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父、逝く(自分メモ)

2016年02月12日 | 旅行(帰省編)
随分日にちが経ってしまいました。続きを書いておこうと思います。(長文)

退院の日にちが決まって、自宅での受け入れ準備を整える。母一人では大変なので、訪問看護士さんに毎日来ていただくようお願いした。排便の補助、着替えなど手伝ってもらえることになり、少し安心。父の容態は、今すぐどうかなるというわけでもなさそう。との入院先の医者の言葉に安心して一旦私は島に帰ることにした。今というのが数日ということだったのかもしれないが、素人の自分たちにはわかるはずがない。なぜなら、父が気分の良い時は受け答えもしっかりして、食欲もあったので。

そして、私が帰った数日後、無事退院して本人は大喜び・・・したのも束の間、再び熱が出てくる。急いで母が訪問の医者を呼ぶが、本人がステロイド点滴を拒む。もう注射はこりごりだと言う。今思えば、この時本人も覚悟したのかもしれない。

母と医者の相談の結果、辛さ、苦しさだけは、できるだけ除いてあげたいので、本人には告げずモルヒネを始めることになった。モルヒネを開始したら肺の病気の場合、早い人で1日後に亡くなることもある。と、脅かすものだから、私は、急いで戻ってきた。1週間前に帰ったばかりの娘が、こんな年の押し迫った年末に舞い戻ってくること自体おかしいと思っただろうに、父は何も言わない。
サラリーマンの兄も頻繁に見舞いに来るようになり、実家で寝泊りも始めた。父は気分の良い時には、兄に今まで何も話してこなかった自分の家系の話を必死で伝えていた。どこかで伝えておかねばと気になっていたらしい。来年の大河ドラマの話もしていたので、本人としては、そのうち死ぬとは思っていたが、こんなに死が迫っていたとは思っていなかったようだった。

そして、モルヒネが始まった。てっきり注射だと思っていたら、初めは座薬と飲み薬だった。ステロイドの効果が残っており、かろうじて体調が戻り、モルヒネも良く効いて不思議なぐらい呼吸が楽になった。母と「このまま穏やかに逝けるといいね」などと話していた。

が、そんなに甘い話はないのである。次第に熱も出るようになり息も荒くなってきた。食欲が全く無くなった為、薬を飲むのもできなくなりお腹に針を刺して、そこからモルヒネを挿入する方法がとられるようになった。医者からも無理に水も飲ませなくても良い。と、言われて、いよいよ終末を迎えているのだと実感する。

しかし、ウチの父は、若い頃から目が見えなくなるまで、暇さえあればカメラ担いで山登りしていて基礎体力と肺活量が人並み以上にあったので、これがまた、ギリギリまで強いのだ。呼吸も苦しいはずが一生懸命呼吸法を実践して寝返りすら自分でできる時はしていた。が、はたから見る限り息が荒くて苦しそうだった。酸素吸入は必要ない程度に酸素もとれており、看護師さんは明るい顔でまだまだ大丈夫ですよ!って。

年末だったので、家族は正月迎えるんじゃないか?と、本気で思っていた。正月から医者や看護師さんに来てもらうのも何だか悪いね。とか、言いつつも、医者の長くて1週間というタイムリミットが12/31だったことが気になりつつ、30日を迎えた。いよいよか?と、相棒氏にも来てもらう。31日昼には兄の子供たちとも言葉を交わす。

15:00頃、意思の疎通ができなくなった。訪問看護師さんに診てもらうと、あと数時間。看護師さんが帰った後は、母、兄、相棒氏と4人で見守る。手足が冷たくなってくると、さすがに涙が止まらない。それでも最後の砦の丈夫な心臓が脈を打っていた。

17:00頃だったかな?すぐに頭が右に傾いてしまうので、母がいつものように頭をくいっと真っ直ぐに直してあげた。と、その時です。父の呼吸が止まりました。

なんてこと!?最期に三途の川を渡るために母が舟を押し出したのだった。


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