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新説・日本書紀⑫ 垂仁天皇① 卑弥呼の時代、埴輪を創始 福永晋三

2024-08-04 06:33:32 | 新説 日本書紀

新説・日本書紀⑫ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)月日 土曜日

垂仁天皇① 卑弥呼の時代、埴輪を創始

筑豊の「纏向」はどこに

11代垂仁天皇は、書紀の系譜に沿えば、[魏志倭人伝]中の卑弥呼と同時代の天皇に当たる。
この巻は数々のエピソードに彩られ、卑弥呼の時代の筑豊の姿がしのばれる。

※(管理人注)
【11代垂仁天皇の主な事績】

・殉葬を禁じ、埴輪をつくる
・皇后の兄、狭穂彦王(さほびこのみこ)の謀反(書紀)
・加羅の王子、都怒我阿羅斯等ツヌガアラシトが来る(書紀・崇神天皇の時)

・新羅の王子、天日槍アメノヒボコが来る(書紀)
・天照大神を伊勢に祀る(書紀)

書紀によれば、垂仁は[212年]に即位。
翌年に[狭穂姫]を皇后とした。
同年、「纏向に都つくる」とある。
[邪馬台国近畿説]が強調する奈良県桜井市纏向遺跡と同名だ。
ただ、奈良県纏向は「古語拾遺」や「延喜神名式」などにはすべて「巻向」と記されている。後世、書紀に合わせて「纏向」と表記したようだ。
筑豊の「纏向」は未だ判明していない。

[215年]9月、皇后の兄狭穂彦王は謀反を計画し、皇后に「兄と夫とどちらが愛しいか」と迫る。
皇后が「兄が愛しい」と言うと短剣を渡し、「天皇の寝首をかけ」と命じた。
皇后は10月、高宮(飯塚市伊岐須の高宮八幡宮か)で膝枕に昼寝していた天皇を刺そうとするが、涙がこぼれる。
天皇は顔に落ちたその涙で目覚め、皇后から狭穂彦王の反乱を知った。

天皇はただちに軍を差し向け、[狭穂彦]も軍を興して防いだ。
稲を積み作った城は、堅くて破ることができない。
「稲城」と記された地は、嘉麻市漆生の稲築山だろうか。

1カ月を超えても降服せず、皇后は夫と兄との間で苦悩し、ついに皇子を抱いて兄の稲城に入った。
天皇は「皇后と皇子を出せ」と交渉するが出てこず、城に火を放った。
皇后は城を出て皇子を渡すと城に戻り、狭穂彦と燃え盛る城中で死んだ。

魏志倭人伝によれば、書紀にある狭穂彦の乱は、卑弥呼の在位中に起きたことになる。
垂仁天皇は、卑弥呼の弟に当たることも考えられる。


初の製造地は桂川町

垂仁天皇の時代に、野見宿祢という人物が活躍している。

[218年]、当麻邑に[当麻蹶速]という力自慢の者がいた。衆人の中で「生死を問わず、ただ力くらべをしたい」という。
天皇はこれを聞き、相手になる力士を捜し、[出雲国](飯塚市平塚出雲周辺)の勇士野見宿祢を選んだ。
書紀に「当麻蹶速と野見宿祢と捔力らしむ」とある。相撲の起源だ。
「各々足を挙げて相蹶む」とあるのはキックボクシングのようだ。
野見宿祢が当麻蹶速のあばら骨を砕き、腰を踏み折って殺した。
天皇は当麻蹶速の地を野見宿線に与え、野見宿祢は天皇に仕えた。

[239年]、天皇の弟の[倭彦命]が死んだ。
この際「集めた近習の者すべてを生きたまま陵の周囲に埋めて立てた」とある。
日を経ても死なない者が昼夜悲しげな声を上げて泣いたが、ついに死ぬと犬や鳥が遺体に群れた。
天皇はこれを悲しみ、以後殉葬を止めよと言ったとある。
魏志倭人伝には、卑弥呼の墓に「殉葬する者奴婢百余人」とあるが、倭彦命の記事と合致することは明らかだ。

その2年後、皇后[日葉酢媛命]が死んだ。天皇は殉葬を止めようと群臣に相談する。
野見宿祢が良策を思いつく。
彼は使者を派遣し、出雲国の[土部]100人を呼び寄せた。
自ら指揮して粘土で人、馬、家などを作り、天皇に献上した。
「今後、この土物を生きた人に換えて陵に立て、後の世のしきたりに」。
天皇は[土物]を皇后の墓に立てた後、人を傷つけてはならないと命じた。
野見宿祢には陶器を造る土地と土部の職を与え、[土部臣]とした。土物、つまり埴輪の起源だ。
埴輪を最初に造った場所は「桂川町の土師」で、古墳と埴輪の取り合わせは筑豊が発祥の地だ。
卑弥呼の墓が最後の殉葬墓とすれば、後継者の台与の墓からは埴輪を立てたことになる。






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