新説・日本書紀⑪ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)
2018年(平成30年)6月9日 土曜日
崇神天皇 日本書紀に卑弥呼現る
倭国の乱と疫病鎮まる
10代崇神天皇紀もまた、過激な巻だ。
そこには、疫病と反乱についてしか記されていない。
※(管理人注)
【10代崇神天皇の主な事績】
・崇神天皇は「御間城(みまき)入彦(いりびこ)五十瓊(いにえの)天皇(すめらみこと)」といい、「みまき」とは「任那(みまな)」のことである。そのことは、次代の「垂仁紀」に記されている。
「任那から来た天皇」という意味になる。
・疫病の祟りを恐れ、大物主神を祀る(書紀)
・四道将軍(四人の将軍)を各地に派遣する(書紀)
・崇神天皇の姑(おば)、倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)命が大物主神の妻になり、死後、箸墓に葬られる(書紀)
・加羅の王子、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が来る(垂仁紀)
・任那から蘇那曷叱智(ソナカシチ)が朝貢する(書紀)
崇神天皇の即位年を倭国大乱中の[174年]とすると、
崇神天皇3年(176年)に「都を磯城に遷す。瑞籬宮(飯塚市片島の若八幡神社か)という」。
同5年(178年)には「国内に疫病が多く、民の大半が死亡」し、同6年(179年)には「人民が流浪し、ある者は反乱した」。
天皇は天照大神と倭大国魂(=大物主神)の二神を宮殿内に祭り、神祇に罪を請うたとある。
同7年(180年)、天皇は八十万の神に尋ねると、大物主神が神明倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命に「我を祭れば国は治まるだろう」と告げた。ただ霊験はなく、
同8年(181年)には、天下に大物主神の子の大田田根子を捜すよう求め、茅渟県の陶邑(宗像市須恵)に捜し当てて大物主神を祭らせた。
すると疫病は終息、国内が次第に静まり、五穀は実り、人民がにぎわった。
※ 朝鮮の歴史書である「三国史記」の「新羅本紀」には次のような記述がある。
「173年、倭の女王卑弥呼が新羅に使いを遣わして、修好した」
※(古代倭王の正体 小林恵子 祥伝社 P84)
卑弥呼を含めた巫術者許氏一族は・・・・・・呉の支配する江南を一度出て南インド洋から東シナ海に入り、北上して奄美大島から北九州に亡命したと推定する。・・・・・・私は卑弥呼一族を受け入れたのは北九州で、大国だった奴国ではなく、卑弥呼の墓に比定されている平原遺跡のある伊都国だったと思う。
再び祭った神前で詠まれた歌がある。
「この神酒は わが神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久」。
歌中の「倭を造った大物主」は素戔嗚尊の子だ。
書紀の一節には「大国主神、またの名は大物主神、または国造りの大己貴命と号す」とある。
大物主が物部氏の真の祖先神とすれば、倭国の乱は、物部氏の祖先神を卑弥呼(=百襲姫)が祭ったことで終息したと考えられる。
※(ニギハヤヒ 戸矢学 河出書房新社 2016.2月 P139)
三輪山の神こそは長髄彦である。崇神王朝に祟りを為した「神宝」こそは、長髄彦の御霊代である天叢雲剣である。
※(ニギハヤヒ 戸矢学 河出書房新社 2016.2月 P139)
三輪山の神の名をオオモノヌシとするのは、尊称であろう。名前ではなく長髄彦の尊称だ。「偉大なる物部の主」という一種の代名詞である。それゆえに、本来は三輪山でしか用いられない呼び名であった。そしてウマシマジは神武に統治権を禅譲した。
※(オオクニヌシ 戸矢学 河出書房新社 2017.8月 P55)
ニギハヤヒ裏切りのくだりは、「国譲り」の比喩であろうかと思われる。
※(ニギハヤヒ 戸矢学 河出書房新社 2016.2月 P140)
オオナムヂを鎮魂するために杵築大社(出雲大社)を建立したように、長髄彦を鎮魂するために伊勢神宮を建立した。
※(ニギハヤヒ 戸矢学 河出書房新社 2016.2月 P140)
神武軍がヤマトに入る際に、各地で激戦があり、族長を殺害している。この時代、族長の多くは同時に宗教的権威でもあって、すなわちその一族の神である。・・・これらの神々を殺すことで、神武軍は征服を成し遂げていく。「神殺し」こそは、征服の証なのだ。・・・政治的には殺害する必要はなく、新たな神に代えれば、帰順したこととなるのだ。新たな神とは、アマテラスである。
同10年(183年)、武埴安彦と妻[吾田媛]が反逆の軍を興し、夫は山背、妻は大坂から都に侵入しようとする。
天皇は家来を派遣し、吾田媛の軍を大坂で破り、吾田媛とその兵を討った。山背にも軍勢を向けて[埴安彦]を射殺し、半数以上の兵を斬首。
同11年(184年)にようやく国内が安定したことが記されている。
この期間は、中国の史書の一つ「梁書」にある「霊帝の光和(178~184)中、倭国乱れ、相攻伐すること歴年」の時期と符合する。
古事記によると、崇神天皇は[198年]に没した。
箸墓伝説と卑弥呼の冢
崇神天皇紀には、大物主神と婚姻した[百襲姫命]の死を記した「箸墓伝説」がある。
大物主神の妻となった百襲姫命は、夜にだけ来る神に「朝に神の麗しい姿を見たい」と言った。
神は翌朝、「姫の櫛箱に入って居よう。私の姿に驚いてはならない」と答えた。
姫は翌朝、櫛箱にいた麗しい小さな蛇を見て驚き叫んだ。
人の姿になった神は「お前は私に恥をかかせた。私はお前に恥をかかせてやる」と空に上り、三輪山(香春岳)に帰った。
仰ぎ見て後悔した姫がドスンと座ると、箸で陰部を突いて死んだ。
時の人はその墓を「箸墓」といった。
※(「魏志倭人伝を解く」序章 福永晋三 同時代社 2021.9月 P396)
邪馬台国の女王卑弥呼は本を大物主を、つまり鷹羽の神々を祭った巫女王だった。狗奴国(くぬこく)卑弥弓呼(ひみくこ)に敗れたのだろうか、卑弥呼は責任を問われ自決したようだ(あるいは串刺しの刑に遭ったか。魏志韓伝には王は責任をとって殺されるとの記事が見える)。
この墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。[大坂山]の石を運んで造る。山から墓に至るまでに、人民が列を作って手から手へ渡して運ぶ。
時の人が歌って言うには「大坂に継ぎ登れる石群を手ごしに越さば越しかてむかも(いや、手渡しで越すことは決してできない)」。
「石群」が[行橋市]と[みやこ町]にまたがる「御所ヶ谷神籠石」を指すとすれば、そこから西にある大坂山を越えた[赤村]付近に箸墓が造られたことになる。
私はそれを赤村内田の巨大古墳型地形に見たのである。[魏志倭人伝]にいう卑弥呼の冢だ。
定説では、卑弥呼の共立は[200年]で、死去したのは[248年]ごろだ。
伝説によれば、百襲姫と卑弥呼との死去した時期にずれが生じる。この伝説が日本書紀の崇神天皇紀に挿入されたのが原因と思われる。
卑弥呼は[田川]に眠っているのだ。
新説 日本書紀「第12回(1/7) 崇神天皇 卑弥呼の影」(令和4年1月21日) 福永晋三
新説 日本書紀「第12回(2/7) 崇神天皇 卑弥呼の影」(令和4年1月21日) 福永晋三
新説 日本書紀「第12回(3/7) 崇神天皇 卑弥呼の影」(令和4年1月21日) 福永晋三
新説 日本書紀「第12回(4/7) 崇神天皇 卑弥呼の影」(令和4年1月21日) 福永晋三
新説 日本書紀「第12回(5/7) 崇神天皇 卑弥呼の影」(令和4年1月21日) 福永晋三
新説 日本書紀「第12回(6/7) 崇神天皇 卑弥呼の影」(太宰管内志、香春神社由緒)(令和4年1月21日) 福永晋三
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