「近代日本における神智学思想の歴史」
吉永 進一
『宗教研究』Vol. 84 (2010) No. 2 スピリチュアリティ p. 579-601
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アジアの歴史を調べていると、何度も「神智学」の名前を目にします。特にインドのヨーガを調べると、「神智学」の知識は必須になります。
分析家として、「神智学」は格好の題材です。なぜなら、誰も、その実態を知らないからです。おそらく、現在の「神智学協会」のメンバーでさえ、以下の事実を知らないです(笑)。
1.【日本】
明治20年代の自信喪失していた日本の仏教界を勇気づけ、スリランカ仏教界との交流を促した。中心人物として鈴木大拙(1870-1966)の妻、鈴木ベアトリス・レーン(Beatrice Lane Suzuki)は神智学徒であり、鈴木大拙とともに神智学協会の会員でした。現在でもアメリカ神智学会にベアトリスのページがあります。
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日本の「禅」を代表する鈴木大拙が神智学教徒というのは苦笑いするしかないです・・・
2.【スリランカ】
1880年神智学創設者の1人オルコット大佐がスリランカで仏教徒に改宗し、コロンボで仏教学校を設立し、シンハラ語で仏教新聞を発行する。日本に高僧ダルマパーラを来日させる。
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「日本仏教のスリランカ仏教との邂逅―『浄土教報』に見られる明治期の浄土宗と神智学協会・大菩提会の関係―」
石井 千香子『アジア文化研究』Vol. 10 (2003) No. 10 P 43-54
3.【インドネシア】
神智学協会が、スリランカのナーラダ長老をインドネシアに派遣し、一時的にインドネシア仏教界は活気を帯びる。
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「現代インドネシアの仏教信仰」
木村文輝『日本仏教学会年報』n.67 2002.05.25
4.【中国】
1925年に密かにアニー・ベサント神智学協会会長の名前をつけた中学校を上海に設立していた。
東洋の神秘思想と西洋の神秘思想を統合した教育を行おうとして、失敗した。
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「中国から消えた神智学協会 : 伍廷芳による神智学紹介と近代中国仏教界との関わりに着目して」
莊 千慧『比較文化研究』 = Studies in comparative culture (111), 245-253, 2014-04-30
莊 千慧『比較文化研究』 = Studies in comparative culture (111), 245-253, 2014-04-30
5.【イラン】
近代化で自信を喪失していたイランのゾロアスター教を西洋人の視点から慰撫し、イラン神秘主義とキリスト教神秘主義は一致すると説得しています(笑)。それは無理スジ過ぎるやろー(笑)。ヒンドゥー教・仏教・イスラム教・ゾロアスター教のいずれもが、神智学の教義と一致するそうです(笑)。
1857年の「セポイの反乱(Indian Rebellion)」以前のイギリスの植民地政策は、苛烈なものでしたが、東インド会社が解散してからは、「融和」路線に転換したように見えます。神智学協会は、世界の宗教の共通点を良いところどりをして、統合しようとしていました。
1857年の「セポイの反乱(Indian Rebellion)」以前のイギリスの植民地政策は、苛烈なものでしたが、東インド会社が解散してからは、「融和」路線に転換したように見えます。神智学協会は、世界の宗教の共通点を良いところどりをして、統合しようとしていました。
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岡田 明憲
「パールシーと神智学 -ゾロアスター教近代化の一側面-」
『オリエント』Vol. 28 (1985) No. 2 P 66-77。
6.【チベット】
チベットに潜入した日本人の僧侶、河口 慧海(かわぐち えかい:1866-1945)は、1901年ー1902年のチベット・ラサ滞在を終えて、イギリス領インド帝国ダージリンに帰り、イギリスのスパイのチベット学者サラット・チャンドラ・ダス(Sarat Chandra Das :1849–1917)邸で3カ月を過ごし、1903年に神戸港に帰りました。1909年には河口慧海のチベット潜入記は、ロンドンで神智学協会のアニー・ベサントにより、「スリー・イヤーズ・イン・チベット」として出版されます。状況を調べると、河口慧海は、明らかにイギリスのエージェントですし、アニー・ベサントもエージェントの可能性が高いです。
7.【インド】
神智学協会2代目会長のアニー・ベサントは、インド独立運動である「インド国民会議」に参加し、「全インド・ムスリム連盟」を創設し、1917年には「インド国民会議・議長」にまで就任しています。インド独立運動で、非暴力非服従をつらぬいた、ガンジー(1869-1948)に、「偉大な魂=マハトマ(mahātmā)」と名づけたのは、ガンジーと仲が悪かった神智学協会2代目会長アニー・ベサントです。アニー・ベサントがインド国民会議・議長の際に、パンジャブ地方で暴動が起こり、べサントは治安部隊導入を支持して、1919年「アムリットサル虐殺」が起こります。「アムリットサル虐殺」をきっかけに、ガンジーは非暴力・非服従運動である「サティヤーグラハ(Satyagraha)」を方針とし、1920年には「インド国民会議」の方針として採択されました。べサントは「アムリットサル虐殺」をきっかけに、政治的には失脚し、インド国民会議の実権は、ガンジーに移って行きます。アニー・ベサントとカンジーは政治的に対立関係にありました。
このアニー・ベサントの政治活動は、エージェントの諜報活動そのものです。
大英帝国の植民地であるインド、スリランカ、イラン、チベット、中国の上海での神智学の活動を総合的に分析すると、『神智学とは何だったのか?』という疑問を持たざるをえません。
だいたい、スリランカで新聞を発行したり、スリランカや上海で学校を設立する資金は誰が出したのか?誰がどうみても、諜報組織のエージェントです。
これらの神智学の人々の思想が、現在のスピリチュアルやヨーガのチャクラやオーラの基礎になっています!!!
スピリチュアルにも変なことが多いです。
神智学初代会長のブラヴァツキー夫人とアニー・ベサントが創った神智学雑誌の名前は『ルシファー(Lucifer)』です。
ブラヴァツキー夫人の直弟子アリス・ベイリー(Alice Ann Bailey:1880 –1949)が創った出版社の名前は『ルシファー出版社(Lucifer Publishing Company)』です。
神智学は日本仏教に多大な影響を及ぼしましたが、その一つが三浦関造(日本へのヨガと神智学の紹介者)の影響で、天台宗から独立した鞍馬寺の信楽香雲(しがらき・こううん)が開いた『鞍馬弘教(くらまこうきょう)』です。『鞍馬弘教』の本尊は、金星から渡来したサナト・クマーラ(Sanat Kumāra:永遠の若者)で『護法魔王尊』と呼ばれます。
真剣に、神智学のこの時代の動きの背後にあるもの、特にスリランカや上海での活動資金の資金源となった存在には興味があります。
神智学は日本仏教に多大な影響を及ぼしましたが、その一つが三浦関造(日本へのヨガと神智学の紹介者)の影響で、天台宗から独立した鞍馬寺の信楽香雲(しがらき・こううん)が開いた『鞍馬弘教(くらまこうきょう)』です。『鞍馬弘教』の本尊は、金星から渡来したサナト・クマーラ(Sanat Kumāra:永遠の若者)で『護法魔王尊』と呼ばれます。
真剣に、神智学のこの時代の動きの背後にあるもの、特にスリランカや上海での活動資金の資金源となった存在には興味があります。