない支配や従属の人間関係、差別や格差を受け入れてしまってあきらめて生きていたら、精神も変質していくと思うけど」

 その人はN子さんに「あなたは自分を持っていていいね」と言ったのだそうです。その人は、まだ見えているけど、もう自分を元にリセットして自分を自由にする余力はないのでしょうね。

写真は浜北区・不動寺の仏さまです。リラックスした、いいお顔でしょ?自分の心をきちんと持っているという感じです。

むかしの人は(いや、今生きている人も)、揺らぐ自分、自信のない自分、他人と比較してしまう自分を認識していて、そこから抜け出るためにも、神仏に祈って、自分の確立を願ったのではないでしょうか。