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「市場原理主義」批判と「市場原理」 2

2010-06-12 21:16:36 | 小泉竹中改革
筑波学院大学紀要4 2009 「市場原理主義」批判と「市場原理」 より
http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2009/02SUZUKI.pdf


3.日本の自由主義政策と「市場原理主義」への方向転換

3.1 中曽根から橋本、小泉へ

レーガン、サッチャーによる自由主義路線への大転換期に、日本でも中曽根康弘が登場し、それまでの自民党内閣とはやや異なった政治経済路線をとることとなった。
歴史的に振り返ってみると財政において公共事業の占める地位は、後の小泉内閣時と比べれば、見直しと言うほどの転換はなされなかったが、初めて「行政改革」と言う言葉が大きく登場し、行政機構のムダという発想が表に現れた時期でもあった。
また、膨大な累積赤字をため込んだ国有鉄道を公共部門から切り離すことや日本航空の完全民営化等を行った。
同様に、専売公社、電信電話公社を、それぞれNTT、JT等へと民営化することを成し遂げた。
批判や抵抗は大きかったが、これは日本経済にとっては大きな節目となった。

橋本龍太郎内閣は、「財政構造改革」で財政赤字削減に挑み、消費税の税率アップを実行したが、不況への引き金となったということで批判を浴びることになる。
一方で、「行政改革」で22省庁を半分近くに整理する道に糸口を付け、「経済構造改革」に加え「金融システム改革」を訴え、英国のサッチャー政権による金融の「ビッグバン」にならい日本版「金融ビッグバン」を実施し、それまで大蔵省(橋本内閣時に財務省に名称変更決定)の規制行政が主軸であった金融部門の大幅な自由化、市場化を行った。

新自由主義やグローバリゼーションの波に乗るということでは、この橋本内閣の金融ビッグバンは日本にとっての端緒となった事柄である。
そこではキーワードとして
①フリー、
②フェア、
③グローバル

の三つが掲げられた。
まさにグローバルで自由な資本移動を標榜する言葉が並んでいる。
これによって、
外貨預金(外為法改正)、
ネット証券取引、
投資信託の銀行窓口での販売(業務分野規制撤廃)、
金融持ち株会社の合法化(独占禁止法)、
ペイオフ解禁、
証券総合口座
等が導入されることとなった。

中曽根内閣の行政改革と国営企業民営化はまだバブル経済の時期に実行されたが、橋本の金融ビッグバンは「平成大不況」のただ中であった。
その後も不況は収まらず、日本の経済低調時代は続いた。
結果的にはその最後半に不況を打開するという目的で、自由主義改革路線を標榜する小泉純一郎内閣が登場した。

3.2 小泉-竹中構造改革とポスト小泉

小泉とその中心的経済閣僚、竹中平蔵の掲げた政策の柱は「聖域無き構造改革」であった。
その思想はやはり「小さな政府と経済の自由化規制緩和」で、アメリカ政府から出さ
れた『規制撤廃および競争政策に関する日米間の強化されたイニシアティブに基づく米国政府年次改革要望書』と歩調を合わせるとも言われる13)。
その中身は
(1)「民間出来ることは民間に」、
(2)”地方に出来ることは地方に”の「三位一体改革」
(3)その他の規制緩和、
にまとめられる。

(1)は郵政民営化、道路公団民営化、政策金融機関の整理統合、競争入札の推進、公共施設運営の民間委託推進、などが大きな案件であった。
(2)は国庫からの補助支出金の廃止削減、地方交付税交付金の改革削減、地方への税源移譲など税源配分の見直しからなる。
いずれも国と地方の関係に関わるものである。
とくに郵政では、郵政公社が2007年に「日本郵便株式会社」になり、道路公団は2005年にネクスコなどに分割され、政策金融機関は2008年に日本政策金融公庫(特殊会社)に統合された。
小泉内閣以後、平成18年には安倍、19年には福田内閣が誕生しそれぞれ1年しか活動しなかったが、良し悪しの評価はともかく、小泉内閣のような強い自由主義的改革意志は持たずに終わってしまった。
また政治的には、小泉時代退潮にあった郵政民営化反対提唱者たちの“復活”が報じられている。


4.2008年金融危機

4.1 グローバル資本移動の転換点

2008年9月、米国四大証券のひとつリーマン・ブラザーズが破綻した。
原因は前年春から続いている、いわゆるサブプライム・ローン関連証券などによる損失をしのぐ体力がなかった事が理由と言われる14)。

今回の一件によって、自由な市場によるシステムはリスクを評価できないことが暴露されてしまった。
これまで余り意識されなかった自由市場の欠陥であろう。
さらにレバレッジをかける等して拡大した信用膨張の大きさも計測出来ないのである。
それは、通貨当局が真に事態を把握できていないことを意味する。
破綻はこのリスク商品を買ったEUの銀行を危機に陥れ、米国以下の株式市場で
(2008年10月中旬の今)、株価下落が続いている。
欧州ではかつて銀行危機の際日本が行った中央銀行の多額の資金提供、公的資金からの金融機関へ大がかりな救済、そして最終的には、日本でも竹中による不良債権対策として行われた資本の強制注入が行われようとしている。
米国も追随せざるを得ない状況になっている。

そもそも、公的資金を金融機関の救済などの目的で使うこと自体、反市場的な発想である。
米国では、税金の金融機関救済目的の使用に反発する人々の声が報じられている。
また、このような事態を招いたサブプライム関連商品を開発した金融界、その素ともなった住宅バブルを見過ごしたかつてのFRB幹部に批判の声が集中している15)。
なかでも国境を越えてサブプライム商品を多く買っていたと思われる欧州からは、自由な(短期の)資本移動を含む金融取引を野放図に推奨してきた新自由主義思想、グローバル資本主義、その根底を成す市場原理主義に批判の声が上がっている。
これは事態の推移からして当然のことである。

今回の事態を招いた商品の開発販売にかかわった金融機関とりわけ投資銀行などに規制が必要との声は、07年春夏のサブプライム問題発覚時にはすでに、米英以外の政府からは出てはいた。
“少額の資金でレバレッジをかける。”
あるいは「株式の空売り」等

すなわち自己資金の何倍もの借金でリスク商品を取引できること。
そのようなことがむやみに出来ないようすること等である。
しかし、1年ほど米国英国とも規制の必要を認めずに来て今回の危機に至った。
そもそも、本来は市場原理主義の問題と言うより、その中での金融活動の規制レベルの問題であった。
そこをゴリ押しして、規制論に耳を貸さなかった米国、英国に問題があったことは確かである。

今回ついに、とくにリーマンブラザーズ破綻以後、問題の中心米国自身が規制に向かう方針を表明し、問題解決にあたって外国の協力を仰ぎ、米国内では金融機関への資本の強制注入まで行うことになった。
そのためひとまず“野放図なグローバル資本主義”にブレーキをかけるという点で、G8はじめとする世界主要国の合意はできたものと思われる。

4.2 日本の実物経済への影響

影響という点では、日本の金融機関もサブプライム関連商品による損失を出している。
まだ確定段階ではないが、欧州の金融機関に比べれば損失は軽いという報じられ方をしている。
その一方、次のような影響が考えられる。

(1)米国経済の減速低迷により、輸出にブレーキがかかり成長、実物経済にマイナス。
(2)米国の消費、輸入低迷が中国や他国に波及し、日本から各国への輸出が減少。
(3)ドル、ユーロ等の下落で相対的に円高となり、輸出にはブレーキがかかり、輸出産業の利益も円高差損で減殺され、国民所得ひいては消費に悪影響。
(4)株式相場、不動産価格の下落による逆資産効果。
(5)米国金融危機以前からあった日本の不動産市場の不振が、金融系外国資本の撤退、縮小で加速。
(6)小泉政権時に持ち直したはずの成長率もここへ来ての腰折れで、疲弊した地域や低所得層に回る可能性があった(予算や補助金も含めた)経済的恩恵のトリックルダウンが期待できなくなり、さらに格差感が増すことが予想される16)。

08年10月中旬現在、現麻生太郎内閣はこのような事態に対し、1兆8081億円の補正予算を国会に提案し、議案は両院で可決された。

また、2兆円の財政支出が提起されている。
しかし上記効果が当面継続すると見られるので、今後どれほどの景気落ち込みになるか予断を許さない。


5.市場原理主義批判と現実

5.1 市場経済以外の選択肢

日本では小泉政権当時から規制緩和や民営化、とりわけ郵政三事業の民営化には反対の声が存在した。
また、外国資本の活動に対しても、その法理性や動機はともかく反発や非難、それを許す制度や行政への批判は報じられた。
このような場合、言論を通じての批判では、直接「小泉構造改革」や「規制緩和」の総論各論への批判とともに、それらの根底に存在すると“批判者たち”が認定する「市場原理主義」への批判、そしてそれを排除せよとの意見が伴う。
その際、必ずしもソロスが言うようなファンダメンタリズムとしての「市場原理主義」、
とくにグローバルな資金の自由行動を認めると言う意味での「原理主義」なのか、
単に市場競争の「行き過ぎ」を批判しているのか、
それとも、市場での価格競争が経済活動の基本であること自体にクレームを付けているのか曖昧である。

日本経済の基本は、市場の価格競争にあったはずである。
様々な規制や公的機関の介入、経済政策、自由に対する数多くの例外措置は必要な限り存在してきたが、基本は市場原理によって運行されてきたことは間違いない。
学問的にも(厚生経済学)、経験的にも、市場経済による生産要素も含めや財サービスの配分について、それ以上の効率はないと言うのが我々の基本的理解であったはずだ。

では、”彼ら”は何をせよといっているのだろうか。
外国の投資資金の行動自由を法律で規制せよと言うのか。
公正取引委員会は別として、M& Aには公的機関の許認可で網を掛けろと言っているのだろうか。
民営化した郵政事業を、再び公営化せよと言っているのだろうか。
等々、非市場的方法を導入せよと言う声の種類だけは多数多様である。
しかし、多くの場合、市場原理によって生きている日本の経済を全否定するものはいないだろう。

多くは、自分が主張する領域だけは別と考えているようである。

5.2 改良主義

今回08年9月の金融危機を受けて、それまでリスクのある金融商品やファンドの活動への規制に消極的だった米国や英国も、新たな規制の制定を認めることになった。
一方で、大方の国境を越えた金融活動に、基本的な自由は残されており、またそれが否定されることは今後もありえない。
また国内での個々の経済活動についても、規制が解除されてきた経緯が逆回転することは考えにくい。

このように、現実の経済運営は、市場原理による運行を基本としながら、リスクの高いこと、一般的不正の温床になりそうなこと、官僚や一部の利益団体の不当な権益に関わる事項や国益に反する事項などについて、これらすべてについて監視を繰り返して行くしか方法がない。
最終的には立法府が更にその上から監視とチェックを行ってゆくしかない。

また反対に、教育のような明らかに市場原理のみの視点では運営に問題がある分野においては、「価格競争」ではないと言う意味で市場の議論からははみ出している「競争」がある。
これを強要するような状況には、早急に見直しを行うべきだろう。
ただ、それは選挙を通じた議会を通じて国民がコントロールするほかに手がない。
手遅れの可能性もある。

5.3 政治性の過小評価とアメリカニズム

市場原理主義、あるいはグローバル資本主義の有様については、もうひとつ別次元の問題が存在することを指摘しておきたい。
それはアメリカニズムと切り離せないのではないかということである。
結局、市場原理が世界に広まったのは国際政治の観点から言えば、はじめに英国、次いで米国の影響力による貢献が大きいことは間違いない。
無論、米英西欧以外の各国が最終的には、近代市場経済のメリットや自由資本主義による企業社会の効率性を認めたから今日のグローバル経済があるのだが、
その“布教”に彼らの果たした役割は小さくない。
日本の例を見れば、幕末の開国つまり近代国際貿易への参加強要から始まり、第二次大戦後の経済開国つまり貿易や資本の自由化について、良し悪しはともかく、米国の“忠告”や“圧力”または“恫喝”の果たした役割は大きい。
その時の米国の行動には覇権主義のほかにも、宗教的な感覚からくるであろうお節介な利他主義、その根底にあるアメリカニズムがあるだろうことは想像できる17)。

国際貿易での市場原理と対処し、グローバル資本主義での金融資本の自由な活動に監視や規制を加えるとき、現実問題として米国との間で政治的、文化的問題を解かねばならないということはどの国でも経験している。
金融危機後のこれからも多分継続することだろう。
この点は経済交渉の表で議論できない可能性が高い分だけ厄介である。
そして、例えば「日本には長く食肉の習慣はなかった。」等と言っても牛肉の輸入を拒否できないように、非経済領域的理由をもって、経済交渉全般を拒否できないのである。
従って、この市場原理主義の問題で、政治的文化的問題つまり、非経済的領域の関連を軽視することも、現実には危険である18)。


6.まとめ

(1)市場原理の広範な経済への適用や資本のグローバリゼーションは依然必要であるが、社会の非経済的部分(伝統、文化、習慣、一般生活)に対する影響を十分に考慮して適用されるべきである。
伝統的な新古典派経済学の競争市場論は、純粋な資源配分システム論であり、その実践が社会生活にたてる波風をいちいち考慮していない。
しかし、より多くの人々を総体として豊かにするには、自由な市場という方法を用いる以上のシステムは見つかっていない。
自由主義的政策は運用の仕方が問題で、とくに公正な分配や、金融市場の安定性確保ということについては通常の運用では保障されていないとみるべきである。
それをチェックするのが民主主義的議会やメディアの役割である。
非経済的部分から市場原理への理不尽な攻撃にも注意すべきで、それを最終的にバランスさせるのは議会やメディアの上に立つその国の国民である。

(2)市場の力は万能であるとして、資源配分から所得の分配ひいてはそれが作り出す社会的影響まで含めて、すべて市場の価格競争システムにゆだね、その結果を受け入れるべきだというのが市場原理主義である。
その地球規模つまりグローバルな適用に多くの反感と懸念が寄せられていることは事実である。
とくにその推進者である米国の圧力に対する批判は、海外ばかりでなく米国内の有力な識者からも出ている。
とくに2008年9月の世界金融危機は、イラク政策への批判ともあいまってそれを加速させる可能性がある。

(3)新古典派の経済学は純粋な経済モデルによって、資源配分と効率性を論じただけであるのに、いつのまにか英国や米国の国際戦略の柱を担い、米国などとは違った様々なフェーズの諸国への圧力となってしまった。

また、今回の金融危機はこれまでの米国への貯蓄資金の流れを逆流させ、経済的な側面から、政治的局面を変化させる可能性があり、ある意味での危険を孕むことを考慮しなければならない。

(4)市場原理の透徹は時として、周辺の社会システム(人的組織、地域、生活様式や文化も含めて)を破壊したり、大きな影響を与えることがある。
それが全ての人々に悪い影響を与えるとは限らないが、それも含めどのような影響があるのか詳細な検討はまとまっていない。
ただ、”市場原理主義者”とその守護神であるアメリカは、あまりにも強く各国に市場原理での経済運営を押しつけ過ぎた可能性がある。

(5)日本での市場原理主義批判は、時として対象が曖昧で、そのため批判本来の目的が果たせてないとしか思えない場合も多い。

現実には個別のケアというレベルで緻密に対応するしかないが、国民には批判派、擁護派双方を監視する必要がある。
また教育の競争(大学間の競争、個人間の成績競争)を安易に経済的な競争と同一視することは危険である。

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