【米内光政内閣】(1940.1~40.7)
1941.8月までの世界の状況を先に言いましたが、ここから阿部信行内閣が総辞職した1940.1月の日本に戻ります。
次は海軍出身の首相です。軍人であることには変わりはないです。1940.1月、米内光政内閣が成立します。さっき言ったように、この時はドイツがまだ快進撃を続けている最中です。日本はまだ太平洋戦争に突入していません。
〇 日本はアメリカとではなく中国と戦っています。その中国のなかにも、蒋介石の中国はどうもおかしいと思う人がいる。それで蒋介石の重慶政府を脱出する。そして日本と協力する。これが汪兆銘です。日本の支援のもとで蒋介石政府とは別の南京新政府をつくります。
この米内光政内閣は陸軍との対立で半年しか持たない。1940.7月に総辞職します。
【近衛文麿内閣②③】(1940.7~41.10)
たった1年半の間に3つの内閣が次々に倒れたあと、残るは近衛文麿しかいない。1940.7月、第二次近衛文麿内閣ができます。ここから1年3ヶ月、真珠湾攻撃の2ヶ月前の1941.10月まで首相を務めます。この1年3ヶ月の在任期間は、この時代では長いほうです。この時代の内閣は短命内閣続きで、半年持てばいいほうですから。
彼は外務大臣に松岡洋右を起用します。基本的な外交方針は、ソ連と組んで、アメリカ・イギリスとの戦争を避ける方針です。
【北部仏印進駐】 世界の動きを先に言いましたが、再度それを日本を中心にして見ていきます。
近衛内閣成立から2ヶ月後の1940.9月、日本は北部仏印進駐を行います。仏印というのはフランス領インドシナのことです。フランスの植民地です。北部仏印とは今の北ベトナムです。
〇 この動きの背景にあるのは、前年の1939.7月に突如としてアメリカが日本に対して、石油を売らなくてもいいんだよ、と言ったことです。それが日米通商航海条約の破棄通告です。それで日本は、急いで石油を確保しようとする。石油はインドネシアのスマトラ島にあります。
もう一つは、日本軍は満州から北に行こうとしてソ連と戦ったノモンハン事件で負けた。これが1939.9月です。北がダメなら南しかない、という南進策への方針転換です。この二つが合体して北部仏印進駐になります。
〇 さらにもう一つあります。日本は中国と戦ってます。戦局は日本に有利です。しかし中国に勝っても勝っても、中国の物が尽きない。武器、弾薬、鉄砲が尽きない。それはなぜか。イギリスとアメリカが中国を応援して補給しているからです。ベトナムやビルマの南の密林に道を通している。これを援蒋ルートといいます。援蒋ルートとは、蒋介石援助ルートのことです。米英は半ば公然と中国を支援しています。日本はこれを断ち切りたい。
ちなみに、蒋介石の嫁さんは中国随一の浙江財閥の娘の宋美麗です。浙江財閥とは上海の隣の浙江省を拠点にした、イギリスと関係の深い財閥です。上海はイギリスの拠点です。宋美麗はさらにアメリカとも接近し広告塔として活動していきます。
【日独伊三国軍事同盟】 北部仏印進駐と同月の1940.9月、外相の松岡洋右はドイツ駐在の来栖三郎大使に指示して、ドイツと同盟を組む。イタリアもふくめて。これが日独伊三国軍事同盟です。このときはドイツの快進撃の最中で、日本には「バスに乗り遅れるな」という雰囲気がある。松岡洋右は、日本がドイツ・イタリアと組んで集団安全保障体制を強化すれば、アメリカはこれ以上日本と対決することはないだろうと考えます。
しかしアメリカの構想はそれを上回る規模であることが、翌年1941.8月の大西洋憲章で明らかになります。逆にアメリカは日本と戦うチャンスをうかがっていたのです。
1941.8月までの世界の状況を先に言いましたが、ここから阿部信行内閣が総辞職した1940.1月の日本に戻ります。
次は海軍出身の首相です。軍人であることには変わりはないです。1940.1月、米内光政内閣が成立します。さっき言ったように、この時はドイツがまだ快進撃を続けている最中です。日本はまだ太平洋戦争に突入していません。
〇 日本はアメリカとではなく中国と戦っています。その中国のなかにも、蒋介石の中国はどうもおかしいと思う人がいる。それで蒋介石の重慶政府を脱出する。そして日本と協力する。これが汪兆銘です。日本の支援のもとで蒋介石政府とは別の南京新政府をつくります。
この米内光政内閣は陸軍との対立で半年しか持たない。1940.7月に総辞職します。
【近衛文麿内閣②③】(1940.7~41.10)
たった1年半の間に3つの内閣が次々に倒れたあと、残るは近衛文麿しかいない。1940.7月、第二次近衛文麿内閣ができます。ここから1年3ヶ月、真珠湾攻撃の2ヶ月前の1941.10月まで首相を務めます。この1年3ヶ月の在任期間は、この時代では長いほうです。この時代の内閣は短命内閣続きで、半年持てばいいほうですから。
彼は外務大臣に松岡洋右を起用します。基本的な外交方針は、ソ連と組んで、アメリカ・イギリスとの戦争を避ける方針です。
【北部仏印進駐】 世界の動きを先に言いましたが、再度それを日本を中心にして見ていきます。
近衛内閣成立から2ヶ月後の1940.9月、日本は北部仏印進駐を行います。仏印というのはフランス領インドシナのことです。フランスの植民地です。北部仏印とは今の北ベトナムです。
〇 この動きの背景にあるのは、前年の1939.7月に突如としてアメリカが日本に対して、石油を売らなくてもいいんだよ、と言ったことです。それが日米通商航海条約の破棄通告です。それで日本は、急いで石油を確保しようとする。石油はインドネシアのスマトラ島にあります。
もう一つは、日本軍は満州から北に行こうとしてソ連と戦ったノモンハン事件で負けた。これが1939.9月です。北がダメなら南しかない、という南進策への方針転換です。この二つが合体して北部仏印進駐になります。
〇 さらにもう一つあります。日本は中国と戦ってます。戦局は日本に有利です。しかし中国に勝っても勝っても、中国の物が尽きない。武器、弾薬、鉄砲が尽きない。それはなぜか。イギリスとアメリカが中国を応援して補給しているからです。ベトナムやビルマの南の密林に道を通している。これを援蒋ルートといいます。援蒋ルートとは、蒋介石援助ルートのことです。米英は半ば公然と中国を支援しています。日本はこれを断ち切りたい。
ちなみに、蒋介石の嫁さんは中国随一の浙江財閥の娘の宋美麗です。浙江財閥とは上海の隣の浙江省を拠点にした、イギリスと関係の深い財閥です。上海はイギリスの拠点です。宋美麗はさらにアメリカとも接近し広告塔として活動していきます。
【日独伊三国軍事同盟】 北部仏印進駐と同月の1940.9月、外相の松岡洋右はドイツ駐在の来栖三郎大使に指示して、ドイツと同盟を組む。イタリアもふくめて。これが日独伊三国軍事同盟です。このときはドイツの快進撃の最中で、日本には「バスに乗り遅れるな」という雰囲気がある。松岡洋右は、日本がドイツ・イタリアと組んで集団安全保障体制を強化すれば、アメリカはこれ以上日本と対決することはないだろうと考えます。
しかしアメリカの構想はそれを上回る規模であることが、翌年1941.8月の大西洋憲章で明らかになります。逆にアメリカは日本と戦うチャンスをうかがっていたのです。
〇 この日独伊三国軍事同盟によってアメリカのルーズベルトとの関係は悪化します。しかしアメリカの国論は、国民の85%が戦争反対です。ルーズベルトは日本に宣戦布告できない。
ルーズベルトはイギリスのチャーチルと接近していきます。しかしイギリスとアメリカとの間に同盟関係はありません。その前にアメリカはまず国際連盟にさえ加盟していない。これでどうやって戦争したらいいのか。
〇 ドイツはアメリカを攻撃しているわけではないから、アメリカはドイツと戦う理由がない。
しかし日本と戦うことができれば、ドイツとも戦うことができる。日本とドイツの日独伊三国軍事同盟はアメリカがドイツと戦う絶好の理由を与えたのです。日本とドイツは、このあと軍事的な共同作戦をとることはありませんし、実質的には機能しません。しかしアメリカ側からすれば攻める理由になるのです。日本が先に手を出せば、アメリカはいつでも日本・ドイツと戦うことができる状況が生まれたのです。
【新体制運動】 近衛首相は、戦争体制固めとして新体制運動を始めていく。
もう政党はいったん活動を停止しましょう、挙国一致でやりましょう、一つの政党があればいいじゃないか、という。それでこの政党を大政翼賛会という。1940.10月です。ここで政党は解散しました。政党がすべて解散して、一つの政党になった。そして一つの政党のもとに、県、市、町、村、町内会、部落会、隣組、そこまで徹底して組織していく。しかしこうなると滅多なことは言えなくなります。この戦争勝てるのとか言うと「非国民」と言われて、しょっぴかれていく。滅多なことが言えない世の中です。
〇 それから労働組合も活動を停止しましょう、となる。翌月1940.11月です。これが産業報国会の成立です。報国というのは、先生に報告するんではなくて国に報いる会です。労働組合の消滅です。今はそれどころじゃない、ということで。
〇 これが日本のファシズム体制だ、というふうに、ヨーロッパでは言われるけれども、これはこの時点で、日本がどれだけ危機感を持っていたかという証しでもある。これは楽に勝てるとかまったく思ってない。しかし国民に負けるかもしれないと言うと、戦争反対になるからそうは言えない。これは本当に危機感をもってないと、やれないことなんです。
実際、この戦争で勝てるといった人もいないんです。でもやらざるをえない状況が生まれつつある。
〇 1941.4月からは、小学校も小学校じゃなくなる。国民学校という。このころ小学校を卒業した人は、小学校卒業じゃない。国民学校卒業です。
物資も、切符制・配給制になる。切符制というのは、お金のほかに切符がないとモノを買えない制度です。自由に物が買えなくなる。物が足らないから。
【日ソ中立条約】 さきの1939.8.23日にドイツがソ連と独ソ不可侵条約を結んだ。でもこれはドイツとソ連のフェイントであることが、このあとすぐに分かります。しかし日本はこれを信じて、ドイツに歩調をあわせてソ連と手を組みます。
それが1941.4月の日ソ中立条約です。これも外相の松岡洋右が結びます。松岡は日独伊にソ連を加えて、日独伊ソの四カ国で軍事同盟を組もうとします。つまり日独伊三国の集団安全保障体制にソ連を加え、それをさらに強固なものにしようとしたのです。この時点では、独ソ不可侵条約、日ソ中立条約、日独伊三国軍事同盟、この三つの条約に矛盾はありません。このことは、伊藤博文の日露協商論以来の流れと関係しています。
〇 軍部はこれで北方のソ連とは戦わないことになったから、北方にいた軍隊をみんな南に集中し、南進させようとします。
(太平洋戦争前の日本の国際関係)
〇 ここで注意すべきは、アメリカは日本の国際条約の枠のどこにも入っていないことです。日本が戦っているのは中国であり、日本軍が進駐したのはフランス領インドシナです。そしてねらっているのはオランダ領インドネシアの石油です。アメリカはこの関係の中で枠外にいて、日本と直接対立する立場にはありません。それがなぜ、日本がアメリカの真珠湾を攻撃することになるのか。そこの疑問点にだんだん近づいていきます。
【独ソ戦】 しかしその2ヶ月後の1941.6月に、ドイツはソ連と独ソ戦を開始します。これがドイツとソ連のホンネです。ここで日本の集団保障体制の三本柱の一つである独ソ不可侵条約が破綻したのです。これで日ソ中立条約が宙に浮く形になる。実効性を持たなくなる。ドイツとソ連が戦っているのに、日本はソ連と日ソ中立条約を結び、ドイツとは日独伊三国軍事同盟を結んでいるという矛盾です。この状態ではお互いが疑心暗鬼になり、日独伊三国軍事同盟も日ソ中立条約も機能しなくなります。
〇 ドイツにとってもこの独ソ戦は、戦力を西と東の二つに分けることになり、戦力の低下につながっていきます。この独ソ戦は第二次世界大戦の一つの謎です。表面上の理由はドイツとソ連が石油利権で対立したことになっています。
【日本の在米資産凍結】 アメリカにも日本移民がいっぱいいます。かなりお金持ちになっている日本人もいる。まだアメリカとは戦ってないです。戦ってないけれども、おまえたちは敵国民だといって、アメリカの在米日本人の資産を凍結し、強制収容所に送るんです。これが1941.7月の在米日本資産凍結です。ドイツがユダヤ人を強制収容所に入れたことは有名ですけど、アメリカが日本人を強制収容所に送って財産を没収したことは、あまり知られてないです。
【南部仏印進駐】 1941年7月28日、日本はさらにベトナム南部へ軍を進める。これが南部仏印進駐です。1年前は北部仏印だった。時は近衛内閣です。
【アメリカの対日石油輸出禁止】 その3日後の1941年8月1日に、アメリカが日本に石油一滴も売らない、と通告してきた。アメリカによる対日石油輸出禁止です。日本にとっては寝耳に水です。この間たった3日です。
〇 そこで、にわかに開戦論が出てきます。日本はそれまでずっと日米戦争を避ける方針でした。ただ、ここで石油が手に入らなくなると、このままではどうしようもないというジリ貧論が出てきます。このままでは座して死を待つだけだと。しかし勝てるとは一人も言えない。日本はそういう窮地に追い込まれたのです。「窮鼠、猫を噛む」状態です。追い込まれたネズミは猫を噛みに行く、という意味です。
〇 陸軍は開戦論です。海軍は消極論です。この海軍では、勝てるとしても1年以内の短期決戦しかないという。勝ち目は薄い。だから戦わないほうがいい、という。
しかし陸軍はちがう。1年以内の短期決戦しか勝算がないのなら、即座に戦うべきだと言う。軍部内での海軍の消極論は分が悪い。しかし国力差は、日本対アメリカで、1対77です。これは勝てないです。
〇 このあとすぐ、近衛首相は打開策を求めて、アメリカのルーズベルトに日米の首脳会談を申し出ます。しかしルーズベルトはそれを拒否します。
そしてルーズベルトは10日後にチャーチルと会う。ルーズベルトとチャーチルで、二国間で話し合いが行われている。そして1941年8月12日に大西洋憲章を発表します。憲章という難しい名前になっていますが、これはアメリカとイギリスの二国間の取り決めにすぎません。
〇 その間も日本はこの戦争の回避交渉はずっと続けます。それが野村吉三郎という駐米大使です。この人は有能な人なんですが、4ヶ月後の宣戦布告の暗号電文だけ、30分遅れて届けたことになっています。この間の事情は、誰も口を割らないです。
【ABCD包囲網】 そういったなかで、アメリカが石油を輸出しなくなると、オレも、オレも、オレもと、他の国もそれに倣っていく。1941年には、日本に対してABCD包囲網があっという間にできる。
Aはアメリカ、Bはブリテンのイギリス、Cがチャイナの中国、Dはダッチというのはオランダです。この4ヶ国が日本に経済制限をかける。この戦いは、最初から非常に厳しいですね。これではちょっと戦えないです。
しかし猫に追い詰められたネズミは死ぬとわかっていても、最後は猫に飛びかかっていく。「窮鼠、猫を噛む」です。出てくるのはそういう言葉です。
【東条英機内閣】(1941.10~44.7)
近衛文麿の次が東条英機です。東条英機内閣が組閣される。1941.10月です。近衛内閣の陸軍大臣です。
【ハル・ノート】 3か月間の交渉もむなしく、3か月後の1941.11月に、アメリカの国務長官・・・・・・大統領に次ぐナンバーツーの地位です・・・・・・のハルが日本に要求を伝えます。これをハル・ノートという。軽いメモ書きみたいな呼び方ですけれども、国家のナンバーツーが、他国の政府に文書を届けるということは、正式文書と同じです。
そこに何が書いてあったか。日本は出て行けという。まずフランス領インドシナから出て行け、それだけではなく、中国大陸から出て行け、さらに満州から出て行け、という。これは日本としては、ありえないことです。
ここまで言われると、日本は、これはやる気だな、と思う。あっちはやるつもりですよ、と。しかもこのハル・ノートは、アメリカ人にも知らされていない。あとで聞くと、マッカーサーさえ知らないものです。つまりこれはアメリカでさえ同意を得られていないものです。これは日本に戦争をけしかける動きです。
事実その通り日本は、ハル・ノートを事実上の宣戦布告だと、捉える。しかし、アメリカはイヤイヤそんなことはない、と言っている。でもこれは少なくとも最後通牒です。
※ ハル・ノートは、アメリカによる交渉打ち切りのための最後通牒です。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P120)
【太平洋戦争】 翌月12月1日に、御前会議つまり天皇の臨席のもとでの会議が開かれ、これだけのことを言われたらもうやるしかないでしょう、となる。誰一人勝てるとは言わないままです。それでもやるしかない、というのが太平洋戦争です。そんなことまで言われたらやるしかない、という感じです。
この太平洋戦争という名前も戦後、日本が負けてからアメリカがつけた名称で、日本は大東亜戦争といってました。大きな東アジアの戦争だという意味です。アメリカは、それまでどこにも出てきてなかったのですから。
〇 日本の戦争目的もここで、はっきり打ち出します。大東亜共栄圏の樹立を掲げます。大東亜とは東アジアです。東アジアはほぼヨーロッパの植民地になっている。ここは共栄してない。共栄させようじゃないか、ということです。
まずヨーロッパを追い払わないといけない。植民地をやめさせないといけない。
結果として、日本は負けたけれども、この最後の目的だけは達成する。戦後、アジアの国々は全部独立していきます。
【真珠湾攻撃】 開戦が1941年12月8日です。相手の軍港、ハワイの真珠湾を攻撃する。
結果的に30分の通告の遅れで、奇襲だ、騙し討ちだ、と言われることになります。その結果、アメリカでは「リメンバー・パールハーバー」、これが合言葉になる。「真珠湾を忘れるな」という意味です。オレたちは奇襲攻撃されたんだ、あの黄色いジャップ(日本人)は許せない、という。あれだけ戦争に反対していた国民が、一気にこれで戦争支持に変わる。奇襲とされたことの意味は大きいです。
〇 これには裏話があります。アメリカは、日本の暗号解読に、1年以上前から成功しているんです。だから、日本の情報は筒抜けだった。ルーズベルトも、真珠湾攻撃のことを本当は数日前から知っていたんじゃないかという話もある。攻撃目標のメインとされたアメリカ空母はすべて湾外に出払っていて、真珠湾内には一隻もいませんでした。こういう形で真珠湾攻撃は成功し、「トラトラトラ」の暗号電文が日本に打たれます。
※ アメリカの情報当局は、1940年8月に日本軍の暗号の解読に成功し、これまでに傍受した日本の暗号電報はすべて解読されていた。多くの歴史学者は、ルーズベルト大統領は日本軍の真珠湾攻撃計画を知っていたと信じている。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P193)
※ 戦後の東京裁判では、死刑に処せられた A級戦犯に海軍軍人は1人もいません。文官の広田弘毅を除くと死刑になったのはすべて陸軍軍人です。・・・・・・そもそも海軍の作戦は、最初からおかしなものばかりです。真珠湾を攻撃する必要があったのかどうかについても、きちんと検証する必要があります。・・・・・・南進するにしても、オランダ領のインドネシアの石油だけ抑える作戦にしていれば、アメリカは対日戦に参戦できなかったはずです。アメリカ国民は参戦に反対していましたから、オランダ領が攻撃されたのみでアメリカの領土が攻撃されていなければ、開戦の理由になりません。・・・・・・
ところが日本の海軍は、アメリカの領土である真珠湾に攻撃を仕掛けました。これでは、アメリカに参戦させるためにやったようなものです。作戦的に見ても真珠湾攻撃をする必要があったのかどうか非常に疑問です。・・・・・・しかも真珠湾攻撃は極めて中途半端なものでした。よく指摘されるように、石油施設は全く攻撃しませんでした。・・・・・・そのようなこともあって、山本五十六スパイ説というものまで出てきているわけです。・・・・・・しかも、真珠湾には老朽艦しかおらず、空母はすべて湾外に出ていました。・・・・・・真珠湾攻撃をさせるように周到に謀った者がいるのでしょう。それに呼応したのが日本の海軍です。
真珠湾攻撃については、東条英機首相ですら知らなかったと言われています。日本には統合参謀本部がありませんでしたから、海軍は独自に作戦を立てており、陸軍に伝えていなかったようです。・・・・・・さらに真珠湾攻撃から半年後にはこちらからミッドウェーにまで出かけていって惨敗を喫しています。・・・・・・最大の問題は、海軍が補給を確保しなかったことです。ガダルカナル島でも膨大な戦士者が出ていますが、ほとんどの戦死者は餓死によるものでした。・・・・・・海軍がとった作戦はおかしなものばかりです。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P139)
※ ヒットラーの野望が実りかけ、イギリスの運命が風前の灯火となったとき、アメリカは、ひそかに検討していた戦争作戦を開始した。1941年12月、アメリカの戦略に引っかかって日本が真珠湾を攻撃し、日米が開戦すると、三国同盟が適用されて米独間も戦争開始となり、アメリカはイギリス中心の連合軍の側に立って参戦することになった。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P101)
〇 しかし日本は、ハワイを攻撃したいわけではありません。本当に目指しているのは、東南アジアです。このあとアメリカ本土に進軍したわけでもない。だからアメリカ本土には、爆弾は一発も落ちてないです。
日本の作戦の中心は、このあと、まずイギリス植民地のシンガポール、これを同時に占領します。イギリス兵は追い出される。
次にはフィリピンに行く。ここはアメリカが植民地であった。アメリカ兵が追い出される。この時追い出されたフィリピン総督が、日本の敗戦後に占領軍の司令官になるマッカーサーです。
インドネシアはオランダの植民地であった。オランダ兵は追い出される。
そういうヨーロッパ人が追い出される姿を、東南アジアの現地の人ははじめて目の当たりにするわけです。
【内閣覚え方】 「平沼に アベック ヨーナイ ココハ ヒデー」
平沼に 平沼騏一郎内閣
アベック 阿部信行内閣
ヨーナイ 米内光政内閣
コ 近衛文麿内閣②
コハ 近衛文麿内閣③
ヒデー 東条英機内閣
これで終わります。
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