はてなばばあ

気まぐれに自分メモ的に書いてます。

その後(おしまい)

2016年02月12日 | 旅行(帰省編)
なんてまあ、タイミング良く旅立ったことでしょう!あと少し遅かったら除夜の鐘が鳴ってる時に医者呼んだり、お坊さん呼んだり、葬儀場に連絡したりしなくてはならなかった。
とはいえ、急いで医者を呼び、死亡診断書を書いてもらい、葬儀屋に来てもらい、火葬の日にちを決め、ほろ酔い気分の坊さんに来てもらい、気がついたら年が明けていた。年末年始に亡くなるといろいろ大変でした。葬儀場も空いてなくて火葬場も休みだし、結局2晩も自宅で安置することになり、やっぱり正月をみんなで迎えたのだった。喪中になってしまい、母などは世間のおめでたい場所には行きたくない。としばらく言っていた。

生前から家族葬と決めていたが、近くの親戚は呼んだほうがいいか?近所の連絡は?と、悩む必要もなく、ちょうど日にちが日にちなので、正月明けてから事後報告で済ませることができたのも父が日にちを選んで逝ったとしか思えない。兄も仕事が休みの年末年始だったし。私も暇なシーズンオフで自由に動けた。

去年の春からカウントダウンは始まっていたのに並々ならぬ頑丈な身体だったのだ。医者がいうには、絶対しんどかったはずなのに弱音を一度も吐かなかったですね。って。薬の影響でワガママ暴君にはなったけどね。しかし、病院で死を迎える場合と比べて自宅で看取るというのは、思っていたより大変なことだった。症状は刻一刻と変わるし、対処する家族も何もかも初めての経験で、本人の気持ちと家族の気持ちのギャップ。死を待つような複雑な心境。

1番困るのが、間質性肺炎の病気の症状の複雑さ。数時間前まで普通だったのが、いきなり全身の力が抜けて動かなくなること。ステロイドの薬が効くと魔法のように頭がハッキリして食欲がわくこと。緑内障の目が見えなくなったこと。そして、一体どうなったら終末なのか?その目印は何なのか?酸素は足りているのに悪いのか?血圧?脈?数値をネットで調べまくって状態を素人なりに確認する日々。個人差という難しさ。すべて終わった後では何だか遠いことのようだ。

しかし、今回肉親の死を間近で観察できたことは、ものすごく良かった。人間はこうやって枯れて死んでいくのか。そして灰になる。死生観というか、人間、身体、生きてること、死んでいくこと。みんないつかは死んでいく。さっきまで生きていた人も。自分も。死んだらおしまい。何もできない。生きてるだけで儲けもん。もうちょっと頑張って、やりたいと思うことがあるのならやりましょう。先のことは頑張った分だけは何か変わるはず。そう信じていくしかない。

そんなこと考える今日この頃です。

父の介護中の笑ネタを最後に。
ある日、兄に任せて母と二人で買い物に出かけていた時のことです。口が乾きやすいので唇や口腔内に塗るジェルがあるのですが、父が兄にそれを塗ってくれと頼んだら、不慣れな兄は、そのジェルがどれだか知らず、近くにあったジェルをみつけて「これか?」と、父に聞いたらしい。父は目が見えないので舐めさせたら「なんかいつもと味が違うけど、いいや、それで」と、それを口に塗ったそうだ。
私たちが帰ってみたら、それは座薬を入れる時に座薬の先に塗るものだったのだ~!!!!!
不謹慎ですが、もう、お腹抱えて笑った。笑った。看護師さんにも白状したけど、何度思い出しても笑えるので葬式中にも思い出して困った。知らぬは仏様だけ~
いやはや、ネタとして家族間では語り継がれることでしょう・・・


父、逝く(自分メモ)

2016年02月12日 | 旅行(帰省編)
随分日にちが経ってしまいました。続きを書いておこうと思います。(長文)

退院の日にちが決まって、自宅での受け入れ準備を整える。母一人では大変なので、訪問看護士さんに毎日来ていただくようお願いした。排便の補助、着替えなど手伝ってもらえることになり、少し安心。父の容態は、今すぐどうかなるというわけでもなさそう。との入院先の医者の言葉に安心して一旦私は島に帰ることにした。今というのが数日ということだったのかもしれないが、素人の自分たちにはわかるはずがない。なぜなら、父が気分の良い時は受け答えもしっかりして、食欲もあったので。

そして、私が帰った数日後、無事退院して本人は大喜び・・・したのも束の間、再び熱が出てくる。急いで母が訪問の医者を呼ぶが、本人がステロイド点滴を拒む。もう注射はこりごりだと言う。今思えば、この時本人も覚悟したのかもしれない。

母と医者の相談の結果、辛さ、苦しさだけは、できるだけ除いてあげたいので、本人には告げずモルヒネを始めることになった。モルヒネを開始したら肺の病気の場合、早い人で1日後に亡くなることもある。と、脅かすものだから、私は、急いで戻ってきた。1週間前に帰ったばかりの娘が、こんな年の押し迫った年末に舞い戻ってくること自体おかしいと思っただろうに、父は何も言わない。
サラリーマンの兄も頻繁に見舞いに来るようになり、実家で寝泊りも始めた。父は気分の良い時には、兄に今まで何も話してこなかった自分の家系の話を必死で伝えていた。どこかで伝えておかねばと気になっていたらしい。来年の大河ドラマの話もしていたので、本人としては、そのうち死ぬとは思っていたが、こんなに死が迫っていたとは思っていなかったようだった。

そして、モルヒネが始まった。てっきり注射だと思っていたら、初めは座薬と飲み薬だった。ステロイドの効果が残っており、かろうじて体調が戻り、モルヒネも良く効いて不思議なぐらい呼吸が楽になった。母と「このまま穏やかに逝けるといいね」などと話していた。

が、そんなに甘い話はないのである。次第に熱も出るようになり息も荒くなってきた。食欲が全く無くなった為、薬を飲むのもできなくなりお腹に針を刺して、そこからモルヒネを挿入する方法がとられるようになった。医者からも無理に水も飲ませなくても良い。と、言われて、いよいよ終末を迎えているのだと実感する。

しかし、ウチの父は、若い頃から目が見えなくなるまで、暇さえあればカメラ担いで山登りしていて基礎体力と肺活量が人並み以上にあったので、これがまた、ギリギリまで強いのだ。呼吸も苦しいはずが一生懸命呼吸法を実践して寝返りすら自分でできる時はしていた。が、はたから見る限り息が荒くて苦しそうだった。酸素吸入は必要ない程度に酸素もとれており、看護師さんは明るい顔でまだまだ大丈夫ですよ!って。

年末だったので、家族は正月迎えるんじゃないか?と、本気で思っていた。正月から医者や看護師さんに来てもらうのも何だか悪いね。とか、言いつつも、医者の長くて1週間というタイムリミットが12/31だったことが気になりつつ、30日を迎えた。いよいよか?と、相棒氏にも来てもらう。31日昼には兄の子供たちとも言葉を交わす。

15:00頃、意思の疎通ができなくなった。訪問看護師さんに診てもらうと、あと数時間。看護師さんが帰った後は、母、兄、相棒氏と4人で見守る。手足が冷たくなってくると、さすがに涙が止まらない。それでも最後の砦の丈夫な心臓が脈を打っていた。

17:00頃だったかな?すぐに頭が右に傾いてしまうので、母がいつものように頭をくいっと真っ直ぐに直してあげた。と、その時です。父の呼吸が止まりました。

なんてこと!?最期に三途の川を渡るために母が舟を押し出したのだった。


続きです。(長文)

2016年01月11日 | 旅行(帰省編)
在宅介護を始めた時には、容態が悪化しても救急車を呼ばず最期まで自宅で看とると決めていたけれど、次々に問題が発生する中で、これが一体いつまで続くのか?という言いようもない不安に苛まれ、病院に入院しても特別に治療できることはないけれど、一旦家族の体力と気力を回復させる為に入院してもらった。

入院時に色んな検査をされたので、現状の把握が医者はできたと思うのだが、本人はもちろん家族にもハッキリとは何も告げられず、あやふやなままでの入院生活が始まった。目が不自由な為、食事の介助など世話が必要だったので母が朝昼晩と病院に通ったが、母としては気が休まる時間が取れて夜も起こされずにぐっすり眠れるようになり、少し元気を取り戻した。

父は救急車で運ばれた後は、アチコチ検査されて点滴につながれベットも古いタイプの手動だったので自分ではベットを起こせず完全に自由が効かなくなった。
大部屋しか空いてなかったので窓のないカーテンで仕切られた暗い部屋での生活。夜なのか?昼なのか?すらわからない。ステロイドを大量に投与されると毎晩幻覚を見て不安が倍増、看護士さんに薬を飲ませてもらう時にも疑心暗鬼になって暴言を吐いたりしたらしい。

薬の影響もあり、しょっちゅう口が渇くのだが目が見えないので誰かに水を取ってもらわねばならず、夜はナースコールすらどこにあるのかわからなくなって混乱したらしい。時間もわからないので、視覚障害者用の音声で時間を告げる時計をベットの上に置いておくのだが、それも行方不明になり探しまくる。
自宅ではラジオをつけっぱなしにしていたので唯一の楽しみはラジオを聴くことだったのに、大部屋ではイヤホンを付けなくてはならず、それがまた行方不明になる。
慣れるまでは実に不便でかわいそうだった。全てのモノをベットの柵に縛り付けたり手に紐でくくったり、工夫をすればだんだん解決していったが、焦って動くたびにオムツが外れて朝まで濡れたままの状態で過ごした日々が辛かったと思う。

さて、治療の方は、ステロイド点滴の大量投与を3日続けると一旦回復して食欲が出て普通に会話をするようになる。すると、なんで入院してるのか?と疑問に思えるぐらい元気になる。とはいっても自分では立ち上がれないし歩けないんだけど。医者に「調子はどうですか?」と聞かれれば「まあまあです」と答えていた。後で本人に聞いたら「そう答えておけば問題ないだろ?」だって!まったく!

しかし、その回復も2日が限度で、すぐに具合が悪くなり熱を出す。すると点滴が始まり悪夢の繰り返し。もうステロイドが効かなくなってきたことを確信した。ジェットコースターみたいな体調に振り回されて、家族は気持ちのやり場がない。良くなることはないので、これを繰り返しながら徐々に悪くなり最期を迎えるだけの未来に呆然となった。
いつまで?この先どうなるのか?インターネットでひっきりなしに病状を照らし合わせてみたりしても不安は無くならず、本人が帰りたがったので、一か八かと医者に言われながらも退院させて自宅に戻した。

(つづく…)

突発性間質性肺炎の在宅介護を終えて(1)

2016年01月10日 | 旅行(帰省編)
ちょっと話がとんでしまいますが・・・

年末に亡くなった父の病気、突発性間質性肺炎というやっかいな病気のことについて少しメモしておこうと思います。

誰でも医者から病名を告げられると、まずはネットや本などで病気のあらましを調べるわけだが、この病気についての詳細な情報がなかなか手に入らなくて苦労した。同じ病気でも進行の度合いや症状には個人差があるけれど、今の時代は自力で情報を集めることができる。一つの例としてメモしておこうと思います。どこかで誰かの参考になれば幸いです。

父(享年82歳)の経緯について
数年前から緑内障他の目の疾患により視力がほとんどなくなっており、前立腺ガンも患っていたが手術や放射線治療はせずホルモン療法のみを続けていた矢先、どうも様子がおかしいと気が付き、初めて間質性肺炎という診断を受けたのが約1年半前。
本人にはこれが治らない難病であることは最後まで告げなかったが、本人の意思でガンのホルモン薬や痛風の薬など肺以外の薬は一切止めて肺の治療だけに専念することにした。治療といっても、まずは吸引のみを半年ほど続ける。が、去年5月頃急に具合が悪くなり、食事がとれなくなると体重が一気に20kgぐらい減って、みるみるうちに衰弱してしまった。通院もままならない状態になってしまったことと、その時の担当医への不信感もあり、母がネットで在宅医療を専門にしているクリニックを探し在宅介護を開始する。

延命治療は行わず苦しみだけを排除する内容を希望して、緑内障が酷くなる副作用を覚悟した上で大量のステロイド薬を飲み始める。ステロイド薬が効かない場合は打つ手がなかったのだが、父の場合とてもよく効き、少し食欲も出て、家の中をヨロヨロしながらでも歩けるようになった。

しかし、医者の話では長くて3ヶ月ぐらいで薬が効かなくなると聞いていたので家族はそれなりに覚悟した。基本母が一人で介護したのだが、なんとか薬が効いていた約5ヶ月間(今思えば、随分効いていたことになる)は、つきっきりで介護するというほどでもなく、介護する方も2時間ぐらいは1人で留守番させて外出したりする余裕もあった。おまけに父の場合は元々人並み以上の体力と肺活量があったので、リハビリも頑張り酸素吸入もせずに過ごせていた。意外と長生きするんじゃなの~?と、家族も錯覚してしまうぐらいになっていく。

だが、だんだん発作というか、ある日突然グッタリして動けなくなるようになることが多くなった。その度に先生を呼んでステロイド点滴を打つ。すると、また元気に回復して家族を驚かせる。その繰り返しが始まった。
これは、本当にやっかいなことで、嘘みたいに回復するわけです。食欲も。(本人的には、このまま元気になっていくと思いこんでしまうぐらいに!)しかし、具合が悪くなる時とステロイド点滴の間は副作用もあって、目が全く見えなくなるし、機嫌が悪くなり、幻覚も見て、人格すら変わり、介護していた母は気持ちのコントロールがうまくできなくなり寝不足が続き、目に見えて疲れがたまっていった。
私が本格的に実家に滞在して、母の手助けをし始めたのが11月。それからは、あっという間に悪くなっていき、熱が上がったのをきっかけに12月初めに病院に入院。

つづく…




最近のこと(帰省してました)

2015年12月19日 | 旅行(帰省編)
間質性肺炎をわずらいながらも在宅介護でなんとかやっていた父が、徐々に体調が悪くなったり良くなったりの繰り返しの期間が短くなり、一人で看ていた母も体調を崩し始めたので、思い切って父に入院してもらうことにした。入院したは良かったが、目がほとんど見えないので何かと不便で、母が3度の食事の介助などに病院と自宅を行ったり来たり。父も薬の副作用なのか?幻覚をみて毎日日替わりで変なことを言うもんだから、それはそれで面白かったりする内容も。いやいや、そんなこと笑ってる場合じゃなくてですね、時には暴言を吐いて周囲を困らせたりもするわけで。家に帰りたい。死んだ方がいい。と、ダダをこねたり。
そんなわけで、母も、私も、夜な夜なインターネットで病気について調べまくって、同じような病気の方が書かれたブログを読んだりしてそれなりに知識も増えてきた。いちいち医者に聞かなくてもわかることは自分たち流に解決。

勝手に遠い土地に移住した娘としては、両親のことは放っておきながらも気にしないわけにもいかず、仕事を絡めて11月から12月初旬はイベントなどを口実?にしばらく実家に滞在していたので、多少は両親の役に立つことができて少しだけ自己満足している。とりあえず、今すぐどうなるってわけでもないようなあるような?そんな状態なので、近くに住んでいる兄に年末年始は任せて私は一旦帰ってきた。

ちょうど今日、父が退院したとの報告があって、年末年始を自宅で過ごせることができるかもしれないと本人は喜んでいる。母も今後の介護体制をケアマネさんと相談して何とか頑張ると言っている。明日のこともわからないのだが、正月が迎えられたらいいなあ。と、願うのみ。頼むぜオヤジ~!



(ニキ・ド・サンファル展にて写真撮影できた仏像です)

にゃごや

2015年04月12日 | 旅行(帰省編)
友人に誘われて、名古屋のコバレレ珈琲という店の「猫大学」という何やら怪しげ面白げなイベントに参加しています。

私は猫モノを少し置いてもらいました。


お近くの方はどうぞお立ち寄りくださいませ~名大付近の喫茶店です。珈琲美味いです。

と、ここまでは宣伝。ここからは暇つぶしに今回帰省編ベスト1のハプニングネタをば。長文くだらん内容です。

実家で老親の色んな不要品を整理していたらほぼ新品の登山靴が出てきた。サイズ同じなので貰った。ちょうどその日は名古屋の友人宅に泊まりに行き、次の日には名古屋市内で用事が盛りだくさんで歩き回る予定だったので、雨も降っていたし足慣らしがてらその靴で出かけることにした。(いい歳のオバハンが街中に登山靴で出かけるファッションセンスはどうだか?というのはおいておく)

名古屋駅に着き、名古屋地下街を歩いていたら突然靴の底がワニになって剥がれてきた。ええっ?
応急処置をする為に瞬間接着剤を買おうとするが、コンビニが見つからない。
と、その時です!オーマイガー!なんと靴底がポテっと全部剥がれ落ちた~!まるで影が落ちたかのように後ろにポテっと。

折しも場所がスタバの真ん前。誰か見てる?とにかく早く去らねばと焦り、靴底を拾って近くのトイレに駆け込んだ。
個室内でじっくり見ると接着剤で直せるレベルではない。もう片方の靴底も手で簡単に剥がせてしまった。後でネタになるからスマホを取り出し撮影しようとして、はっ!とする。公衆トイレの個室内で撮影音がしたら怪しいじゃないか!撮影は断念してトイレを出る。

さて、どうしましょう?自分が歩くと綺麗な地下街の白い床に劣化した靴底のゴムがまだまだボロボロと落ちてくる。イカン!早く買わねば。とはいえ、どんな靴を買う?地下街の綺麗な靴屋さんしか見当たらない。なにせ地下街なんて帰省しても滅多に来ないから土地勘もない。そもそも履いてる靴を脱いで試着するのが恥ずかしいんですよね~さすがの私でも。

そしたら見つけましたよ。中国人観光客向けみたいな品揃えの雑貨屋を。傘や化粧品や帽子、サングラスに混じってスリッポン靴があった!しかも激安980円!すぐに買って履き替えました。

いやあ、参った参った。友人に実況中継しながら1時間以上遅れて友人宅へ。

これだから田舎者は困るのよね~こうなりゃネタとして会う人会う人に話して披露するっきゃないでしょ!靴の持ち主だったオカンなんて思い出し笑いして楽しんでますよ。みなさん、いくら見た目が綺麗でも古い登山靴はゴムが劣化しています。迷うことなく廃棄しましょう。え?常識でした?
暗い世の中に小さな笑い話を提供させていただきましたとさ。おしまい。

つづき・・・

2014年07月30日 | 旅行(帰省編)
すぐに続きを。と、思っていたら随分日にちが経ってしまった。

観光シーズンに入って少しずつ店にお客様もいらっしゃるようになったので、接客しつつ売るモノを作る日々。そんななかでも夜明けとともに起き、数時間ごとの老犬の介護に追われ、テレビ、DVD、好きな本もゆっくり読めずに時間が過ぎてゆく・・・

陶芸や絵?とんでもない。今はとりあえず生活費を稼ぐだけで精一杯。まあ、焦らずいこうではないか。

さて、帰省旅の記録メモの続きを。
岡山を散策した翌日は、岡山駅を早朝に発ち、静岡県三島にある「クレマチスの丘」へ向かう。三島駅から無料シャトルバスがでているので交通の便が非常に良い。


「イケムラレイコ」展を観る。テラコッタでつくられた巨大なウサギ観音は思ったより大きくて、事前にみたテレビや写真のイメージの数倍も良かった。顔の表情も豊かで作家の手跡も目の前で感じられた。震災後の福島で耳のないウサギが生まれたことがきっかけになって作られた作品だと書いてあった。(ちょっとうろ覚えですが・・・)





もちろん、その大きなウサギには感動したのだけど、展示室の出口付近にあった小さな横たわった顔のオブジェにすごく惹きつけられた。別館のベルナール・ビュフェ美術館では、大きな作品が展示してあり、今までさほど好きでもなかったが感動した。ちょっと?随分?遠回りの帰省旅になってしまったけど、とても有意義な時間を過ごせた。

実質3日間の短い実家滞在になってしまったのに、これでもか!と、名古屋のギャラリーも少し覗き、島に戻りました。

その数日後には、名古屋から学生時代の友人2人(プロの陶芸家と広告デザイナー)が来島。昼間は好きに2人で島内を観光してもらい、夕食だけは、みんなで作って美味しく食事。制作苦労話やお互いにアドバイスしたり色々な刺激的な話が尽きず日々寝不足に。帰省旅で出会った作家さんや友人たちとの会話の中から何かヒントをもらったような?このタイミングで友人たちが来たことの意味?確信みたいな?このまま突き進むしかないということかな。



両親のこともアタマの片隅で心配しつつ、今は足元を見つめてできることを精一杯やるしかない。そんなことを想う今日この頃です。

PS:今回、ガラスのサンドブラスト体験をしてきました。
この機械欲しいなあ。。。。木にもできるみたいだし。。。










岡山、静岡、ギャラリー&美術館巡りしながら帰省

2014年07月13日 | 旅行(帰省編)
6月下旬、鹿児島串木野の借りていた部屋を引き払い、お世話になった方々への挨拶を済ませて岡山、倉敷、静岡のギャラリー&美術館に立ち寄りながらトンボ帰りで実家へ帰省してきました。

老犬介護生活は、ますますハードになってきて動物園の飼育員さながら早朝からコンクリート床をデッキブラシで掃除して、汚れたタオルや座布団などを洗濯。梅雨時期ということもあってそれが全く乾かず次々と干すものが増えていく。洗い替えは大量にあるから困らないけどスッキリしない日々。

色々と試行錯誤で対策を試しているが、無理矢理オムツを装着させる方向で落ち着いてきた。工夫すればなんとかなるもので、尻尾の穴から漏れるのを防止する為にビニール袋をガムテープでくっつけている。犬も気持ちが悪くなると鳴いてくれるので早く気が付けば汚れが最小限ですむようになってきた。足を引きづりながらも動き回るのでオムツがズルズルと外れてしまうのがネックであんまり放置できないが、それでもかなりラクになった。ボケが始まったのかもしれない夜泣きもたまにあるけど、まあ、人間もこの生活に慣れてきたところだ。

そんなわけで、我が家では必ず誰かが留守番するようにして、島外にでるのは一人ずつ交代で行っていたのだが、今回でそれもおしまいにした。これからの夏のシーズンでは生活費も稼がないといけないし、犬が旅立つまでの期間は納得がいくまでお世話することにします。



で、今回の帰省旅の自分メモを少し書いておこうと思います。
倉敷に初めて行ってきた。天気もよくて早朝は人も少なく静かに散歩。



まず、大原美術館で時間をつぶし、木工の超有名組み木作家さんのギャラリーと林源十郎商店というデザインマーケット内のギャラリーで最近気になっていた作家(にしおゆきさん)の個展を見る。
陶製の人形はどれも手のひらサイズで愛らしい。物語のワンシーンを立体で表現している作品など素焼きにアクリル絵の具で着色しているだけなのだろうか?それにしても雰囲気つくるのが上手で勉強になった。2日目だというのにほぼ完売していることにも驚いた。

午後からは岡山駅に戻り、バスを利用してギャラリーを2軒回った。1軒目は、美術館みたいな中規模ギャラリー(アートガーデン)で綿引明浩氏の絵の展覧会とガラス作家さんの個展をみた。綿引さんの作品にはエッチングもあったので自分的にはそれが良かった。2軒目(CAFE×ATELIER Z)は、針金と木工のオブジェ作家さん(結城琴乃さん)の個展初日で、ご本人とたくさん話をすることができてラッキーだった。木工作品は、家のオブジェをたくさん配置して街を作っていました。船をモチーフにしていたり。家のモチーフは色んな人が色んな家を作るけど、ユウキさんの家はあたたかみのある家でした。針金の作品は、とても繊細で揺れる葉っぱなどの空気感が素敵でしたが、自分は蟻の作品に心惹かれて購入しました。木工作品は、仕事柄作ってる方法など容易に想像できてしまうのですが、キレイに作りすぎず、少し手仕事を残したままで完成させることが自分には難しいので他人の作品をみるのは勉強になります。展示の仕方もとても勉強になりました。同じ年代の家庭をもった女性が頑張ってる姿はとても刺激になります。



(つづく)

実家も郊外の田舎なのだ

2013年12月07日 | 旅行(帰省編)


クリマに合わせて実家に帰省中。
ここは、車がないと非常に不便な所。かろうじて住宅地なのでコンビニぐらいはあるけれど、周りは田んぼでスーパーも少し離れたところにある。

唯一の手段が自転車で、颯爽と田んぼの中をビューン!と走っていたら、後ろから来た自転車に追い抜かされた。

え?お年寄り?ええええ?

あ、電動自転車ね。びっくりしたわ。負けた。って、妙な競争心に苦笑い。

自転車でホームセンターと100円ショップをハシゴしながら出店用の備品を探す。
久しぶりにホームセンターに行くと、アレもコレも!と、買いたくなる。離島は物価が高いし、通販も送料が割高だったりして悔しい思いをすることが多くてさ。
それにしても、DIY用品の安さと種類多さよ!すごい便利な世の中ざんすね。本土に住んでたら、何でもできちゃいそう。

100円である程度のモノは買えるから、使えるものはそれで済ませることも出来ちゃうわけだけど、やっぱりなんか味気ない。モノを作ってる立場としては切なくなる。と、いいつつ買ってるんだけど…

そんな感じで2日間は買い物にでたり、趣味で洋裁をするオカンにBAG作りを手伝ってもらって売り物BAGを量産してました。

そして、いよいよ明日はクリマに参戦!よろしくです!

*\(^o^)/*



あいちトリエンナーレ2013

2013年09月14日 | 旅行(帰省編)
先月ちょろっと帰省した際、空いた時間を利用して「あいちトリエンナーレ」に行ってきた。

まずは、一人でふらっと長者町エリアに。
奈良美智さんたちの「THE WE-LOWS ザ・ウィロウズ」カフェ&ギャラリーへ行ってみる。
めっちゃ暑いなか地図片手にようやく辿り着き、アイスコーヒーで生き返る。芸祭みたいなノリの空間で関わった人たちの楽しさが伝わってくる。でもあまりの暑さでギャラリーの作品の記憶が薄い。ここでライブ観れたら楽しそう!いいなあ。


次に「シュカルト」日常的な個人の感情と結びつくデザインを提案し実践的活動を行う?よくわかんないけど、車輪のついた植木オブジェを電車ごっこみたいにロープを引いて歩いてください。って言われて引っ張りながら刺繍のメッセージを見て回った。この車輪つきガーデニングが良いではないか!ねえ?


その後、工事現場みたいな足場の上を歩きながらビルの屋上まで上り、ゾンビ映像に自分を投影させて遊んでみたり。そういや、ここ暑さが半端なくて誰もいなかった。




伏見地下街では、ブルーに染めた階段モチーフの異空間を楽しみながら昭和レトロ感たっぷりの地下街の店先を眺めて楽しんだ。






しかし、とにかく暑くて暑くて。まるで室外機の風に当たってるような空気に息が苦しくなって。名古屋って、こんなんだったっけ?もっとあちこちじっくり観たかったけど途中で断念。瀬戸内芸術祭とかと違って名古屋は日常の中のアート祭だから盛り上がりに欠ける気がしたけど、暑さのせいで人が歩いてなかったのかも。秋になれば盛り上がるのかな?

そして次の日、愛知県美術館で友人たちと待ち合わせ。
入り口の地下でヤノベケンジのサンチャイルドに出迎えられてテンションが上がる。


10階の会場内では、学芸員の説明が聞けるタイミングだったので、せっかくなので他の人たちと一緒に聞きながら観てまわることにした。
が!最初のソン・ドンの部屋でゆっくり観てたら、すでに集団の一番後ろになってしまう。


そして、コーネリア・パーカーの部屋では、管楽器を潰したオブジェがぶら下がる内側に入り込んで怒られる友人たち。なにやってんだか(笑)

その後は、集団から外れてマイペースで観て廻る私たち。あかん。落ちこぼれた。
だってさ、ヤノベケンジの結婚式場の椅子の細工とか、銀ピカのサンチャイルドとか、ゆっくり観たいよね。やっぱり。




あいちトリエンナーレの今回のテーマは、「揺れる大地ー我々はどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」東日本震災後それぞれのアーティストがそれぞれの考えで作品を発表していた。
勉強不足で時間も全然足りなかったけど、他の会場もゆっくり見てまわりたかった。

最後に、ミュージアムショップのガチャガチャでこんなの見つけちゃった!
友人たちにも協力してもらって奇跡的にダブることなく、ほぼ全種類集めちゃった!わーい!わーい!