はてなばばあ

気まぐれに自分メモ的に書いてます。

フラワーズ2016年が始まってます

2016年02月25日 | 仕事のはなし
2月は久しぶりにじっくりと仕事に取り組んでおります。



たまには冬特有の悪天候になり、フェリーも欠航して島暮らしの厳しさを感じることもあるけれど、凍えるような寒さは全くなく、お日様が照ればポカポカ陽気で過ごしやすいです。





去年は、島に来る観光客自体が少なかったので、ウチの店にまで足をのばしてくれる貴重な人も非常に少なくて、実に静かな1年でした。父の様子を見つつ、出稼ぎ?と張り切ってあちこちイベントにも参加しました。



6月名古屋クリエーターズマーケット、10月大阪アートダイブ、11月犬山そうだがや市、12月名古屋ハンドメイド市場、今年1月大阪クリーマパーティが終わって、旅費、宿泊費などを入れたら赤字続行中ですが、それでも色々な勉強ができて新たな出会いも生まれました。

今後のイベント参加は、3月大阪手作りバザール、4月阿蘇クラフト、6月名古屋クリマが控えています。6月クリマは相棒氏が名古屋でイラスト展をやる予定なのでクリマの出店は1人でやってもらう予定。と、いうことは、私は4月以降は当分島に籠もることになりそうです。今後の仕事の内容や計画の見直し、立て直しをしつつ、このままシーズン突入です。さて、今年はどうなることでしょう???


その後(おしまい)

2016年02月12日 | 旅行(帰省編)
なんてまあ、タイミング良く旅立ったことでしょう!あと少し遅かったら除夜の鐘が鳴ってる時に医者呼んだり、お坊さん呼んだり、葬儀場に連絡したりしなくてはならなかった。
とはいえ、急いで医者を呼び、死亡診断書を書いてもらい、葬儀屋に来てもらい、火葬の日にちを決め、ほろ酔い気分の坊さんに来てもらい、気がついたら年が明けていた。年末年始に亡くなるといろいろ大変でした。葬儀場も空いてなくて火葬場も休みだし、結局2晩も自宅で安置することになり、やっぱり正月をみんなで迎えたのだった。喪中になってしまい、母などは世間のおめでたい場所には行きたくない。としばらく言っていた。

生前から家族葬と決めていたが、近くの親戚は呼んだほうがいいか?近所の連絡は?と、悩む必要もなく、ちょうど日にちが日にちなので、正月明けてから事後報告で済ませることができたのも父が日にちを選んで逝ったとしか思えない。兄も仕事が休みの年末年始だったし。私も暇なシーズンオフで自由に動けた。

去年の春からカウントダウンは始まっていたのに並々ならぬ頑丈な身体だったのだ。医者がいうには、絶対しんどかったはずなのに弱音を一度も吐かなかったですね。って。薬の影響でワガママ暴君にはなったけどね。しかし、病院で死を迎える場合と比べて自宅で看取るというのは、思っていたより大変なことだった。症状は刻一刻と変わるし、対処する家族も何もかも初めての経験で、本人の気持ちと家族の気持ちのギャップ。死を待つような複雑な心境。

1番困るのが、間質性肺炎の病気の症状の複雑さ。数時間前まで普通だったのが、いきなり全身の力が抜けて動かなくなること。ステロイドの薬が効くと魔法のように頭がハッキリして食欲がわくこと。緑内障の目が見えなくなったこと。そして、一体どうなったら終末なのか?その目印は何なのか?酸素は足りているのに悪いのか?血圧?脈?数値をネットで調べまくって状態を素人なりに確認する日々。個人差という難しさ。すべて終わった後では何だか遠いことのようだ。

しかし、今回肉親の死を間近で観察できたことは、ものすごく良かった。人間はこうやって枯れて死んでいくのか。そして灰になる。死生観というか、人間、身体、生きてること、死んでいくこと。みんないつかは死んでいく。さっきまで生きていた人も。自分も。死んだらおしまい。何もできない。生きてるだけで儲けもん。もうちょっと頑張って、やりたいと思うことがあるのならやりましょう。先のことは頑張った分だけは何か変わるはず。そう信じていくしかない。

そんなこと考える今日この頃です。

父の介護中の笑ネタを最後に。
ある日、兄に任せて母と二人で買い物に出かけていた時のことです。口が乾きやすいので唇や口腔内に塗るジェルがあるのですが、父が兄にそれを塗ってくれと頼んだら、不慣れな兄は、そのジェルがどれだか知らず、近くにあったジェルをみつけて「これか?」と、父に聞いたらしい。父は目が見えないので舐めさせたら「なんかいつもと味が違うけど、いいや、それで」と、それを口に塗ったそうだ。
私たちが帰ってみたら、それは座薬を入れる時に座薬の先に塗るものだったのだ~!!!!!
不謹慎ですが、もう、お腹抱えて笑った。笑った。看護師さんにも白状したけど、何度思い出しても笑えるので葬式中にも思い出して困った。知らぬは仏様だけ~
いやはや、ネタとして家族間では語り継がれることでしょう・・・


父、逝く(自分メモ)

2016年02月12日 | 旅行(帰省編)
随分日にちが経ってしまいました。続きを書いておこうと思います。(長文)

退院の日にちが決まって、自宅での受け入れ準備を整える。母一人では大変なので、訪問看護士さんに毎日来ていただくようお願いした。排便の補助、着替えなど手伝ってもらえることになり、少し安心。父の容態は、今すぐどうかなるというわけでもなさそう。との入院先の医者の言葉に安心して一旦私は島に帰ることにした。今というのが数日ということだったのかもしれないが、素人の自分たちにはわかるはずがない。なぜなら、父が気分の良い時は受け答えもしっかりして、食欲もあったので。

そして、私が帰った数日後、無事退院して本人は大喜び・・・したのも束の間、再び熱が出てくる。急いで母が訪問の医者を呼ぶが、本人がステロイド点滴を拒む。もう注射はこりごりだと言う。今思えば、この時本人も覚悟したのかもしれない。

母と医者の相談の結果、辛さ、苦しさだけは、できるだけ除いてあげたいので、本人には告げずモルヒネを始めることになった。モルヒネを開始したら肺の病気の場合、早い人で1日後に亡くなることもある。と、脅かすものだから、私は、急いで戻ってきた。1週間前に帰ったばかりの娘が、こんな年の押し迫った年末に舞い戻ってくること自体おかしいと思っただろうに、父は何も言わない。
サラリーマンの兄も頻繁に見舞いに来るようになり、実家で寝泊りも始めた。父は気分の良い時には、兄に今まで何も話してこなかった自分の家系の話を必死で伝えていた。どこかで伝えておかねばと気になっていたらしい。来年の大河ドラマの話もしていたので、本人としては、そのうち死ぬとは思っていたが、こんなに死が迫っていたとは思っていなかったようだった。

そして、モルヒネが始まった。てっきり注射だと思っていたら、初めは座薬と飲み薬だった。ステロイドの効果が残っており、かろうじて体調が戻り、モルヒネも良く効いて不思議なぐらい呼吸が楽になった。母と「このまま穏やかに逝けるといいね」などと話していた。

が、そんなに甘い話はないのである。次第に熱も出るようになり息も荒くなってきた。食欲が全く無くなった為、薬を飲むのもできなくなりお腹に針を刺して、そこからモルヒネを挿入する方法がとられるようになった。医者からも無理に水も飲ませなくても良い。と、言われて、いよいよ終末を迎えているのだと実感する。

しかし、ウチの父は、若い頃から目が見えなくなるまで、暇さえあればカメラ担いで山登りしていて基礎体力と肺活量が人並み以上にあったので、これがまた、ギリギリまで強いのだ。呼吸も苦しいはずが一生懸命呼吸法を実践して寝返りすら自分でできる時はしていた。が、はたから見る限り息が荒くて苦しそうだった。酸素吸入は必要ない程度に酸素もとれており、看護師さんは明るい顔でまだまだ大丈夫ですよ!って。

年末だったので、家族は正月迎えるんじゃないか?と、本気で思っていた。正月から医者や看護師さんに来てもらうのも何だか悪いね。とか、言いつつも、医者の長くて1週間というタイムリミットが12/31だったことが気になりつつ、30日を迎えた。いよいよか?と、相棒氏にも来てもらう。31日昼には兄の子供たちとも言葉を交わす。

15:00頃、意思の疎通ができなくなった。訪問看護師さんに診てもらうと、あと数時間。看護師さんが帰った後は、母、兄、相棒氏と4人で見守る。手足が冷たくなってくると、さすがに涙が止まらない。それでも最後の砦の丈夫な心臓が脈を打っていた。

17:00頃だったかな?すぐに頭が右に傾いてしまうので、母がいつものように頭をくいっと真っ直ぐに直してあげた。と、その時です。父の呼吸が止まりました。

なんてこと!?最期に三途の川を渡るために母が舟を押し出したのだった。