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新説・日本書紀⑭ 景行天皇① 卑弥呼の死後の乱の正体 福永晋三

2024-08-04 06:31:55 | 旧日本史1 古代

新説・日本書紀⑭ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)

2018年(平成30年)7月21日 土曜日

景行天皇① 卑弥呼の死後の乱の正体


豊国の土蜘蛛を北伐

[247年]、[帯方郡]の太守に王頎が着任した。
倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ)と以前から仲が悪く、
使者をが治める帯方郡に遣わし、攻撃されている様子を伝えた。
この報を受けて、帯方郡からは国境警備の属官が、女王への使者に詔書と黄色の旗を持たせて、倭へ派遣した。

ただ[248年]、事態は悪化する。世に知られる[魏志倭人伝]の一節だ。

「卑弥呼以て死し、大いに冢を作る。径百余歩なり。殉葬する者奴婢百余人なり」

魏志倭人伝には、卑弥呼の死後、代わって男王を立てたが、国中が従わず殺し合い、当時千余人が死んだ。
そこで卑弥呼の一族の娘、台与(とよ)という13歳の少女を王とすると国がようやく治まったと記されているが、
この乱を表しているのが、景行天皇紀にある「熊襲と土蜘蛛の反乱」であろう。

(古代史 闇に消えた謎を解く 関裕二 PHP P200)
 北部九州の一帯には、「豊比咩(とよひめ)(豊姫)」を祀る神社が方々にある。特に、筑後川流域に多い。・・・・・・「豊比咩」とは、卑弥呼に次いで邪馬台国の女王となった台与のことと考えられる。

※(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 古賀達也 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P53)
 本稿では『風土記』と地方伝承の多元史観による分析で、ある人物の同定を試みた。その人物とは、『肥前国風土記』に「世田姫」と記され、同逸文では「與止姫(よとひめ)」あるいは「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」とも記された、肥前国一宮河上神社(與止日女神社)の御祭神である。ちなみに、近畿の大河淀川の名はこの與止姫神を平安初期に勧請したことに由来しているという。そして、この『肥前国風土記』や地方伝承に現れた與止姫に比定した人物は、卑弥呼の宗女邪馬壹国の女王に即位した壹與である。『魏志倭人伝』に記された倭国の二人の女王。その一人、卑弥呼が『風土記』に甕依姫(みかよりひめ)として伝えられているなら、もう一人の女王壹與が『風土記』に記されていたとしても不思議ではない。幸いなことに、壹與に比定を試みた與止姫は現在も地方伝承として、あるいは後代史料に少なからず登場する。

※(管理人注) 「トヨの国」がどうなったか。「トヨの国」といえば「の国」で、「豊前」と「豊後」ですが、北九州から大分まで全部「豊の国」です。奈良時代の道鏡事件にみるように、「豊前」の宇佐八幡宮がなぜあんなに力をもっているのか。宇佐八幡には神功皇后とその息子の応神天皇が祭られています。


記述に沿うと、大分県から田川地域に残る地名と符号しているのが分かる。

垂仁天皇の皇子、景行は日向国(宮崎県)から碩田(おおきた)国[速見邑](大分県速見郡周辺)で速津媛を帰順させ、現地の土蜘蛛を退治して北上する。
菟狭(うさ)の川上(大分県宇佐市の駅館川周辺)の鼻垂(はなたり)
御木の川上(同県中津市、豊前市、上毛町を流れる山国川周辺)の耳垂(みみたり)
緑野の川上(添田町深倉の深倉川周辺)の麻剥(あさはぎ)
高羽の川上(田川市の彦山川周辺)の土折猪折(つちおりいおり)の各土蜘蛛を退治した。

田川市[夏吉]の[若八幡神社]に祭られる神夏磯媛(かむなつそひめ)も、
磯津山(香春町鏡山四王寺ケ峰)の賢木を抜き、「八握剣・八咫鏡・八尺瓊」を枝に掛けて、帰順した。



景行は狗奴国の王か

景行が進んだ宇佐から香春に至るルートは、不思議と神武天皇の[第2次東征]とほぼ同じだ。
また、神武の死後、後を継いだ[手研耳命]はわずか3年で暗殺された事実もある。
狗奴国が邪馬台国と対立していたことや、北伐の地が邪馬台国の領土だったことと重ね合わせると、景行は狗奴国の男王卑弥弓呼ではないか。

景行は香春を治めた後、豊前国の長峡県(ながおのあがた)(行橋市の長峡川周辺)に進み、行宮(かりみや)を建て(みやこ)と呼んだ。
現在の京都(みやこ)の起源となったその行宮は、行橋市とみやこ町にまたがる[御所ヶ谷神籠石]にある[景行神社]だ。

北伐はさらに続き、
海石榴市(つばきち)(行橋市長尾の椿市小学校付近)、
祢疑山(ねぎのやま)(北九州市小倉南区の貫山)の土蜘蛛を滅ぼす。
柏峡の大野(同区の朽網)に宿った。そこに大石があり、天皇は誓いを立てる。
「私が土蜘蛛を滅ぼすことができるなら、この石を蹴る時に柏の葉のように上がれ」と。
蹴ると石は大空に上がり、「踏石」(ほみし)と名付けた。現在の朽網の[帝踏石](たいとうせき)だ。北伐のルートにはまさに足跡が色濃く残っている。

ところで、「緑野の川上」の土蜘蛛については、日本書紀と異なる現地伝承がある。[添田町史]にある「緑川の話」だ。

景行天皇の皇子[日本武尊]の軍勢が、彦山川の上流に勢力をはる土折居折の軍を破って、[血みどろ川]と呼ばれるようになったという。
土折居折が日本武尊から討たれた伝承は田川市猪国の[猪膝]地区にもあり、土折居折を斬った太刀を洗った太刀洗の井戸が同地区の道路脇にある。

土折居折を退治した人物が、なぜ日本書紀景行紀では景行、これらの伝承では日本武尊なのか。
この謎については、次回で明らかにしたい。







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